幼馴染は負けヒロインだと安心した脳内の義妹が、男の幼馴染だと気づいて絶叫した
『NTR!?』
(は!?)
「ちょっ、何言って――」
思わず声に出しかけて、慌てて自分の口を手で塞いだ。
教室の前扉に手をかけたまま硬直する私の目の前で、廊下に立っていた相手が、少しだけ首を傾げて目を丸くした。
「結衣? どうした、変な顔して」
制服のブレザーのポケットに片手を突っ込み、困ったように眉を下げて笑っている。
水城京也くん。
一学年上の高校三年生で、昔からの幼馴染だった。
『結衣先輩、この人誰ですか!? なんで名前で呼んでるんですか!? 先輩、まさかお兄ちゃんというものがありながら浮気!? 裏切りですか!?』
(浮気なわけないでしょ! 誰の彼氏よ、成瀬くんと付き合ってすらないわ!)
『じゃあ誰なんですか、このやたら爽やかな人は!』
(水城京也くん。三年生で、昔からの幼馴染だから)
『幼馴染!?』
頭の中でキンキン鳴り響いていた葵ちゃんの叫びが、ふっと止まった。
一拍の静寂のあと、すうっと深く息を吐き出す気配がする。
『……ふう。びっくりしたぁ。なんだ、幼馴染ですか』
(え?)
『安心しましたよ。幼馴染なんて、全漫画・全アニメにおいて「負けヒロイン」の筆頭格じゃないですか。どれだけ可愛くても、どれだけ昔からの思い出があっても、最終的に新学期にやってきた転校生とか隣の席の相手に全部持ってかれる運命の前座ですよ。完全な安心安全枠です』
(……あのね、葵ちゃん)
『はい?』
(さっき自分で「男の人ですよね」って言ってなかった?)
『…………』
しん、と頭の奥が静まり返った。
一秒、二秒。
『……男じゃん!!』
(今さら!?)
『負けヒロインじゃなくて、ただの超ハイスペックな幼馴染ライバルキャラじゃん!! 少女漫画なら一番手強くて最後まで主人公の邪魔してくるやつですよ!? なんで男の幼馴染なんですか!?』
(私が決めたわけじゃないでしょ!)
脳内で頭を抱えて転げ回る葵ちゃんの騒音に耐えながら、私は現実の表情をなんとか引き戻した。
「あ、ごめん京也くん。ちょっと考え事してて」
「そう? 急に自分の口押さえるから、変な虫でも飛び込んできたのかと思った」
京也くんは軽快に笑いながら、廊下の壁から背中を離した。
整った目鼻立ちに、さらりとした癖のない髪。派手な着崩しはしていないのに、どこか垢抜けて見える。
「京也くん、二年生のフロアに何か用事?」
「職員室の帰り。こっち通ったら、ちょうど結衣が出てくるのが見えたからさ」
「あ、そうなんだ」
「結衣は今から帰り? ちょうどいいし、下まで一緒に行こうよ」
「うん、いいよ」
二人で並んで廊下を歩き出す。
京也くんと並んで歩くことに、今さら照れも緊張もない。
けれど、頭の中の同居人はそうではなかったらしい。
『……ちょっと待って。歩くの近くないですか? あと「結衣」って呼び捨てにした! 先輩も普通に「京也くん」って返してるし!』
(昔からそう呼んでるんだから当たり前でしょ)
『当たり前じゃないです! お兄ちゃんなんて、いまだに「白川」ですよ!?』
(成瀬くんと比べるのやめなさいって)
京也くんの隣は、昔から変わらない空気で息がしやすい。
成瀬くんの隣だと、こうはいかない。息が詰まりそうになって、意識すればするほど手元が狂う。
階段にさしかかったところで、下から上がってきた女子生徒の二人組とすれ違った。
女子生徒たちは京也くんの姿を認めるなり、ぱっと表情を明るくして足を止めた。
「あ、水城先輩。お疲れ様です」
「お疲れ。これから部活?」
「はい、体育館行ってきます!」
「頑張ってね」
京也くんが柔らかく目を細めて手を振ると、後輩の二人は嬉しそうに顔を見合わせ、軽く小走りで階段を上がっていった。
『うわぁぁぁぁ……! 自然に後輩女子を撃ち落としてる……! 先輩、この人学校でモテるんですか!?』
(まあ……人当たりいいし、面倒見いいからね。嫌われてるところは見たことないかも)
『スペック高すぎでしょ! お兄ちゃんの無愛想パラメータと真逆じゃないですか!』
葵ちゃんが頭の隅で爪を噛むような気配を漂わせている間に、私たちは一階の渡り廊下を抜け、昇降口の手前にある自動販売機の前へ差し掛かった。
「あ、京也くん、ちょっと待って。飲み物だけ買っていい?」
「ん、いいよ」
私はスクールバッグから小銭入れを取り出し、自販機の前に立った。
百円玉を投入口へ滑り込ませると、チャリ、と小気味いい音が響く。
どれにしようか指先を迷わせていると、隣に立った京也くんが、並んだボタンをちらっと見て短く吹き出した。
「結衣、お前まだそれ飲む気?」
「え?」
見上げると、京也くんは自販機の右上、黄色いパッケージのレモンティーのボタンを指さして苦笑していた。
「昔からそればっかり選ぶよな」
「……別にいいでしょ。好きなんだから」
「いや、変わんないなと思ってさ。たまには他のにすればいいのに」
「たまには緑茶とかも飲むよ」
「嘘つけ。迷った挙句に、最後は絶対それ押すだろ」
「……知ったようなこと言わないで」
私は少しだけ唇を尖らせながら、レモンティーのボタンを押し込んだ。
ガコン、と重い音を立てて取り出し口にペットボトルが落ちてくる。
「知ってるから言ってんの」
京也くんは屈託なく笑って、私がしゃがんでボトルを取り出すのを待っていた。
頭の奥底で、葵ちゃんが短く息を呑む気配がした。
『……っ、な、なんですか今の。先輩の昔まで知ってますよ、みたいなナチュラルマウントは……!』
(マウントじゃないってば。本当に昔から知ってるだけ)
『知ってるから問題なんですよ!! お兄ちゃんなんて、先輩がチョココロネ好きだって、この前やっと知ったばっかりなのに! 歴史の厚みが違いすぎる……!』
「結衣? 行かないの?」
立ち止まっていた私を、下駄箱の前まで進んでいた京也くんが振り返って呼んだ。
「あ、うん、今行く」
私は冷たいペットボトルを鞄に押し込み、足早に駆け寄った。
昇降口でローファーに履き替え、外へ出る。夕暮れの涼しい風が、火照った頬を撫でて通り抜けていった。
校舎の影がグラウンドに長く落ち、遠くで運動部の掛け声が反響している。
「俺、駅前の本屋寄ってくけど、結衣はどうする?」
校門を出たところで、京也くんが立ち止まって聞いてきた。
「私はまっすぐ帰る。今日、ちょっと課題残ってて」
「そっか。じゃあ、またな。車に気をつけて帰りなよ」
「うん。京也くんもね」
京也くんは軽く片手を上げると、駅へ向かう人波の中へ、軽やかな足取りで紛れていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、私は駅とは逆の、自宅へ続く通学路へ歩き出す。
アスファルトに自分の影が一つだけ伸びていた。
さっきまでの騒々しさが嘘のように消え、静けさの戻った頭の奥から、小さな声がぽつりと落ちてきた。
『……結衣先輩』
(なに?)
『あの人、モテます?』
(うん。昔から結構)
『…………』
返事はすぐには来なかった。
カラスの鳴き声が遠くで響き、電柱の影を通り過ぎる私の足音だけが規則正しく続く。
(……葵ちゃん?)
そっと意識を向けると、数秒の沈黙のあと、葵ちゃんは絞り出すような、本気の焦りを帯びた声で呟いた。
『……お兄ちゃん、やばくないですか?』




