大事な秘密を話す前に、成瀬くんが私の恋へ答えを出した
終礼が終わり、部活動へ向かう生徒たちの足音が廊下に響いていく。
私は教室を出て、二階の渡り廊下の端――朝、成瀬くんと約束したあの窓際へ向かった。
中庭を見下ろす大きな窓から、秋の傾きかけた日差しが差し込み、床を淡い橙色に染めている。下校する生徒たちの姿もまばらになり、廊下を通り抜ける風の音だけが聞こえていた。
スカートの布地を指先でつまむ。
指先が、冷え切っていた。
これから、成瀬くんに話さなきゃいけない。
葵ちゃんの意識が、私の頭の中にいること。
あの事故のあとから、ずっと私と一緒にいて、成瀬くんのことを見ていたこと。
そして――昨日の夕方、また声が途切れて、葵ちゃん自身が一瞬真っ暗になったこと。
(……葵ちゃん)
心の中で呼びかける。
『……はい』
いつものふざけた調子はない。
頭の奥底で、葵ちゃんも息を詰まらせるようにして待っていた。
階段の方から、乾いた靴音が近づいてくる。
ブレザーを羽織り、黒いスクールバッグを肩に掛けた成瀬くんが、角を曲がって歩いてきた。
私を見つけると、少し歩幅を緩め、窓枠から一歩離れた場所で足を止める。
「……待たせたか」
「ううん、今来たとこ」
成瀬くんの顔には、朝から続く微かな緊張が残っていた。
黒い目がまっすぐに私を捉えている。
朝、「妹さんのことで、話したいことがある」と伝えた。成瀬くんが何を想像しているのかは分からない。
喉が張り詰めて、心臓が重い音を立てる。
言わなきゃ。
日曜日の昼下がりの居間、テレビのリモコンを二人で探したあの記憶を、切り出さなきゃいけない。
「成瀬くん。あのね、朝言った話なんだけど――」
「白川」
私の言葉を、成瀬くんの声が遮った。
低く、けれど迷いのない声だった。
「……え?」
「わりぃ。その前に、俺から話したい」
成瀬くんはスクールバッグの持ち手を握り直し、少しだけ顎を引いた。
私が何を話そうとしているのか、彼はまだ何も知らない。
それなのに、その目には、今日どうしても渡さなければならないと決めてきたような硬さがあった。
「……俺から?」
「ああ」
成瀬くんは視線を落とし、窓の外の中庭を見つめた。
植え込みの木々が、夕方の風に揺れている。
「火曜日にさ。……白川、昼休みに言ってくれただろ。俺のこと好きだって言ってくれたのに、困らせないようにって、これからも普通に接するって……そう言ってくれた」
「……うん」
「助かったよ。でも……だからって、白川が待っててくれるからって、俺が答えを曖昧にしたまま甘えてんのは、違うと思った」
「成瀬、くん……?」
「考えたんだ。ずっと」
渡り廊下の静けさの中に、彼の言葉が落ちていく。
「白川と話すのは、嫌じゃなかった。ノート見せ合ったり、購買行ったり……そういうの、普通に楽しかったよ。それは嘘じゃない」
「…………」
「でも……俺、葵が好きだ」
夕方の風が、窓の隙間から吹き抜けていった。
頭の真ん中で、葵ちゃんの気配がぎゅっと縮こまった。
そして――信じられないほどの静寂に包まれる。
葵ちゃんは、息を殺したように、一言も発していなかった。
成瀬くんの言葉が、私の耳を通して、今、頭の中にいる葵ちゃんにもそのまま届いている。
成瀬くんは拳を握りしめ、言葉を続けた。
「妹だからさ。そういうふうに考えたこと、今までなかった。あいつがあんな状態になって、自分だけ普通に恋愛すんのは違うって……あの時、白川に言ったのも本当だ」
「……うん」
「白川とは、付き合えない。……ごめん」
先週の木曜日のように、「今は」なんていう猶予はそこにはなかった。
足の裏から体温が抜け落ちていくような感覚がした。
胸の奥を強く捻られたみたいに痛い。
涙が出そうになるのを、奥歯を噛み締めて押し留める。走って逃げ出すことも、成瀬くんを責めることもできなかった。
「……ううん」
掠れた声が、喉から零れ落ちる。
「……ちゃんと、答えてくれて……ありがとう」
伏せられた成瀬くんの表情には、私を傷つけてしまったことへの痛ましさが滲んでいた。
それ以上、彼にその顔をさせておくのが辛かった。
「……成瀬くん」
「ん?」
「ごめん……ちょっとだけ、時間もらっていいかな」
「……白川?」
「すぐ……落ち着くから。でも、話したいことはまだあるから……帰らないで、待っててほしいの」
途切れ途切れの私の言葉に、成瀬くんは視線を揺らした。
けれど、私の目を見て、静かに頷いてくれた。
「……分かった。あっちで待ってる」
成瀬くんは踵を返し、渡り廊下の反対側――階段の近く、十メートルほど離れた場所まで歩いていった。
壁に寄りかかり、中庭の方を向いて立ち止まる。
その背中は、いつもより少しだけ強張って見えた。私に背を向け、一人で呼吸を整える時間を与えてくれるように。
遠ざかった背中を見つめながら、私は窓枠に両手をついた。
冷たいガラスの感触が、手のひらに伝わってくる。
私は伏せた瞳の奥で、頭蓋骨の真ん中へ意識を向けた。
(……葵ちゃん)
頭の奥底で、かすかな揺らぎがあった。
(……聞こえてたよね)
『……はい』
窓枠を握る指先に、力を込める。
(……嬉しい?)
沈黙が落ちた。
渡り廊下の向こうで、誰かが遠くの階段を駆け下りていく足音が響いている。
頭の真ん中から、震える声がぽつりと落ちてきた。
『…………はい』
『……嬉しいです』
その声を、聞いた瞬間だった。
張り詰めていたものが切れて、堪えていたものが目から溢れ出した。
「っ……」
声を漏らさないよう、ブレザーの袖で口元を強く押さえる。
涙が止まらなかった。
頬を伝って、顎からぽたぽたと制服の襟元に染みを作っていく。
頭の奥で、葵ちゃんが押し黙っていた。
慰めの言葉は降ってこなかった。
夕暮れの橙色の光が、窓ガラスを通して私一人の影を長く伸ばしていた。
十メートル先では、成瀬くんがまだ背を向けたまま、静かに待っている。
私は袖で涙を拭い、何度も小さく深呼吸を繰り返した。




