もう頭の中のどこを探しても、あんたのやかましい声は聞こえない
バスの座席に座ったまま、私の指先は膝の上の鞄に食い込んでいた。
エンジンの微かな振動。窓の外を後ろへ流れていく街灯の列。
周囲の音は全部聞こえている。それなのに、さっきまで私の頭蓋骨の内側にあったはずの声の場所が、すっぽりと抜け落ちていた。
「……白川?」
横から、成瀬くんの声が降ってきた。
座席の隣から、私の強張った横顔を覗き込んでいる。その目には、隠しようのない不安が浮かんでいた。
今度は、もう誤魔化さない。
私は震える唇を開き、乾いた声を絞り出した。
「……成瀬くん」
「どうした」
「……聞こえなくなった」
成瀬くんの眉が、ぴくりと跳ねた。
「今、また……葵ちゃんの声が、途切れた」
成瀬くんの息が詰まる音がした。
渡り廊下で話したばかりの、あの不気味な空白。
成瀬くんは膝の上で両手を握り、食い入るように私を見つめた。
「……呼んでみろ。何か、言わねえのか」
言われなくても、心の中ではもう何度も呼んでいた。
(葵ちゃん?)
返事は、ない。
(葵ちゃん、聞こえてる? ……ねえ)
静かだった。
いつもなら、呼べばすぐに騒がしい声が飛んできたはずの場所が、ただ冷たい空洞になっている。
私は爪を手のひらに食い込ませ、いつもなら絶対に飛びついてくるはずの言葉を投げた。
(……ツナマヨ、やっぱり全部私が食べるから)
返ってこない。
(昨日の約束、なしにするよ。半分こなんて、してあげない)
『横暴です!』とも、『民主主義の危機です!』とも、何ひとつ返ってこない。
ただ、自分の思考が暗闇の中に吸い込まれて消えていくだけだった。
首を横に振る私の顔を見て、成瀬くんの顔から血の気が引いていくのが見えた。
「……まだ、戻らない」
成瀬くんは前方の停留所案内の電光掲示板をじっと睨みつけた。
「……早く着いてくれ」
低く絞り出すような呟きだった。
私は頷くことしかできなかった。
◇
総合病院のロータリーにバスが滑り込むと同時に立ち上がり、私たちは夜風の中をエントランスへ向かった。
面会時間を過ぎたロビーは照明が半分落とされ、静まり返っている。
成瀬くんが夜間窓口へ向かい、宿直の職員へ手短に妹の名前と家族であることを告げた。
職員が四階のナースステーションへ内線を通すと、エレベーターホールの前で待つようにとだけ伝えられた。
病室の向こうで何が起きているのかは分からない。
薄暗いエレベーターホールの壁際で、成瀬くんはベンチに腰を下ろすこともなく、扉の上の階数表示を見つめたまま立ち尽くしていた。
両手をポケットに突っ込み、肩を強張らせている。
私は壁に背中を預け、自分の側頭部に手を当てて目を閉じた。
(……葵ちゃん)
もう一度、強く意識を向けてみる。
けれど、頭の奥にあるのは、冷え切った完全な静寂だけだった。
戻ったのか。
それとも、あの言葉を最後に、どこかへ消えてしまったのか。
答えはどこにもなかった。
待合ホールの壁に掛けられた時計の秒針が、チク、チクと乾いた音を刻み続けている。
私も成瀬くんも口を開かない。
遠くのナースコールが小さく電子音を響かせ、それが遠ざかると、また規則正しい秒針の音だけが戻ってくる。
分針が三つ進み、四つ進む。
ただ立ち尽くして待つことしかできない時間が、やけに長く、重く感じられた。
ピン、と硬い電子音が鳴った。
エレベーターの扉が開き、小走りで出てきたのは白衣の看護師だった。
成瀬くんの姿を認めるなり、まっすぐに歩み寄ってくる。
「総司郎くん」
「あの……葵は」
成瀬くんの声が掠れていた。
看護師は足を止め、努めて穏やかな口調で言った。
「さっきね、葵ちゃんが目を開けたの」
成瀬くんが、息を呑んだ。
「呼びかけにも反応があって、意識が戻っています。お母さんにもすぐ連絡を入れて、今こちらに向かわれているところです」
「……起きたんですか」
「ええ。ただ、まだ目覚めたばかりで声もかすかにしか出せないし、頭もぼんやりしている状態です。今は先生が瞳や手足の反応を一つずつ確認しているところだから」
看護師はそう言って、成瀬くんの腕にそっと手を添えた。
「まだ検査が続いているから、先生の確認が終わるまで病室の外で待ってもらうことになるけれど……お顔は見られますよ。行きましょう」
「……はい」
成瀬くんの喉が大きく上下した。
その目元が微かに潤んでいた。
起きたんだ。
よかった。病院のベッドの上で、本当に目を開けたんだ。
成瀬くんがエレベーターへ向かって歩き出し――ふと足を止め、振り返って私を見た。
何かを言いかけ、けれど言葉を探すように唇を引き結ぶ。
私は小さく首を横に振った。
「成瀬くん、行って」
努めて静かに言った。
「先生の確認もあるし、お母さんも来るんでしょ。……私は、ここで待ってるから」
成瀬くんは数秒の間私を見つめ、それから短く頷いた。
「……分かった」
成瀬くんは看護師に促され、エレベーターの中へと消えていった。
扉が閉まり、インジケーターの数字が四階へと上がっていく。
一人残された薄暗いホールで、私はゆっくりと息を吐き出し、ベンチの端へ腰を下ろした。
ふと、頭の真ん中へ意識を向けてみる。
(……葵ちゃん、起きたんだね)
返事は、ない。
(……よかったね)
やっぱり、何も返ってこない。
いつもなら、耳元でうるさいほどぎゃあぎゃあ騒ぎ立てていたはずの場所。
私の目を盗んで成瀬くんを観察し、くだらない作戦を立てては暴走していた、あのやかましい同居人の気配は、どこにもなかった。
頭の奥にあるのは、どこまでも澄み切った静けさだけだった。
頭の中に返事はない。
けれど、病院のベッドの上では、葵ちゃんがちゃんと目を開けている。
その静けさが、妙に冷たくて、私は膝の上の制服のスカートを、一人で静かに握りしめていた。




