大切な返事を通訳する気なんて、私にはこれっぽっちもない
渡り廊下の冷え切った空気が、そのまま喉の奥に張り付いたようだった。
私の「……うん」という肯定を最後に、二人の間に言葉が落ちてこない。
成瀬くんは足元の影を見つめたまま、動かなかった。
視界の端で、窓から差し込む夕焼けの橙色が、少しずつ濁った紺色に飲まれていくのが分かる。
長い沈黙のあと。
成瀬くんの肩が、微かに震えた。
「……なんで」
低く、押し殺された声だった。
「……なんで、今まで言わなかったんだよ」
顔を上げた成瀬くんの目が、まっすぐに私を捉えていた。
「俺、ずっと……何も知らないで。……あいつが起きないかもしれないって、勝手に諦めかけて、みっともなく弱音吐いて……」
「…………」
「お前は、知ってたんだろ? 葵がずっとそこにいて、俺のこと見てるって……知ってたのに、なんで黙ってたんだよ」
私は制服のスカートを掴み、成瀬くんを見つめ返した。
「……ごめん」
声が、うまく出なかった。
「最初は……そんなオカルト、言っても信じてもらえないと思った。……でも、それだけじゃない」
「……」
「私、成瀬くんが好きだったから」
成瀬くんの眉が、わずかに動いた。
「葵ちゃんがいるって言ったら……私が葵ちゃんとどんな話をしてるのかも、成瀬くんのことが好きなのも、全部バレるのが怖かったの。……土曜日に、あのリモコンの話を聞いた時だってそう。あの記憶なら信じてもらえるって分かってたのに、私が怖くて……病院に戻れなかった」
「葵ちゃんもね……自分がここにいるって知らせたら、成瀬くんがもっと自分のことを後回しにしちゃうって思ってたの」
「……あいつが?」
「うん。自分が身体に戻れる保証もないのに、意識があるって知ったら……成瀬くんがずっと待っちゃうから。学校も、友達も、自分の人生も、全部止めて待っちゃうから……知らせない方が、成瀬くんのためだって思ってた」
頭の奥底で、葵ちゃんが押し黙っていた。
成瀬くんは息を吐き出し、乱暴に前髪をかき上げた。
「……あいつの考えそうなことだ」
吐き捨てるような、けれど苦しげな響きだった。
「理由は分かったよ。……でもさ、だからって言わなくていい理由にはなんねえだろ」
成瀬くんの声は硬いままで、視線も逸らさなかった。
「それに……もう一つ、話さなきゃいけないことがあるの」
「……まだあんのかよ」
「葵ちゃんの声、途切れることがあるの」
成瀬くんの動きが、止まった。
「……途切れる?」
「先週の金曜の夕方から、何度か。私が呼んでも、全然返事が聞こえなくなる時間があって……前は、葵ちゃん自身も途切れたことに気づいてなかったの。普通に喋り続けてるつもりだった」
昨日の夕暮れ、通学路で立ちすくんだ瞬間を思い出しながら言葉を継ぐ。
「でも、昨日の放課後は違った。戻ってきた葵ちゃん自身が……一瞬、真っ暗になって、何の話をしてたか分からなくなったって」
「……病院の先生は、何も言ってなかったぞ。身体の方は、何も変わってないって」
「うん。病院では、身体の状態に変化はないって言われてる。原因も分からないし、これがどういうことなのかも分からない。……でも、ある日突然、本当に声が聞こえなくなっちゃうんじゃないかって思ったら……成瀬くんに黙ってることなんて、できなかった」
成瀬くんは奥歯を噛み締めた。
「……あとね、成瀬くん」
「……なんだよ」
「さっき、成瀬くんが言ってくれたこと……葵ちゃんのことが好きだって言ったのも、葵ちゃん、全部聞いてたよ」
成瀬くんの目が、大きく見開かれた。
耳の付け根から首筋にかけて、一気に赤みが差していく。
「なっ……」
「振られた私の頭の中で、ずっと聞いてた」
成瀬くんは絶句し、視線を彷徨わせた。
やがて、成瀬くんは私の顔を見据えて、掠れた声を出した。
「……葵」
頭の真ん中で、葵ちゃんが『ひっ』と小さく息を漏らした。
「……葵、そこにいんのか。聞こえてんのか」
成瀬くんの、現実の声。
『……聞こえてるよ、お兄ちゃん』
私は成瀬くんを見つめたまま、短く頷いた。
「……聞こえてる。返事、してるよ」
「……あいつ、何か言ってるか? さっきの……俺の言ったことに、何て……」
『私……っ、私も、お兄ちゃんが――』
(言わないよ)
私は心の中で、きっぱりと葵ちゃんの言葉を遮った。
『え……?』
私は成瀬くんに向かって、静かに首を横に振った。
「……それは、私からは言わない」
「白川……?」
「葵ちゃんが成瀬くんをどう思ってるかとか、さっきの返事とか……そういう大事なことは、私を通さないで」
成瀬くんが息を止める。
私は頭の中の同居人へ向けても、強く意識を投げかけた。
(あんたも、私に言わせようとしないで。……自分の口で言いなよ)
『…………』
(自分の身体で、自分の口で、直接成瀬くんに伝えなさい。……言いたいことがあるなら、さっさと戻ってきなよ)
葵ちゃんは、黙り込んだ。
成瀬くんは数秒の間、床を見つめていた。
それから、顔を上げた。
「……病院行く」
「うん」
「白川も、来い」
「うん。私も行く」
私たちは渡り廊下を小走りで抜け、昇降口で靴を履き替えると、夕闇の迫る校門を飛び出した。
◇
駅前のバス停へ向かう道を、早足で進む。
並んで歩く成瀬くんの横顔は硬く、口元は固く結ばれていた。
言葉は交わさなかった。けれど、二人の足並みは自然と速くなっていた。
『……先輩』
頭の奥底から、小さな声が降ってきた。
(なに)
『……さっきは、ありがとうございます』
(お礼なんて言われる筋合いはないわよ。私、あんたの恋敵なんだから。代理で告白なんてやってられるわけないでしょ)
『ふふ……そうですね。先輩に言わせるなんて、一番ダサいところでした』
葵ちゃんの声に、少しだけ笑みが混ざっていた。
けれど、その奥に潜む切実さは消えていない。
『……私、ちゃんとお兄ちゃんに返事したいです。頭の中の変な声じゃなくて、自分の声で……ちゃんと』
(だから、戻ってきなさいってば。ツナマヨ半分こする約束もあるんだから)
『あ! そうでした! ツナマヨとチョココロネのハーフ&ハーフの儀が残ってました!』
いつもの調子を無理に取り戻そうとする葵ちゃんの声に、私の口元も少しだけ緩んだ。
滑り込んできたバスに乗り込み、二人で並んで後方の座席に腰掛ける。
車窓の外を流れる夜の街並みを見つめながら、葵ちゃんがぽつりと呟いた。
『……私、起きたら真っ先にお兄ちゃんに言ってや――』
ぷつり。
頭の中から、声が消えた。
私の思考が、その瞬間に凍りついた。
隣で揺れる成瀬くんの肩。バスのエンジン音。タイヤが道路を擦る音。
周囲の音はすべて聞こえているのに、頭の真ん中だけが、ぽっかりと冷たい空洞になっていた。
(……葵ちゃん?)
呼んでみる。
返事は、ない。
指先が、一瞬で冷え切っていく。
膝の上の鞄を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
(葵ちゃん……? 聞こえてる……?)
何度呼んでも、どんなに意識を尖らせても、返ってくるのは静寂だけだった。
戻ってこない。
先週の金曜日や月曜日のように、続きを話し始める気配すらない。
何が起きたのか、分からない。
「……白川?」
横から、成瀬くんの声が降ってきた。
私が青ざめて固まっているのに気づいたのか、不安そうに私の顔を覗き込んでいる。
私は成瀬くんを振り返ることもできず、ただ、静まり返った自分の頭蓋骨の奥を見つめていた。




