隣の男子がこぼした弱音を聞いて、脳内の義妹が異常なカウントダウンを始めた
朝のホームルーム前、教室には登校してきた生徒たちのざわめきが満ちていた。
前の席から振り返った秋林冬華が、机に両肘をついてこちらの顔を覗き込んできた。
「結衣、おはよ。……なんかさ、最近ほんと成瀬くんと話すようになったよね」
「え? そうかな」
「そうだよ。前は席が隣でもプリント回すくらいだったのに、最近は普通に雑談してるし」
冬華は面白がるような、けれど詮索しすぎない調子で唇を尖らせた。
「席が隣だからね。嫌でも話す機会は増えるよ」
「ふーん? まあ、成瀬くんが誰かと喋ってるの自体、珍しいから目立つんだけどさ」
冬華が笑って自分の席へ向き直ったのとほぼ同時に、前扉が開いて成瀬くんが入ってきた。
肩にスクールバッグを掛け、いつもの少し俯きがちな姿勢で歩いてくる。隣の席に腰を下ろした彼に、私は机の上のノートを整えながら、短く声をかけた。
「成瀬くん、おはよ」
「……ん、おはよ」
低く返して、成瀬くんは鞄から筆箱を取り出した。
頭の奥で、葵ちゃんがくすくすと笑う。
『先輩、自然な挨拶いただきました! 初期のギスギス感を思えば、確実に関係値は積み上がってますよ!』
(ギスギスなんてしてなかったでしょ。普通だったの)
『その「普通」を越えるのが大変なんですから。ふふん、今日も推し活が捗りそうです!』
いつも通りの賑やかな調子に、私も心の中で小さく息を吐いた。
昨日の教科書や、そのあとのボランティア。少しずつ積み重なってきた時間が、二人の間に漂う空気をほんの少しだけ柔らかくしているように思えた。
◇
けれど、その穏やかな空気は、昼休みにふとした拍子で崩れた。
四時間目のチャイムが鳴り終わり、教室の中が机を動かす音や購買へ急ぐ足音で騒がしくなる。
私は持ってきたパンの袋を開け、隣を見た。
成瀬くんも購買には行かず、鞄からコンビニのサンドイッチを取り出していた。
二人して静かに一口、二口と口に運ぶ。
教室の前方では男子たちが週末のゲームの話で声を上げて笑い、窓の外からはグラウンドを走る運動部の掛け声が小さく届いていた。
「……成瀬くん」
「ん?」
「昨日、病院……間に合った?」
昨日のボランティアの後、小走りで駅へ向かった背中を思い出して尋ねると、成瀬くんはサンドイッチを持つ手をふと止めた。
窓の向こう、遠くの青空を見つめるように視線を漂わせる。
「……ああ。間に合ったよ」
声のトーンが、いつもよりわずかに低かった。
成瀬くんは包装のビニールを指先で小さくいじり、それから誰に言うでもないような調子で、ぽつりと零した。
「……昨日、先生と話した」
「先生って……病院の?」
「ああ」
成瀬くんは視線を落とし、机の木目をじっと見つめた。
「まだ、いつ起きるか分からないって。……今のところ、はっきりした変化もないってさ」
乾いた声だった。
感情を荒立てるわけでもなく、淡々と事実を並べているだけなのに、その声の底に重い澱のようなものが溜まっているのが分かった。
「……」
少しの間があった。
成瀬くんはサンドイッチの袋を小さく握り潰し、自嘲するように短く息を吐いた。
「……俺、もう起きないのかなって思っちまって」
喉の奥が、冷たい水で塞がれたように強張った。
かけるべき言葉が、何ひとつ見つからない。
先生が「もう回復しない」と言ったわけじゃない。それは成瀬くんの言葉からも分かった。けれど、毎日のように病室へ通い、動かない妹を見つめ続けてきた彼の中で、その「変化がない」という事実がどれほどの重さを持って響いたのか――それを考えただけで、胸の奥が痛んだ。
「……悪ぃ。変なこと言った」
成瀬くんはすぐに顔を上げ、努めて平然とした顔を作ってサンドイッチを口に運んだ。
それ以上、彼が口を開くことはなかった。
そして――私の頭の中もまた、信じられないほどの静寂に包まれていた。
いつもなら、成瀬くんが少しでも声のトーンを落とせば大騒ぎするか、あるいは切なそうに息を呑むはずの葵ちゃんが、完全に気配を消していた。
頭蓋骨の内側に、冷たい風が吹き抜けていくような、張り詰めた沈黙だけが残されていた。
◇
異変は、午後の五時間目から始まった。
日本史の授業中、教師の単調な声が教室に響く中、私はノートの端に小さくペン先を置いた。
隣の成瀬くんは、前を向いたまま淡々と板書を書き写している。
(……葵ちゃん?)
心の中で、そっと呼びかけてみた。
昼休みの成瀬くんの言葉を聞いてから、ずっと黙り込んでいた同居人へ向けて。
『あ、はい! 聞いてますよ、結衣先輩!』
返事は、恐ろしいほどすぐに返ってきた。
いつもなら「なーにー?」と少し間を置くはずなのに、こちらの思考が終わるか終わらないかのうちに、早口な声が耳の奥に飛び込んでくる。
『大丈夫です、問題ありません! ちょっと作戦の再構築をしてただけですから!』
(作戦……?)
『はい! 結衣先輩、次の作戦です! のんびりイベント待ってる場合じゃありませんでした! 今日の放課後、即決着をつけます!』
(は……? 即決着って、何の話)
『告白ですよ告白! 善は急げ、鉄は熱いうちに打て、恋のタイムアタックモード突入です! 今日の放課後、お兄ちゃんを捕まえてそのまま最終イベントに突入してください!』
まくしたてるような葵ちゃんの声に、私は思わず眉をひそめた。
いつものゲーム用語を並べ立てた調子だ。けれど、言葉の選び方がどこか不自然に突っ慳貪で、声のスピードが異常に速い。
(ちょっと待ってよ。成瀬くん、お昼あんなこと言ってたんだよ? そんな時に告白なんて――)
『そんな時だからですよ!』
葵ちゃんが、遮るように声を張り上げた。
『早くしないと! お兄ちゃん、一人で変なことばっかり考えて、どんどん閉じこもっちゃうじゃないですか! 今日! 今日言わなきゃダメなんです! 次のチャンスなんて待ってられません!』
(葵ちゃん……?)
『早く、早くお兄ちゃんを引っ張り上げてあげてください! 先輩ならできるから! 今日、放課後絶対ですからね!』
間を置かずに次々と飛んでくる言葉。
その必死な性急さに、私は息を呑んだ。
――俺、もう起きないのかなって思っちまって。
成瀬くんの掠れた声が、耳の奥から離れない。
(葵ちゃん……焦ってる?)
呼びかけても、葵ちゃんは『今日の放課後ですからね! 絶対ですよ!』と、無理に作った早口の声を重ねてくるだけだった。
◇
六時間目が終わり、終礼のチャイムが鳴り響いた。
担任が連絡事項を告げ、号令とともに教室の空気が放課後のそれへと切り替わる。
隣の成瀬くんは、終礼が終わるや否や、教科書を鞄へ押し込んだ。誰とも目を合わさず、椅子を引いて立ち上がる。
その横顔には、昼休みのあの暗い影が張り付いたままだった。
そのまま足早に前扉へ向かっていく成瀬くんの背中を見て、頭の奥で葵ちゃんが叫んだ。
『先輩、今! 今すぐ追いかけて!!』
(っ……!)
『教室出ちゃいます! 今ここで捕まえて、告白してください! 早く、早く行かないとお兄ちゃん行っちゃいますよ!!』
頭蓋骨を直接揺さぶるような切迫した声。
私は反射的に机の上のスクールバッグを掴み、立ち上がった。
周囲の生徒たちが「お疲れー」「部活行くか」と声を掛け合う中、私の足は前扉へと向かう。
けれど――廊下へ踏み出す直前、私の足はぴたりと止まった。
『先輩!? なんで止まるんですか! 早く走って!!』
(待って)
『待てません! 今行かないと、お兄ちゃんが――』
(待ってってば!)
心の中で強く叫び、私は一歩を踏みとどまった。
葵ちゃんがいつもと違うほど焦っているのは、痛いほど分かった。
昼休みの成瀬くんも、あんな顔をしていた。
何かしてあげたい。どうにかしたい。そんな気持ちに、私自身も強く引っ張られていた。
けれど――成瀬くんを好きになったのは、他でもない私だ。
(……告白するなら、私が決める)
『え……?』
頭の中の葵ちゃんが、息を呑んで押し黙った。
私はスクールバッグをぎゅっと握り直し、自分の足で床を蹴った。
教室を出て、廊下を走る。
下校する生徒たちの間をすり抜け、階段へ向かって歩いていく黒髪の背中を追う。歩幅が速い。
「成瀬くん!」
階段の手前で声をかけると、成瀬くんの足が止まった。
彼がゆっくりと振り返る。
「……白川? どうした、そんな走って」
「ちょっと……いい?」
成瀬くんは不思議そうに首を傾げながらも、私と一緒に階段を下りてくれた。
一つ下の踊り場まで来ると、さっきまでの教室前のざわめきが少し遠くなった。
至近距離で見る彼の顔には、昼休みに見た疲れがまだ残っていた。
頭の中の葵ちゃんは、完全に沈黙していた。
今度は、誰にも急かされていない。
私は大きく息を吸い込み、真っ直ぐに、成瀬くんの瞳を見つめた。
「私、成瀬くんのこと、好き」
夕方の冷たい風が、踊り場の窓から吹き抜けていった。
成瀬くんは、目を見開いたまま固まっていた。
何を言われたのか理解できないように、ぽかんと唇を開き、それから視線を彷徨わせる。
やがて、その喉がかすかに上下した。
「……え」
掠れた声が、ひとつ漏れた。
彼はぎゅっと拳を握りしめ、視線を足元の床へと落とした。
数秒の、痛いほどの沈黙。
そして――
「……ごめん、白川」
低く、絞り出すような声だった。
「今は……そういうの、考えられない」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
成瀬くんは苦しげに顔を伏せたまま、それ以上何も言わなかった。
そして私の頭の中でも――葵ちゃんは、息を殺したように、一言も喋らなかった。




