ベッドで眠る義妹にブランケットを掛けたら、頭の中のあいつが初めて言葉を失った
放課後の駅の改札前で、成瀬くんは昨日の生活雑貨店の紙袋を提げて待っていた。
制服のブレザーのポケットに片手を突っ込み、行き交う人々の足元をぼんやりと見つめている。その姿を見つけた瞬間、私の頭の奥で甲高い声が跳ね上がった。
『先輩、ちょっと! 私の顔見て引いたりしないでね!?』
(自分の顔でしょ)
『二週間も寝てる自分の顔なんて知らないもん! ちょっと、変な寝癖ついてないかな!? 顔むくんでたりしないよね!?』
まくしたてる葵ちゃんの声は、いつも以上に早口だった。
私は歩み寄る足を少しだけ緩め、心の中で短く息を吐き出した。
「成瀬くん、待たせてごめん」
「いや、俺も今来たとこだから」
成瀬くんは紙袋を持ち替え、駅の出口へ向かって歩き出す。
病院へ向かうバス停までの道のりを並んで歩く間、昨日ブランケットを選んでいたときのような会話はなく、成瀬くんの口数は明らかに減っていた。前を向いたまま進む歩幅は少しだけ速く、けれどどこか重い。
この二週間、成瀬くんは何度この道を歩いたんだろう。その横顔を見上げながら、私は何も言えずに鞄の持ち手を握りしめていた。
◇
総合病院の自動ドアをくぐると、消毒液の冷たい匂いが鼻先をかすめた。
白い蛍光灯の下、看護師たちの足音が静かに響いている。エレベーターで一般病棟のフロアへ上がり、長く続く廊下を進む。ナースステーションの角を曲がると、窓から差し込む夕暮れの光が床を淡く染めていた。
一つの病室の前で、成瀬くんの足が止まった。
「……入るぞ」
成瀬くんの指が引き戸に掛かった瞬間、頭の中で葵ちゃんが『……っ』と息を呑んだ。
私が見なければ、葵ちゃんも今の自分を見ることができない。
逃げ出したいような緊張が首筋を這い上がったけれど、私は目を逸らさず、ゆっくりと開いていく扉の先を見つめた。
からから、と引き戸が引かれ、静かな部屋の空気が流れ込んでくる。
部屋の中央に置かれたベッドの上には、一人の女の子が横たわっていた。
白いシーツに包まれるようにして、静かに目を閉じている。胸元が、呼吸に合わせてかすかに上下していた。
――その瞬間、頭の中の声が完全に消えた。
信じられないほどの静寂が、私の頭蓋骨の内側に落ちてきた。
毎日、耳の奥でうるさいほどぎゃあぎゃあ叫び、私を振り回していた女の子。
その本人が、現実には指一本動かすことなく、物音ひとつ立てずに眠り続けている。
頭の中に響く声のあまりの生々しさと、目の前で横たわる身体のあまりの動かなさ。その埋めようのない落差に、息が詰まる。
「葵。連れてきたぞ」
成瀬くんが、普段よりも少しだけ低い、けれど柔らかな声で呼びかけながらベッドサイドへ歩み寄った。
もちろん、返事はない。少女のまつ毛はピクリとも揺れなかった。
成瀬くんは慣れた手つきで紙袋からラベンダー色のブランケットを取り出すと、両手で広げ、眠る妹の胸元から下へふわりと掛けた。
白い病室の中で、ラベンダー色だけがやけに目に残った。
「白川と一緒に選んだんだ。……似合ってんじゃん」
成瀬くんは妹の額にかかった前髪をそっと指先で払い、ブランケットの端を整えた。
そして、壊れ物に触れるような仕草のまま、ぽつりと落とす。
「早く起きろよ」
成瀬くんはシーツから手を離すと、振り返って私を見た。
「……白川。少し、声かけてやってくれないか」
「え?」
「妹も、同じ学校のやつの声が聞こえたら、何か違うかもしれないだろ。……俺が横にいたら喋りづらいよな。下の自販機で茶でも買ってくるから」
「あ、成瀬くん――」
引き止める間もなく、成瀬くんは小さく手を挙げて、病室を出ていった。
パタパタと廊下を遠ざかる足音。
病室には、私と、ベッドに横たわる葵ちゃんだけが残された。
◇
部屋の中に、規則正しい呼吸の微かな音だけが響いている。
私は迷いながらも、ベッドのすぐ横まで歩み寄った。
「……成瀬葵さん」
現実の喉を使って、そっと名前を呼んでみる。
「成瀬くんと同じクラスの、白川結衣です。……成瀬くんに頼まれて、これ、一緒に選んだよ」
返事はもちろんない。
けれど、頭の奥底から、今までに聞いたこともないほど細く、震える声がぽたりと落ちてきた。
『……はじめまして、じゃないよぉ』
泣き出しそうな、あまりに小さな声。
私の視線が、ベッドの上に投げ出された少女の手に留まる。細い指先、少し伸びた爪。枕に広がる髪は、少しだけ艶を失ってパサついていた。
『……爪、伸びてる』
葵ちゃんが息を呑む気配がした。
『ねえ先輩、私の指……ピクリとも動いてない? ほんとに?』
(葵ちゃん……)
『嘘でしょ……動いてよ。私の身体でしょ……? なんで……っ』
頭の中で葵ちゃんがどれだけ叫んでも、目の前の指先は動かなかった。
やがて、絞り出すような溜息が落ちてきた。
『……お兄ちゃん、ずっとこれ見てたんだ』
私は、何も言えなかった。
ベッドの上のラベンダー色を見つめながら、ただ息を潜めることしかできなかった。
からから、と引き戸が開き、成瀬くんが戻ってきた。
手には温かい缶のお茶が二本握られている。
「悪ぃ、待たせたな。……これ、飲むか?」
「……ありがとう」
受け取ったスチール缶の熱が、冷え切っていた手のひらにじんわりと染み込んでくる。
成瀬くんは妹の寝顔をもう一度だけ見下ろし、「そろそろ面会時間終わりだな」と静かに言った。
「白川、声かけてくれてありがとな」
「ううん……大したこと言えなくて、ごめんね」
「いや。あいつ、きっと聞いてたよ」
◇
病院を出て、帰りのバスを降りたときには、すっかり空は藍色に沈んでいた。
駅の改札の前で、成瀬くんが立ち止まり、私に向き直る。
「白川。今日……付き合ってくれてありがとな。あいつの顔、見てもらえてよかった」
「ううん。私も、行けてよかった」
成瀬くんは少しだけ口元を緩めると、ポケットに手を突っ込み、ふと思い出したように言った。
「……明日、昼、一緒に購買行かね?」
「え?」
「この前のパンの分。今度は俺が一個奢るからさ」
そう言って、成瀬くんは小さく手を振って改札へ消えていった。
私はその背中を、しばらくの間、静かに目で追っていた。
一人になって電車を待つホームで、私は鞄の持ち手を握りしめながら、頭の中の同居人に意識を向けた。
葵ちゃんは、いつものように「放課後デートお疲れ様でした!」とも、「撃破率上昇です!」とも言わなかった。
『……先輩』
(なに?)
『今日、来てくれてありがと』
小さな感謝のあと、葵ちゃんは少しだけ言葉を迷うように息を潜めた。
『……私、決めた』
(え?)
『私、絶対に戻る』
迷いのないその声に、私は胸の中で深く息を吸い込んだ。
(……うん。戻ろう)
電車が入ってくる強い風が、私の前髪を揺らした。
私は前を向いたまま、誰にも気づかれないように、しっかりと頷いた。




