ちゃんと声に出さなきゃ、もうあんたには届かない
病棟のエレベーターを降りると、あの夜と同じ、少し冷たい消毒液の匂いが鼻先を掠めた。
けれど、窓から差し込む光は夜の白光ではなく、穏やかな午後の陽射しだ。
意識が戻ったと知らされた金曜の夜から、数日が過ぎていた。
検査や医師の確認が落ち着き、短時間の面会なら身体への負担も少ないと判断されて、私は今日、成瀬くんに案内されてここへ来ている。
静かな廊下を、成瀬くんの二、三歩後ろについて歩く。
成瀬くんはブレザーのポケットに片手を突っ込み、一度もこちらを振り返らないまま、ゆっくりとした足取りで前を進んでいた。
駅の改札で合流した時も、必要最低限の言葉しか交わしていない。
渡り廊下で交わしたあの告白と拒絶、そして秘密を明かした時の硬い空気は、決して消え去ったわけではなかった。
病室の前に着き、成瀬くんが引き戸に手をかける。
「……母さんは売店行ってるから、今、中あいつ一人だ」
「うん」
「入るぞ」
からから、と静かに扉が開いた。
白いレースのカーテンが引かれた病室。
少しだけ起こされたベッドの上に、その子はいた。
ラベンダー色のカーディガンを羽織り、背中にクッションを当てて上半身を起こしている。
長い髪は丁寧に梳かれて肩に下ろされていた。
まだ少し顔色が青白く、目の下に微かな疲れが張り付いているけれど――その瞳は、しっかりと開いていた。
扉の音に気づいて、ベッドの上の少女がゆっくりと顔を動かす。
そして、私の姿を捉えた瞬間。
――その唇が、小さく開いた。
「……結衣先輩」
息が、止まりそうになった。
私の頭蓋骨の内側から響く、あの甲高い響きじゃない。
病室の空気を震わせて、喉を通り、私の耳へまっすぐに届いた、かすれて頼りない、生身の現実の声。
成瀬くんが壁際のパイプ椅子を引いた。
手元にあった急須を掴み、視線を廊下へ向ける。
「……俺、給湯室行ってくる。お茶淹れてくるから、少し話してろよ」
「あ……うん」
成瀬くんは妹の顔を見ないまま、足早に病室を出ていった。引き戸が閉まり、廊下へ遠ざかる足音が消える。
静まり返った病室に、私と、ベッドの上の葵ちゃんだけが残された。
至近距離で目が合う。
以前、この部屋で眠る彼女を見下ろした時は、視線が交わることなんてなかった。
私の目を通してしか世界を見られなかった女の子が、今は、自分のまぶたを開けて、自分の黒目がちな瞳をまっすぐに私へ向けている。
喉が張り詰めて、うまく言葉が出てこない。
あの日、この病室で名乗った私に返ってきた一言を、思い出した。
「……はじめまして」
すると、葵ちゃんは少し困ったように眉を下げ、それからふわりと、いたずらっぽく口元を緩めた。
「……はじめまして、じゃないですよ」
「……うん。知ってる」
答えると、視界がじんわりと熱くなった。
葵ちゃんはベッドの上で、首を小さく傾げながら、まじまじと私の顔を見つめてくる。
「……ちゃんと見えます」
「え?」
「結衣先輩の顔。……鏡に映ったのじゃなくて。ちゃんと、自分の目で見えます」
「……そう」
「思ってたより、ちっちゃいです」
「一言余計よ」
思わず口を尖らせると、葵ちゃんは「ふふっ」と小さく肩を揺らして笑った。
けれどすぐに喉を押さえ、少し苦しそうに息を吸い込む。まだ長く笑うだけの体力もないのだ。
葵ちゃんはシーツの上に置かれていた自分の右手を、おずおずと持ち上げた。
点滴の痕が残る、細い腕。
私の手首を勝手に引っ張っていたあの力ではない。自分の意思で、ゆっくりと、震えながら伸ばされてくる指先。
私は迷わず一歩近づき、差し出されたその手へ、自分の右手を重ねた。
触れた手のひらは、少しだけ乾燥していて、驚くほど温かかった。
指先が私の手の甲を頼りなく包み込む。
生きて、ここにいる。
その確かな手触りが、皮膚を通して胸の奥へじわりと染み込んでいく。
「……先輩」
「ん?」
「あの……お兄ちゃんが、言ってたこと」
葵ちゃんの声が、急に小さくなった。
「……全部、聞こえてました。金曜日の放課後のこと」
「……うん」
「私、お兄ちゃんに……ちゃんと、自分で言わなきゃいけないことがあって」
葵ちゃんはぎゅっと私の指を握り直した。
「でも、その前に……先輩に言わなきゃって思って」
「私に?」
「はい。……約束、忘れてないですよね」
葵ちゃんの唇の端が、少しだけ持ち上がった。
(忘れるわけないでしょ)
私は心の中で返事をして――そして、葵ちゃんがきょとんと目を丸くしたのを見て、ハッと息を呑んだ。
そうだ。
もう、頭の中には届かないのだ。
「……あ」
「……結衣先輩?」
「ご、ごめん! 声に出てなかった!」
私が慌てて取り繕うと、葵ちゃんは数秒の間ぽかんとした後、吹き出すように肩を揺らした。
「もう……聞こえないんですから、ちゃんと喋ってくださいよ」
「しょうがないでしょ、ずっとそうやって話してたんだから……!」
耳まで熱くなるのを感じながら、私は咳払いをひとつして、自分の喉を使って言い直した。
「忘れてないわよ。ツナマヨとチョココロネでしょ」
「半分交換です」
「知ってる。……でも、あんたがちゃんと歩けるようになって、退院してからね」
「もちろんですよ。トングもお金も、自分で持つんですから」
葵ちゃんは誇らしげに顎を引いた。
どこか弱々しいけれど、間違いなく私の頭の中で散々暴れ回っていたあの葵ちゃんだった。
からから、と引き戸が開き、急須を手にした成瀬くんが戻ってきた。
「葵、そろそろ横になれ。あんまり長く起きてっと熱出るぞ」
「えー……お兄ちゃん、過保護」
「うるせえ。先生にも言われてんだろ」
成瀬くんは妹と目を合わせないまま、手早くクッションを外してベッドを元の位置へと静かに倒し始めた。
葵ちゃんもまた、どこか気まずそうに視線を泳がせている。
長居はできない。
私は握っていた手をそっと離し、一歩後ろへ下がった。
「じゃあ……私、もう行くね」
頭の中で念じるだけじゃ、この子にはもう届かない。
だから私は、まっすぐに彼女の目を見て、声を出した。
「また、来るから」
葵ちゃんは布団を胸元まで引き上げてもらいながら、小さく頷いた。
「はい。……またね、結衣先輩」
現実の病室に響いた、その声を受け止めて、私は病室の引き戸を閉めた。
静かな廊下へ出ると、遠くのナースステーションから小さな電子音が聞こえてくる。
頭の中へ意識を向けてみても、そこにはもう、騒がしい声も、文句も、軽口も存在しなかった。




