購買でパンを奢られることになったら、頭の中の義妹が我慢の限界を迎えた
朝、スマートフォンのアラームを止めた私の目に、見慣れない通知が飛び込んできた。
画面中央に表示された電子書籍アプリのアイコン。そこには、見覚えのない購入履歴が表示されていた。
購入済み――『他人の身体を乗っ取るには――意識と肉体のオカルト入門』
思わずベッドの上で固まった。
寝ぼけた目をこすり、購入履歴を二度見する。間違いなく、昨夜の日付で決済されている。
(……ねえ、葵ちゃん)
『……はい』
(これ、なに?)
頭の奥から返ってきたのは、やけに小さく縮こまった声だった。
『ええと……その、ポチっちゃいました』
(ポチっちゃいました、じゃないでしょ! 私、昨日の夜こんな本探してないんだけど!)
『だって結衣先輩、昨日の夜、アプリ開いたまま寝落ちしかけてたじゃないですか! ちょうどこの本がおすすめに出てて、購入ボタンのすぐ近くに指があったから……ほんのちょっと動かしたら、買えちゃって』
(だからって、勝手に私の身体使わないで! あんた、本気で乗っ取る気なの!?)
『乗っ取るわけないでしょ! 乗っ取れるならとっくに自分でお兄ちゃんに抱きつきに行ってますよ!』
葵ちゃんはいつもの調子で反論してきたけれど、その声の端が、ほんの少しだけ震えているのが分かった。
『……ただ、その。あんな本でも読んで笑ってないと、やってらんないっていうかさ』
ぽつりと落ちてきた小さな本音に、私はそれ以上怒ることができなくなった。
昨日の病室の光景が、まぶたの裏に浮かぶ。
シーツの上でピクリとも動かなかった、少し爪の伸びた彼女の指先。
頭の中ではこんなにも騒がしく生きているのに、現実の身体は二週間ずっと、病院のベッドで眠ったままなのだ。
(……次から勝手に押さないで。読みたいなら先に言って)
『……はい。ごめんなさい』
小さく謝る葵ちゃんの気配を感じながら、私はベッドから起き上がって制服に着替えた。
◇
午前中の授業の間、葵ちゃんは驚くほど静かだった。
普段なら『お兄ちゃんの背中見て!』『今、欠伸した顔が可愛い!』などとちょっかいを出してくるのに、今日はずっと息を潜めている。
昨日の今日だ。無理もないとは思うけれど、静かすぎると逆にこちらの調子が狂ってしまう。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
教室内が一気にざわめき、ノートをしまう音や机を移動させる音が重なり合う。
「結衣、今日どうする? 購買行くなら一緒に行かない?」
前の席から振り返ったのは、秋林冬華だった。
短めの髪を揺らしながら、机の上に肘をついてこちらの顔を覗き込んでくる。
「あ、冬華。ええと、今日は――」
言いかけた私の横で、ガタッと椅子を引く音がした。
隣の席の成瀬くんが立ち上がり、制服のポケットに財布を突っ込みながら、まっすぐに私を見下ろしていた。
「白川、行くぞ。混むぞ」
「え?」
「購買。……昨日、言っただろ」
成瀬くんの言葉に、冬華が目を丸くして私たち二人の顔を見比べた。
「え、ちょっと待って。成瀬くんと二人で?」
「あ、いや、これはその……!」
「先行くぞ」
成瀬くんは私の狼狽を気にする様子もなく、廊下へ向かって歩き出した。
私が慌てて立ち上がったその瞬間、頭の奥で何かが弾け飛ぶ音がした。
『……無理でしたーーーーっ!!』
(わっ、耳元で叫ばないで!)
『昨日の今日だから! 少しは大人しくして結衣先輩のメンタルを気遣おうと思ってたんですけど! 無理です、限界です! だってお兄ちゃんの方から結衣先輩を購買に誘ったんですよ!? 購買デート発生です先輩!!』
(デートじゃないって言ってるでしょ! ただの借りを返す約束!)
脳内で全力疾走を始めた葵ちゃんの騒ぎ立てる声に背中を押されるように、私は「ごめん冬華、ちょっと行ってくる!」と言い残して、成瀬くんの背中を追って教室を飛び出した。
◇
昼休みの廊下は、購買を目指す生徒たちの足音でごった返していた。
少し前を歩く成瀬くんの足取りは、教室にいたときより少し軽く見えた。
購買の前にはすでに人だかりができていて、パンの並ぶ平台の周りには人垣ができている。
「混んでるな」
成瀬くんが生徒の頭越しに棚を覗き込み、振り返って私を見た。
「で、何にする? ……ツナマヨでいいんだろ?」
「え?」
当然のように言われ、私は思わず眉を寄せた。
「ツナマヨって……成瀬くん、もしかして私があれ大好物だと思ってた?」
「違うのか? この前ツナマヨ食ってたし、好きなのかと思ってた」
「違うから! あれはただ……手が滑っただけ! 別にツナマヨが一番好きなわけじゃないよ」
私がむっとして言い返すと、成瀬くんは少しだけきょとんとしたあと、ふっと口元を緩めた。
「じゃあ、何が好きなんだよ」
まっすぐに向けられた視線に、喉の奥がきゅっと締まる。
人混みの喧騒の中、私は棚に並ぶパンの列を見つめ、小さく息を吸い込んだ。
「……チョココロネ」
「チョココロネ?」
「……うん。昔から、パン屋さん行くとそればっかり選んじゃうの」
成瀬くんはもう一度棚に視線を戻すと、手を伸ばして、ビニール袋に入ったチョココロネをひょいと掴み取った。
「じゃ、これな」
「えっ、もう取るの?」
「迷ってたら売り切れるだろ」
成瀬くんは自分の分の惣菜パンをもう一つ掴むと、手際よく小銭を出して購買のカウンターで会計を済ませてしまった。
「ほら。この前の分」
差し出されたチョココロネを受け取ると、袋越しにほんの少しだけ温かい。
『先輩!! 聞きました!? 今の聞きましたよね!?』
受け取ったパンを見つめて固まる私の頭の中で、葵ちゃんが猛烈な勢いで拍手を打ち鳴らした。
『「じゃあ何が好きなんだよ」ですって! お兄ちゃん、結衣先輩の好みを把握しにかかりましたよ! 好みを覚えられるのは、ヒロイン昇格への第一歩です!!』
(静かにしてってば……!)
「……ありがとう。でも、私があげたの半分なのに、一個もらっていいの?」
「いいって」
「でも――」
「じゃあ半分よこせ」
「やだよ。チョコ出るでしょ」
「じゃあいいだろ」
成瀬くんが短く笑った。
その顔は、事故の前に教室で見ていたものに少しだけ近かった。
◇
二人で教室に戻ると、成瀬くんは自分の席に座り、さっそくパンの袋を開け始めた。
私も自分の席について、買ってもらったチョココロネを机の上に置いた、その瞬間。
「……結衣〜?」
ぬっと、前の席から冬華が顔を覗かせてきた。
腕を組み、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、値踏みするように私と机の上のパンを見つめている。
「な、なに、冬華」
「なになに、じゃないよ。いつの間に成瀬くんとあんな仲良くなってたわけ? この前も放課後、二人で話してたし、今日はわざわざ購買までご案内?」
「ち、違うってば! この前パン半分あげたから、そのお礼!」
「へえー? あの成瀬くんが、女子にパン奢るんだ」
冬華は面白そうに目を細めると、机に身を乗り出して小声で囁いてきた。
「ふーん……まあ、今のお昼休みは見逃してあげるけどさ。放課後、ちゃんと話聞かせてもらうからね?」
「だから、何もないってば……!」
反論する私の焦りまくった顔を見て、冬華は「はいはい」と満足そうに笑って自分の席へ戻っていった。
ため息をついて机に突っ伏しそうになった私の耳の奥で、葵ちゃんの楽しげな声が弾む。
『先輩、お友達にロックオンされてますよ!』
(……もう、誰のせいだと思ってんのよ)
『私のせいじゃないもん! お兄ちゃんが結衣先輩にパンを奢りたかったからだもん!』
悪びれもせずに笑う葵ちゃんの声を聞きながら、私は机の上のチョココロネへ、もう一度目を落とした。




