頭の中では返事がないので、隣のあいつに声をかける
放課後の教室から生徒たちの姿がまばらになった頃、私は前の席の秋林冬華と、連絡を入れてわざわざ三階から降りてきてもらった水城京也くんを、中庭に面した渡り廊下のベンチへ呼び出していた。
傾きかけた秋の陽射しが、コンクリートの床を淡い橙色に染めている。
二人が座るベンチの前に立ち、私は抱えたスクールバッグの持ち手をぎゅっと握り直した。
「……二人とも、呼んでごめんね」
「別にいいけどさ。改まってどうしたの? なんか大事な話?」
冬華が首を傾げた。
その隣で腕を組んだ京也くんは、何も言わずに私を見ている。
私は冬華に向き直った。
「冬華。……ちゃんと話してなかったことがあって」
「うん」
「私ね、成瀬くんに告白してたの」
「……は!?」
冬華の目が、信じられないほど丸くなった。腰を浮かせそうになるのを、隣の京也くんが肩に手を置いて軽く制する。
「ちょっと待って、いつ!? え、先々週の木曜とか!?」
「うん。その日の放課後」
私は冬華の驚愕を受け止めながら、順を追って言葉を並べた。
「その時はね、『今はそういうことを考えられない』って断られたの。……でも、私はすぐには諦めきれなくて、待つことにしたの」
「待つって……結衣……」
「それでね、先週の金曜日に、成瀬くんの方からちゃんと答えを出してくれた」
喉の奥が、ほんの少しだけ引き攣る。
あの夕暮れの渡り廊下で交わした言葉が、脳裏をよぎった。
「……今度こそ、ちゃんと振られたよ」
静かな渡り廊下に、私の声が落ちた。
冬華は息を呑み、ぽかんと唇を開けたまま固まっていた。
いつもなら鋭い勘を働かせて茶化してくるはずの彼女が、かける言葉を見失ったように視線を彷徨わせている。
成瀬くんが誰を選んだのかとか、病院で何があったのかとか、そんなことまでは話さなかった。
これは私の恋で、私が振られたという事実だけで十分だったから。
「……そっか」
沈黙を破ったのは、京也くんだった。
組んでいた腕を解き、ゆっくりと息を吐き出す。
「ちゃんと、最後まで聞いたんだな」
「うん。……京也くん、前に話した件、ちゃんと最終回答もらったよ」
「……そう」
京也くんは少しだけ痛ましそうに目を細めたけれど、すぐにいつもの柔らかい顔に戻った。
「まあ……ちゃんと振られたなら、偉いよ。逃げなかったんだろ」
「……普通に、まだ痛いけどね」
強がりを言おうとして、少しだけ本音が零れた。
冬華がおずおずと私のブレザーの裾を引っ張った。
「結衣……私、何も知らなくてごめん。あんなにバーガー屋で騒いだりして……」
「ううん、冬華のせいじゃないよ。話せなくてごめんね」
「うう……結衣ぃ……」
本気で泣きそうな顔をする冬華に苦笑していると、京也くんがわざとらしく大袈裟に肩をすくめた。
「よし。じゃあ結衣の傷を癒すために、今度、合コンでもする?」
空気を軽くするための、いつもの調子。
私は眉を吊り上げた。
「女たらしめ!」
「手厳しいな。俺なりに気遣ったつもりなんだけど」
「水城先輩、それ絶対火に油ですからね!?」
冬華がすかさずツッコミを入れ、渡り廊下に短い笑いが起きた。
私も二人に釣られて、ふっと笑ってしまった。
笑ったあと、胸の奥がきゅっと音を立てて痛んだ。
「……いい男見つけてやるぞ、こんちくしょー」
小さく吐き捨てた言葉に、冬華が「そうだよ! 結衣ならもっといい男捕まえられるって!」と力強く頷いた。
◇
それから、少しだけ時間が過ぎた。
病院でリハビリを続けていた葵ちゃんの回復は順調で、少しずつ自分の足で歩ける距離が伸びていった。
医師や家族からも短時間の外出なら問題ないと許可が下りて、今日、私たちは駅前の商店街で待ち合わせていた。
秋の陽射しが心地いい並木道。
歩道の向こうから、ベージュのコートを羽織った女の子が、少しぎこちないけれど確かな足取りで歩いてくるのが見えた。
「結衣先輩!」
大きく手を振る葵ちゃんの頬には、すっかり健康的な赤みが差していた。
私の前で足を止め、少し息を整えながら誇らしげに胸を張る。
「どうですか! 自力で歩いてきましたよ!」
「はいはい、無理しないでよ。転んだら成瀬くんに何言われるか分からないんだから」
「お兄ちゃん、今朝も『転ぶなよ、走るなよ、寄り道すんなよ』って呪文みたいに言ってきました。本当に過保護なんだから……」
呆れたように肩をすくめる葵ちゃんは、どこからどう見ても、ただの元気な後輩女子だった。
「さあ先輩! 約束を果たしに行きましょう!」
葵ちゃんに促されて足を踏み入れたのは、駅前の小さなベーカリーだった。
焼きたてのパンの甘い香りと、香ばしいバターの匂いが充満している。
葵ちゃんは自分の手でトングとトレイを持つと、目を輝かせて棚の間を進んでいった。
誰かの視界を間借りするのではない。
自分の二本の足で立ち、自分の黒い瞳で棚を見つめ、迷うことなく惣菜パンのコーナーへトングを伸ばす。
カチカチ、とトングを鳴らし、葵ちゃんは目的の品をトレイに乗せた。
ツナマヨパン。
ふっくらと焼き上がった生地の上に、こんがりと焦げ目のついたツナマヨがたっぷりと乗っている。
「ふふん、確保です!」
「嬉しそうね」
「当たり前ですよ。自分の手で掴むツナマヨは格別です」
私も自分のトレイに、昔から大好きなチョココロネを乗せた。
レジへ並び、それぞれのトレイを店員へ差し出す。葵ちゃんは自分の財布から小銭を取り出し、少し震える指先でお金を置いた。
紙袋に包まれたパンを受け取った葵ちゃんの顔は、誇らしさと照れくささでいっぱいだった。
店を出て、近くの児童公園のベンチに並んで腰を下ろす。
公園の銀杏の木が黄色く色づき、穏やかな午後の風が葉を揺らしていた。
葵ちゃんは紙袋からツナマヨパンを取り出すと、真剣な顔で両手でパンを掴み、慎重に力を込めた。
ふに、と柔らかい生地が裂け、中から具が溢れそうになる。
「……あ、危ない、マヨネーズがバーストするところでした」
「昔、私の手の中で盛大に爆発させた前科があるもんね」
「うっ、あれは不可抗力です……! はい、先輩! 半分どうぞ!」
差し出されたツナマヨの半分を受け取り、私もチョココロネを丁寧に半分に割って、葵ちゃんが広げた紙袋の上へ置いた。
チョコの詰まった尻尾側を受け取った葵ちゃんが、満面の笑みを浮かべる。
「ツナマヨとチョココロネのハーフ&ハーフ! これにて完全成立です!」
葵ちゃんは大きく口を開け、ツナマヨパンをかじった。
もぐもぐと咀嚼し、幸せそうに目を細める。
「ん〜〜っ! 美味しい! やっぱりツナマヨこそが世界の覇権です!」
その大袈裟なリアクションに、私の頭の真ん中へ、昔と同じツッコミが反射的に浮かび上がった。
(チョココロネの方が絶対に美味しいに決まってるでしょ)
――けれど。
頭の奥には、何の音も返ってこない。
静かな秋の風が吹いているだけだ。
私はチョココロネを一口かじり、隣に座る葵ちゃんを横目で見た。
口の端に少しだけマヨネーズをつけたまま、幸せそうにパンを頬張っている生身の女の子。
私は喉を通してから、声に出した。
「……チョココロネの方が、絶対に美味しいに決まってるでしょ」
葵ちゃんはパンをくわえたまま目を丸くしてこちらを振り返り、それから不満そうに眉を寄せて言い返してきた。
「なんですって!? このツナマヨのコクと塩気を前にして、まだそんな甘ったるいお菓子パンを推す気ですか!?」
「お菓子パンじゃない、至高のパンよ」
「ツナマヨへの冒涜です! 先輩、味覚のデバフがかかってますよ!」
「デバフじゃないわよ。……っていうかさぁ」
私はパンを持ったまま、ジト目で隣の後輩を睨みつけた。
「なんですか?」
「やっぱりさ、義妹で入院中とかの属性って、せこいよね」
「は!?」
葵ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「なんですか急に! あんなの社会的デバフ以外の何物でもなかったじゃないですか!」
「どこがよ。あんなの男の子からしたら保護欲刺激されまくりでしょ。最初からフラットな条件で勝負してたら、私が勝ってたわ」
「なっ……! 言ってくれますね結衣先輩! フラットだろうがアウェイだろうが、最後にお兄ちゃんが選ぶのはこの成瀬葵ですから!」
「はいはい、大きく出たわね」
「悔しかったらもっといい男捕まえて見せつけに来てくださいよ!」
「言われなくても見つけてやるわよ。ほら、口の端にマヨネーズついてる」
「えっ、嘘!?」
慌てて袖口で口元を拭う葵ちゃんを見て、私は吹き出すように笑った。
葵ちゃんも少し悔しそうにしながら、すぐに釣られて笑い出す。
「先輩、もう一口交換しましょうよ!」
「やだよ。チョコなくなるでしょ」
「ケチ! 減点一ポイントです!」
「勝手に採点すんな」
並んで座ったベンチの上で、私たちは他愛のない文句を言い合いながら、秋の光の中でそれぞれのパンをかじった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
『昏睡中の義妹が、私の頭の中で兄を推してくる』、これにて完結です。
頭の中で騒ぐ葵と、それに言い返す結衣のやり取りは、書いていていちばん楽しいところでした。
二人をツナマヨとチョココロネの半分こまで連れてこられて、ほっとしています。
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現在は『蓮雀寺すみれの御縁旅』を連載中です。
よろしければ、そちらも覗いてみてください!
悠井信人




