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痛いし傷ついてるから、惚気は一個ずつしか受け付けない

 病棟の廊下を歩く足音が、リノリウムの床に低く吸い込まれていく。

 面会時間の札を首から提げて四階の角を曲がると、前方の自動販売機の前で見慣れた制服の背中が目に入った。


 成瀬くんだ。

 缶コーヒーを取り出し口から抜き取り、立ち上がったところで、彼も私の足音に気づいて顔を向けた。


「……白川」


「成瀬くん」


 二人の距離が、数歩のところで止まる。

 制服のブレザーのポケットに片手を突っ込んだ成瀬くんは、缶の冷たさを確かめるように指先を動かした。

 成瀬くんは視線をわずかに私の足元へ落とし、それから静かに言った。


「……次は、黙るなよ」


「……うん」


 私はまっすぐに彼を見つめて、短く返した。


「……あいつ、起きてるから」


 成瀬くんはそれだけ言うと、缶コーヒーを持ったまま、病室とは逆の談話室の方へと歩いていった。


 深呼吸をひとつして、病室の引き戸へ手をかける。

 からから、と音を立てて扉を開けた。


 ベッドの上で、葵ちゃんが背中を起こしていた。


 数日前よりも顔色が格段によくなり、ラベンダー色のカーディガンの袖から覗く指先にも、血色が戻っている。

 扉の音に跳ねるようにこちらを向いた彼女の瞳には、明らかな緊張が張り付いていた。


「結衣先輩」


 喉を通って届く、現実の声。

 頭の中からではなく、今はちゃんと目の前から聞こえてくる。


「体調、どう?」


「……だいぶいいです。お粥も全部食べられましたし、車椅子なら少し動いてもいいって先生に言われました」


「そっか。よかった」


 パイプ椅子を引き寄せて腰を下ろすと、葵ちゃんはシーツの端を両手で握りしめた。

 視線が、私のブレザーの胸元あたりを彷徨っている。

 いつもの軽口も、突っ込みも出てこない。


 やがて、葵ちゃんは意を決したように顔を上げた。


「……先輩。昨日、お兄ちゃんと話しました」


「……うん」


 成瀬くんのあの態度を見れば、何か大きな対話があったことくらい分かっていた。

 私は膝の上でスクールバッグを抱え直した。


「私、ちゃんと自分で言いました。……結衣先輩の頭の中にいたこと、なんでお兄ちゃんに教えなかったのか」


 葵ちゃんの声は少し震えていたけれど、逃げずに言葉を紡いでいた。


「お兄ちゃんに知られたら、もっと待っちゃうと思ったからだって。……でも、それってお兄ちゃんを信じてないのと同じで、私が勝手にお兄ちゃんのためだって決めつけてただけだったって……ちゃんと謝りました」


「成瀬くん、何て?」


「……怒られました。『もう勝手に俺のこと決めるな』って。……全部は許してもらえなかったですけど、でも……ちゃんと、聞いてくれました」


 葵ちゃんは唇を噛み、それから、目を伏せた。

 指先がシーツの布地を強く掴み直す。


「それで……そのあと」


 病室の空気が、ふっと密度を増した。

 窓の外から、遠くを走る救急車のサイレンが微かに聞こえてくる。


「……私、言いました。妹としてだけじゃなくて、お兄ちゃんのことが好きだって」


 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


「そしたら……お兄ちゃんも、言ってくれました。……私のことが好きだって。結衣先輩を通さないで……ちゃんと、私の目を見て、言ってくれました」


 大きな黒い瞳が、私を捉えた。


「……付き合うことに、なりました」


 静かな病室に、その事実だけが落ちた。


 二人がお互いを好きでいることは、もう知っていた。

 それなのに。

 頭の中で聞いていた時とは違う。目の前にいる、血の通った女の子の口から突きつけられた現実が、胸の奥を重く押し潰す。


 葵ちゃんは、私の顔から目を逸らさなかった。

 ただ静かに、私の返事を待っていた。


 数秒の沈黙。

 私は一度目を伏せ、息を深く吐き出した。


 膝の上の鞄を見つめ、それから、顔を上げる。


「……おめでとう」


 声は、少しだけ掠れていた。

 満面の笑顔なんて作れなかったし、拍手を送る余裕もなかった。


「……先輩」


「でもね」


 私は唇の端を少しだけ引き結び、まっすぐに葵ちゃんの目を見た。


「普通に、まだめちゃくちゃ痛いから」


 葵ちゃんが息を止める。


「私、振られたばっかりなんだからね。聖人君子じゃないんだから、『よかったねー!』なんて手放しで喜べるわけないでしょ」


「……はい」


「だから……惚気は、一個ずつにして。一気に何個も持ってこられたら、普通に耐えられないから」


 私が少しぶっきらぼうに言い放つと、葵ちゃんは数秒の間ぽかんと目を丸くした。

 それから、張り詰めていた肩の力がふっと抜け、困ったように眉を下げて笑った。


「……分かりました。一個ずつにします」


「絶対よ。二個目に行きそうになったら耳塞ぐから」


「あ、でも先輩、親にはまだ言ってないですからね? 二人で、ちゃんと退院の目処が立ってから話そうって決めたので……そこはまだこれからなんです」


「そう。それは二人でしっかりやりなさいよ」


 葵ちゃんは少しだけそわそわと視線を泳がせ始めた。

 頬がほんのりと赤らみ、話したくてたまらないという熱が全身から滲み出ている。


「……あの、結衣先輩」


「なに」


「その……一個だけ、言ってもいいですか?」


「……一個だけなら、聞いてあげる」


 許可を出した瞬間、葵ちゃんの表情がパッと華やいだ。

 頭の中で騒ぎ立てていた、あの笑顔が、生身の顔いっぱいに広がっていく。


「あのですね! お兄ちゃん、付き合おうって言ったあと、顔真っ赤にして『……病室じゃ手ぇ握れねえから、早く退院しろ』って言ったんですよ! あの無愛想なお兄ちゃんがですよ!? めちゃくちゃ可愛くないですか!?」


「はいはい、可愛い可愛い」


「棒読みすぎます! それでですね、そのあと私の頭をポンってして――」


「ちょっと!!」


 私は思わず立ち上がり、ベッドの柵を掴んで声を上げた。


「一個ずつって言ったでしょ! もう二個目に入ってんじゃないの!」


「ええっ!? まだ一個目です! 『告白された時の萌えエピソード』という括りで一つの枠です!」


「そんな大雑把な括りがあるか! 頭ポンは完全に別のイベントでしょ!」


「先輩の判定が厳しすぎます! 減点方式ですか!?」


「当たり前でしょ、失恋したての女子を甘く見ないで!」


 言い募る葵ちゃんに言い返しながら、私は思わず額を押さえた。


 みぞおちのあたりは、まだズキズキと痛んでいた。

 笑い飛ばせるほど立ち直ってはいないし、成瀬くんへの気持ちが一瞬で消え去ったわけでもない。


 それでも。


 目の前で、自分の口を使って夢中で喋るこの子を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

 頭の中の同居人は消えてしまったけれど、私の目の前には、まだちゃんと、この厄介な友達がいた。

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