「似合ってたよ」と言っても、こいつはもう怒らない
渡り廊下の端まで歩いて壁に寄りかかり、腕を組んで中庭の方を向いた。
十メートルほど後ろに白川がいる。
待っていてほしいと頼まれた。俺にできるのは、振り向かずにここで待つことくらいだった。
葵が好きだと口に出したのは、さっきが初めてだった。
黙って考えていた時よりも、自分の声で聞いたほうがずっと本当のことらしく聞こえて、言った本人のくせに少し驚いている。
ここまで来るのに二日かかった。
始まりは、水曜日に水城先輩からもらった缶コーヒーだ。
◇
あの日の放課後、昇降口の脇の自販機の前を通りかかると、缶コーヒーを二本持った水城先輩に呼び止められた。
「成瀬くん。五分だけ、いい?」
前の週の金曜にも同じ台詞でバーガー屋の二階へ連れて行かれ、五分どころでは済まなかったのを、俺はまだ忘れていない。
「……用事、あるんで」
「知ってる。だから、これを飲み終わるまででいいよ」
差し出された缶をつい受け取ってしまい、それで断れなくなった。
壁際に並んで立つと、下校していく生徒が前を通るたびに、何人かが先輩へ手を振っていく。
事故のあと教室でほとんど誰とも喋らなくなった俺には、こういう人の隣はどうにも落ち着かない。
「金曜は悪かった」
先輩は缶を開けもしないで、先にそう切り出した。
「結衣が朝からひどい顔をしてたもんだから、つい頭に血が上ってさ。事情も知らないくせに踏み込みすぎた」
「……いえ。俺も、失礼な言い方をしました」
「あれは成瀬くんが正しいよ。実際、俺は何も分かってなかったんだから」
笑いながらあっさり認められてしまうと、身構えていたこっちは力の入れどころがなくなる。
「白川から聞きました。先輩に相談したことも、うちのことは何も話してないってことも」
「うん、聞いてない。これからも聞くつもりはないよ」
先輩はそこでようやくプルタブを引いた。
「その代わり、一個だけ教えてほしいんだけど」
「……なんですか」
「その事情ってやつがなかったら、成瀬くんは結衣と付き合ってた?」
すぐに「はい」と言えれば、簡単だった。
白川は変なやつだ。
現国の問三を聞いただけで筆箱を吹っ飛ばしたし、別の日にはパンを破裂させて、俺の机にマヨネーズを落とした。
倒れかけたのを支えてやった直後に、いきなり「……するわけないでしょ、バカ」と言われたこともある。
そのくせ、隣の席にいると、事故の前みたいに肩の力が抜ける時があった。
眠っている葵を家族以外に見せるつもりなんて少しもなかったのに、気がついたら病室まで連れて行っていたくらいだから、俺はたぶん、あいつをかなり信用している。
そこまで分かっていて、葵が明日目を覚ましたあとに白川と付き合っている自分を思い浮かべようとすると、どうしても絵にならなかった。
「……分かりません」
「そっか」
責められるのを待っていたのに、先輩は缶を一口飲んだだけだった。
「結衣はさ、待つつもりでいるだろ」
「……そう言われました。返事は急がないし、これまで通り隣で話すって」
「あいつは本当に待つよ。意地っ張りだから、一年でも二年でも平気な顔して待つ」
隣の席で毎日見ているのだから、それくらいは俺にも想像がつく。
「だからさ、分からないなら分からないって、そのまま言ってやってよ。『今は考えられない』のまま置いておかれるのが、待ってる側には一番きついんだ」
踊り場で白川に言ったあの言葉は、嘘じゃない。
葵が眠っているのに自分だけ普通に恋愛をするのは違うと、今でも思っている。
けれど、あれは断るのに使った理由で、白川をどう思っているのかという問いのほうには、まだ一言も答えていなかった。
「じゃ、五分経ったから」
先輩は空になった缶をゴミ箱へ落とし、俺の肩を軽く叩いた。
「俺は結衣の味方だけど、成瀬くんの敵になるつもりもないからさ。それ、冷める前に飲みなよ」
手の中の缶は、まだ開けてもいなかった。
◇
病院へ向かうバスの中で、母さんが前の日に送ってきた動画をもう一度開いた。
音は消したままにした。あいつの声なら、耳のほうが勝手に覚えている。
〈お兄ちゃん、どう? 似合ってる?〉
高校に入る前の春休み、前髪を切りすぎたと大騒ぎして、鏡の前からなかなか動かなかった日だ。
俺はあの時「どこがだよ」と返した。そう言えば葵は怒るし、怒らせておけば話はそこで終わるので、何年もその一言で済ませてきた。
それが火曜日、隣から白川に「かわいいね」と言われた時だけは、「どこが」まで言ったところで、その先が出てこなかった。
停留所を二つ過ぎるあいだ考えて、出てきた答えは呆れるほど単純だった。
かわいいと、俺も思っていたのだ。あの春休みの日も、たぶん、それよりずっと前から。
葵は、親の再婚でできた一つ下の妹だ。
だから、そう思うことはあっても、その先を考えたことはなかった。妹は妹だった。それで終わっていた。
なのに、白川への答えを探していると、何度やっても葵のところへ戻ってきてしまう。
◇
病室に母さんの姿はなく、着替えの袋もなくなっていたから、洗濯をしに一度帰ったのだろう。
葵は前の日と同じ顔で眠っていた。
ラベンダー色のブランケットがまた右側へずり落ちかけていたので、端を引いて掛け直す。
白川が選んだやつだ。
葵がよく着ていた色をどうしてあいつが知っていたのかは、今も分からない。
前髪は真ん中で分かれていた。
目にかかると邪魔だろうと思って俺が毎日そうしているのだけど、動画の中の葵は横へ流していた。
指で同じように寄せてみても、手を離すとすぐ元へ戻ってしまう。もう一度やっても同じだった。
起きていたら、下手くそと文句を言われるところだ。
「……似合ってたよ」
返事はない。当たり前だ。
聞こえていたら一生からかわれるところだけど、今のこいつは、何を言ってもからかってこないし、怒りもしない。
事故の日から、もう何週間もそうだった。
しばらく、葵の顔を見ていた。
それから面会時間が終わるまでパイプ椅子に座って、白川にどう話すかを考えた。
◇
考えてきた言い方は、いざ本人を前にすると半分も出てこなかった。
それでも「今は」を付けずに言い切れたのだから、水城先輩には缶コーヒー一本分の借りができている。
白川は、ありがとうと言った。
礼を言われるようなことは何もしていない。むしろ逆のことをしたはずなのに、あいつは逃げもしないで、そう言った。
葵には、目を覚ましたら言う。今度は最後まで。
どんな顔をされるのかは分からない。
気になっていることが、もう一つある。
今朝、白川は「妹さんのことで話したいことがある」と言っていた。俺が先に喋ってしまったせいで、その話をまだ聞けていない。
白川が葵の何を知っているのか、いくら考えても見当がつかなかった。
後ろで、上履きが床を擦る音がした。
「……成瀬くん」




