脳内の恋敵と、ツナマヨとチョココロネを半分こする約束をした
水曜日の購買は、いつものくだらない小競り合いで終わった。
人混みを掻き分けながら『ツナマヨこそが全人類の正義です!』と主張する葵ちゃんを(私はチョココロネ)と一蹴し、棚に残っていた最後の一つを確保した。
恋敵になったからといって何かが劇的に変わるはずもなく、私の頭の中では相変わらず、やかましい同居人がどうでもいい文句を並べ立てていた。
そして、木曜日。
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、教室の空気は一気に放課後のそれに切り替わった。
前の席から振り返った冬華が、机に肘をついて唇を尖らせる。
「結衣、今日の放課後どうする? 駅前の本屋、新刊コミックのコーナー改装されたらしいんだけど」
「あ、ごめん。今日ノートの買い足しと、母に頼まれた買い物があって」
「そっか。じゃあ本屋はまた今度ね。私、今日当番で部活早く行かなきゃだから、先行くね」
冬華は立ち上がり、スクールバッグを肩に掛けて足早に教室を出ていった。
隣の席へ視線を向けると、成瀬くんが教科書を鞄へ詰め終えたところだった。
椅子を引いて立ち上がり、鞄を持ち上げる。
「白川」
「ん?」
「今日、親父が仕事早めに抜けて病院来るらしくてさ。俺もすぐ行かないとだから、先出るわ」
「あ、うん。気をつけてね」
成瀬くんは短く頷くと、そのまま前扉を開けて廊下へ出ていった。
早足の後ろ姿が角を曲がり、見えなくなる。
火曜日の昼休みに「これからも普通に接する」と伝えてから、私たちの間には、壊れる前と同じような、けれどほんの少しだけ風通しのよくなった空気が戻っていた。
私も机の上の筆箱を鞄へしまい、ファスナーを閉めた。
鞄を肩に掛け、席を立つ。廊下を抜け、昇降口でローファーに履き替えて校門を出ると、秋の少し冷たい夕風がスカートを揺らした。
『……ふぅ、今日はお兄ちゃん、早足でしたね』
頭の真ん中で、葵ちゃんが肩の力を抜いた。
『まあいいでしょう。今日のところは見逃してあげます。それより結衣先輩、重大な問題があります!』
(……なに、また始まった)
『今日こそツナマヨです! 昨日のチョココロネ独占は完全な横暴でした! 駅前のパン屋に寄って、今度こそツナマヨを買ってください!』
(寄り道しないでノート買うって言ったでしょ。それに、私は今日もチョココロネがいいの)
『民主主義を無視しないでください! 私の基本的人権に対する重大な侵害です! ツナマヨのあのコクと塩気こそが、夕暮れの疲れた女子高生の脳を――』
ぷつり、と。
頭の中から、声が消えた。
歩道を進もうとしていた足が、止まる。
遠くを走る車の走行音。民家の室外機が唸る低い音。風が街路樹の葉を揺らす音。
周囲の環境音は全部、耳に届いている。
それなのに、さっきまで私の頭蓋骨の内側を満たしていたはずの騒がしい声だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
(……葵ちゃん?)
心の中で、強く意識を向ける。
返事は、ない。
冷たい空間だけが、頭の奥に広がっている。
(葵ちゃん、冗談でしょ? 聞こえてる?)
もう一度呼ぶ。
呼んだ言葉は虚空へ吸い込まれるように消えていくだけだった。
鞄の持ち手を両手で強く握りしめる。
肋骨の裏で心臓が暴れていた。
金曜や月曜の夕方よりも、明らかに間が空いている。
何度呼んでも、どんなに意識を尖らせても、返ってくるのは静寂だけだった。
(葵ちゃん……! 葵ちゃん!)
喉がカラカラに渇き、足元から温度が抜けていく。
立ち尽くしていた、その時だった。
『……あれ?』
ぽつり、と。
迷子のような、ひどく頼りない声が落ちてきた。
(っ……!)
膝の力が抜けそうになり、私は近くのブロック塀に片手を突いて踏みとどまった。
『……え? あれ、結衣先輩……? 私、何の話してましたっけ?』
(……葵ちゃん、いま……)
『……ツナマヨ、でしたっけ? あれ……なんか、一瞬、真っ暗になって……』
頭の奥の気配が、微かに震えていた。
いつもの冗談めかした調子も、強がりもなかった。
夕方の冷たい風が、二人の沈黙の間を吹き抜けていく。
『……結衣先輩』
(……なに)
『……嫌です』
蚊の鳴くような、ひどく細い声だった。
『……結衣先輩と、離れたくないです』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
『私、お兄ちゃんのために目覚めなきゃって……お兄ちゃんをこれ以上待たせたくないって、ずっとそればっかり思ってました。早く起きて、お兄ちゃんを安心させてあげなきゃって』
葵ちゃんの声に、熱い湿り気が混ざっていく。
『でも……それだけじゃなくて。私……自分の目で、結衣先輩の顔を見たいです』
目の前には、塀についた自分の手しかない。
『先輩の視界を借りて見るんじゃなくて、自分の身体で、自分の目で、先輩の顔が見たい……。頭の中じゃなくて、自分の声で……ちゃんと先輩と、話したいです』
鼻の奥がつんとして、視界が滲みそうになる。
私はブロック塀から手を離し、乱れた呼吸を整えて、いつものぶっきらぼうな調子を引っ張り出した。
(……じゃあ、戻ってきなよ)
『……え?』
(私だって、あんたの顔見て直接文句言いたいわよ。毎日毎日、人の頭の中で騒ぎ立てて……どれだけ迷惑だったか、面と向かって説教してやるんだから)
『……文句、ですか』
(そうよ。あと、あんたが自分の身体に戻ったら、駅前のパン屋連れてくから)
『パン屋……』
(ツナマヨでも何でも、好きなの選びなさいよ。自分の手でトング持って、自分の手でお金払って、自分の口で食べるの。……私はチョココロネにするけど)
『……じゃあ、半分交換しましょう!』
(なんでそこまで決定事項なのよ)
『決定事項です! ツナマヨとチョココロネを半分こするんです! 甘いとしょっぱいで無限ループですよ!』
(無限に食べる気? 太るわよ)
『起きたらリハビリでカロリー消費するから平気です!』
無理に作ったような明るい声だったけれど、さっきまでの凍りつくような底から、二人の呼吸が少しだけ戻ってきた気がした。
私はゆっくりと歩き出しながら、夕暮れに染まる通学路を見つめた。
アスファルトに伸びる影は、私一人分しかない。
(……成瀬くんに、話そう)
私の思考に、葵ちゃんがぴくりと反応した。
『……お兄ちゃんに、ですか?』
(うん)
『でも……言ったら、お兄ちゃんもっと待っちゃいますよ。土曜日に話したじゃないですか。私の意識が生きてるって知ったら、お兄ちゃん自分のこと余計に後回しにして……』
(じゃあ、このまま黙ってて、ある日突然あんたの声が聞こえなくなったらどうすんの)
『っ……』
(成瀬くんに何も言わせないまま、私たちだけで勝手に全部終わらせる気? ……それ、成瀬くんに失礼だよ)
葵ちゃんは黙り込んだ。
土曜日のバス停で聞いた葵ちゃんの恐れも分かる。成瀬くんにどんな顔をされるか怖い私の弱さもあった。
それでも、もう誤魔化し続けることはできなかった。
(事実をちゃんと伝えて……その先どうするかは、成瀬くん本人に決めてもらおう)
『……はい』
小さな、けれど確かな返事が返ってきた。
成瀬くんは、父親と合流するために急いで病院へ向かったばかりだ。
こんな話を、病室で慌ただしく切り出したくはなかった。
明日。学校で、二人で落ち着いて話せる場所で。
私は前を向いて、自宅への道をしっかりと踏みしめて歩いた。
◇
翌朝。金曜日の校舎には、澄んだ秋の光が差し込んでいた。
ホームルーム前のざわめきが響く中、私は二階の渡り廊下の端、中庭を見下ろせる窓際に立っていた。
登校してくる生徒たちの姿が遠くに見える。
階段の方から、聞き慣れた足音が近づいてきた。
制服のブレザーを羽織り、スクールバッグを肩に掛けた成瀬くんが、歩いてくる。
私はその進行方向へ一歩踏み出した。
「成瀬くん」
呼びかけると、成瀬くんは足を止め、少しだけ不思議そうに瞬きをした。
「白川? どうした、こんなところで」
「……あのね」
周囲には、他のクラスの生徒たちがちらほらと通り過ぎていく。
今ここで、すべてを話すわけにはいかない。
私はまっすぐに、成瀬くんを見つめた。
「今日の放課後……少しだけ、時間もらえるかな」
「放課後?」
「うん。……妹さんのことで、話したいことがあるの」
成瀬くんの表情が、わずかに動いた。
微かな緊張が走り、鞄の持ち手を握る指先に力がこもる。
「……妹の?」
低く聞き返された声に、私は視線を逸らさず、小さく頷いた。
成瀬くんは数秒ほど私の目を見つめ、それから短く息を吐いた。
「……分かった」
朝の光の中、二人の間に交わされたのは、それだけの約束だった。




