いつから気になっていたのか聞かれて、ノート一冊分の些細なきっかけを思い出した
翌朝、昇降口で上履きに履き替えながら、私は頭の奥へそっと意識を向けた。
昨日の夕方、水城京也くんと別れてからというもの、頭の中の同居人はずっと落ち着かない様子だった。
『昨日からずっと脳内シミュレーションを回してるんですけどね、先輩』
(……まだやってたの?)
『勝率が一桁なんですよ! 水城先輩、歴史の厚みが凶悪すぎます! 名前呼び捨ての幼馴染で、自販機の好みを把握してて、しかも後輩女子から慕われてる爽やかイケメンですよ!? お兄ちゃん、勝ち目が薄すぎません!?』
(勝手に勝敗をつけないで。あと、誰と誰が戦ってるわけ?)
『お兄ちゃんと水城先輩に決まってるじゃないですか! 結衣先輩をめぐる熾烈な本命争いです!』
(めぐってないから。京也くんは昔からの幼馴染なだけだし、成瀬くんとも何もないって昨日言ったでしょ)
ため息をつきながら二階への階段を上がる。
登校してくる生徒たちの賑やかな話し声と、上履きの擦れる音が階段に反響していた。窓から差し込む朝の光は白く澄んでいて、昨日の夕暮れが嘘のように爽やかな朝だった。
教室に入り、自分の席へ向かう。
隣の席にはまだ誰もいなくて、椅子が整然と引かれたままだった。成瀬くんはまだ来ていないらしい。
私が鞄を机の横に掛けたところで、葵ちゃんがぐっと身を乗り出すような気配を漂わせてきた。
『……ねえ、結衣先輩』
(なに?)
『お兄ちゃんと結衣先輩の間には、何か過去のビッグイベントとかないんですか? 歴史の差を一発でひっくり返すような、強力なフラグです!』
(あるわけないでしょ。そんな漫画みたいなこと)
『じゃあ、そもそも先輩って、いつからお兄ちゃんのこと気になってたんですか?』
不意を突かれた質問に、筆箱を出そうとしていた私の指先がぴたりと止まった。
『気になってたんですよね? 隠したって分かりますよ、先輩いつもお兄ちゃんのこと目で追ってますし!』
(それは……)
喉の奥に言葉が引っかかる。
成瀬くんのことが好き、なんて言葉は、今でも口が裂けても認めたくない。けれど、「いつから気になり始めたのか」と聞かれれば――思い当たる場面は、確かにひとつだけあった。
(……別に、大したことじゃないけど)
『なんですか! 教えてください!』
葵ちゃんが頭の中で耳をそばだてるのが分かった。
私は小さく息を吐き、誰もいない隣の机をぼんやりと見つめながら、数か月前の記憶を手繰り寄せ、思い出したことを一つずつ葵ちゃんへ向けて伝えていった。
(春の……席替えの後くらいかな。二年生になってすぐの頃)
当時の成瀬くんは、今みたいに疲れ切った顔はしていなかった。
無愛想ではあったけれど、どこか飄々としていて、たまに前の席の男子とくだらない雑談をして短く笑うこともあった。
私にとっては、ただの「隣の席の男子」。挨拶を交わすくらいで、特別な用事でもなければ話しかけることもない、クラスの背景の一部だった。
ある日、私は風邪をこじらせて学校を一日だけ休んだ。
翌日、熱は下がったものの、まだ少し身体が重いまま登校した。前日の授業で進んだ分のノートを誰かに見せてもらおうか、でも友達に頼むのも少し申し訳ないなと、休み時間に机でペンを回して迷っていたときだった。
隣の席で、鞄から無造作にノートを引っ張り出す音がした。
「白川」
低く短く呼ばれて、私は思わず顔を上げた。
「え?」
成瀬くんは前を向いたまま、机の境界線のギリギリのところに、一冊のノートをぽんと置いた。
「昨日のノート、いるか」
「……え?」
「日本史。お前、昨日休んでただろ。写すならどうぞ」
それだけ言うと、成瀬くんは頬杖をついて、何事もなかったかのように窓の外へ視線を戻してしまった。
恩着せがましい態度も、照れくさそうな素振りも何もない。隣の席の人間が一日いなかったから、ただ親切で貸してくれただけの、淡々とした気遣いだった。
けれど、ノートを受け取った私の胸に残ったのは――
(……私が昨日休んでたこと、気づいてたんだ、って)
その、小さな驚きだった。
いつも窓の外ばかり見ていて、周りのことなんて気にしてなさそうに見えた人が、私が一日いなかったことに気づいていて、自分からノートを差し出してくれた。
開いたノートには、飾り気のない、少し角ばった読みやすい文字が並んでいた。
シャーペンを走らせながら、ふと横を見ると、成瀬くんは退屈そうにあくびを噛み殺していた。
恋に落ちた、なんて劇的なものじゃない。
ただ、それまでただの「隣の席」だった彼が、なんとなく視界の端に引っかかるようになった。彼が窓の外を眺める横顔や、教科書をめくる指先を、気づけば目で追うようになっていた。
成瀬くんからノートを借りたのは、その一度きりだったけれど。
私の思考が途切れると、頭の奥底で、長い沈黙が落ちた。
一秒、二秒。
『…………それだけですか?』
拍子抜けしたような、心底あっけにとられた声が返ってきた。
『えっ、少女漫画なら「風邪で寝込んでいるヒロインの家にプリントを届けに来ておでこコツン」とか「雨の中びしょ濡れで傘を差し出す」とかじゃないんですか!? ただノートをぽんと置いただけ!?』
(だから、大したことないって言ったでしょ。成瀬くんにとっては、別に深い意味なんてなかったはずだし)
『それだけで目で追うようになっちゃったんですか先輩!? ちょろすぎませんか!?』
(ちょろいって言わないで! 誰だってちょっとは意識するでしょ!)
脳内で反論しながら、顔に熱が集まるのを感じて下を向く。
葵ちゃんは『うわぁ……』と頭を抱えるような気配を見せていたけれど、やがてふっと、その騒々しさが途切れた。
『……でも』
小さく、ぽつりと声が落ちてくる。
『……お兄ちゃん、やるじゃん』
(え?)
『お兄ちゃんっぽいです。無愛想なくせに、そういう変なところだけちゃんと見てるの。……ふふ、ちょっとだけ見直しました』
誇らしげで、けれどどこか嬉しそうな葵ちゃんの声。
ノート一冊の小さな思い出でも、私の中にはちゃんと残っていた。
葵ちゃんにとっても、それは兄らしい出来事だったらしい。
「おはよ、白川」
引き戸が開く音とともに、聞き慣れた低い声が降ってきた。
見上げると、成瀬くんが鞄を肩に掛け、少し眠そうに目を細めて立っていた。目の下にはまだ薄い隈があるけれど、数日前のような張り詰めた刺々しさは薄れている。
「……おはよう、成瀬くん」
私が返すと、成瀬くんは短く頷いて隣の席に腰を下ろした。
やがて朝のホームルームが終わり、一時間目の授業のチャイムが鳴り響いた。
国語の教師が教壇に立ち、チョークを手に取って黒板に向かう。
「じゃあ教科書の六十四ページ開け。前回の続きから入るぞ」
教室中にパラパラとページをめくる音が広がる中、隣の席から、カサリと鞄をまさぐる微かな音が聞こえてきた。
視線をやると、成瀬くんが机の横に掛けたスクールバッグの中に手を突っ込み、眉を寄せていた。机の中を手探りで確認し、もう一度鞄の底を漁る。
教科書が見当たらないらしい。
成瀬くんは小さく息を吐くと、諦めたように手を引っ込め、机の上にノートだけを広げて前を向いた。そのまま板書だけ写してやり過ごすつもりなのだろう。
隣の席との間には、数十センチの隙間がある。
『あ、お兄ちゃん教科書忘れてる――』
葵ちゃんが頭の中で声を上げかけた、その瞬間。
葵ちゃんに何か言われるよりも早く、私は自分の開いた教科書を机の端へ滑らせ、そのまま自分の机を少しだけ成瀬くんの側へ寄せていた。
不意の動きに、成瀬くんが少しだけ目を丸くしてこちらを見た。
「成瀬くん」
「ん?」
「……見る?」
短く、それだけ聞いた。
成瀬くんは差し出された教科書と私の顔を交互に見つめ、一瞬だけぽかんとしたあと、ふっと目元を緩めた。
「……わりぃ。助かる」
成瀬くんが自分の机を、ほんの数センチだけこちらへ引き寄せた。
コトリ、と二つの机の端が小さく触れ合う。
並んだ机の中央に置かれた教科書を、二人で挟むような形になった。
黒板にチョークが当たる硬い音が響く中、隣の近さを意識した途端、耳の奥がじわりと熱くなる。
『……先輩』
頭の奥底から、信じられないものを見るような声が聞こえてきた。
(なに?)
『今、私が何も言ってないのに自分から行きましたね?』
(……困ってたから。それだけ)
『ふーん? 先輩、お兄ちゃんにノート借りたこと、ちゃんと覚えてたんですねぇ』
(うるさい。前見て、ノート取るよ)
心の中で必死に言い返しながら、私はシャーペンを握り直した。
黒板に向かいながら、視界の端で、成瀬くんが同じページへ視線を落としているのが分かる。
並んだ机の上の教科書を見つめながら、私は誰にも気づかれないように、小さく息を吸い込んだ。




