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恋敵が私の頭の中にいるまま好きな人と普通に話すの、だいぶ難易度がおかしい

 火曜日の朝の昇降口は、登校してきた生徒たちの靴底が立てる乾いた音で満ちていた。

 下駄箱の扉を開け、ローファーを押し込んで上履きを取り出す。


 昨日の夜、自室で交わしたあの会話。

 ――あんた、本当に私に成瀬くんを押しつけて……それでいいと思ってるの?

 ――よくないですよ。私も、お兄ちゃんが好きです。


 頭の奥底で、小さく縮こまっていた同居人は、今朝はまだ借りてきた猫のように息を潜めている。


 そりゃあそうだ。お互いに同じ人を好きだと認め合い、譲らないと宣言し合ったのだ。

 しかもその相手が、自分の頭の中に居座っている。

 こんな妙な状況で、今日からどうやって教室で過ごせというのか。


 ため息交じりに渡り廊下へ踏み出したところで、前方から歩いてくる人影に気づいた。


「結衣?」


 ブレザーのポケットに片手を突っ込み、手にはプリントの束を抱えた水城京也くんだった。

 癖のない髪を軽く揺らし、足を止めてこちらの顔を覗き込んでくる。


「京也くん。おはよう」

「おはよ。……なんかお前、今日も顔疲れてない? 寝不足?」

「生きてるから大丈夫」

「生きてる基準で答えるなよ」


 京也くんは苦笑し、抱えていたプリントを脇に抱え直した。


「あんまり根詰めるなよ。……まあ、成瀬とちゃんと話せてるならいいけどさ」

「うん、話せてるよ。昨日も放課後、ちょっと話したし」

「そっか。じゃ、俺職員室行ってくるから」

「いってらっしゃい」


 京也くんは軽く手を上げてすれ違い、階段の方へと歩いていった。


 詮索もせず、必要以上に踏み込んでもこない。

 昔からの幼馴染らしいあっさりした態度に救われながら、私は二階の教室へと向かった。


◇


 昼休みのチャイムが鳴り終わると、教室内は一気に机を動かす音や話し声で賑やかになった。

 前の席の秋林冬華は、椅子をガタッと引いて立ち上がると、私の机にポンと手を置いた。


「結衣、購買の唐揚げサンド勝ち取ってくる! 売り切れる前にダッシュしないと死ぬ!」

「あ、うん。いってらっしゃい」


 手を振る間もなく、冬華は身を翻して廊下へ駆け出していった。


 私は鞄から菓子パンを取り出し、机の上に置いた。

 隣の席では、成瀬くんが席を立つ気配もなく、スクールバッグからコンビニのおにぎりを二つ引っ張り出している。


 昨日病院で別れてから、今朝の挨拶も「おはよう」「おう」だけで無事に通過した。

 けれど、昨夜の今日だ。

 私の頭の中には、成瀬くんを好きだと認めた本人が同居しているのだ。意識しない方が無理というものだった。


(……ねえ、葵ちゃん)


 パンの袋を開けながら、そっと頭の奥へ呼びかけてみる。

 一拍の間をおいて、やけに澄ました、ぎこちない声が返ってきた。


『……なんですか結衣先輩。私は今、お兄ちゃんの咀嚼回数をカウントする作業に集中しているのですが』

(変な作業に集中しないでよ。昨日あんだけ啖呵切ったんだから、なんか言ったらどうなの)


『言われなくても言いますよ! ほら先輩、何を縮こまってるんですか! いつものように話しかけてください! ここで引いたら負け犬街道まっしぐらですよ!』

(誰が負け犬よ)


 葵ちゃんの勢いに背中を押される形にはなったけれど、逃げるつもりはなかった。

 気まずいからといって黙り込んでいたら、それこそ金曜日の二の舞だ。


「成瀬くん」


 声をかけると、おにぎりの海苔を噛み切った成瀬くんが、咀嚼しながらこちらを向いた。


「ん?」

「現代文の課題、今日までだったよね。問四のところ、成瀬くん何文字くらいでまとめた?」

「問四? あー……」


 成瀬くんはお茶のペットボトルのキャップを開け、一口飲んでから答えた。


「指定が百字以内だったから、八十文字ちょっと。あそこ、本文の三行目そのまま抜き出せばだいたい埋まるぞ」

「あ、やっぱりそこだよね。ありがと、あとで字数数え直してみる」

「ノート見るか? 鞄に入ってるけど」


 そう言って、成瀬くんが机の横のフックに手を伸ばしかけた。


『ちょっとおおおお!』


 その瞬間、頭の真ん中でサイレンが鳴り響いた。


『なんですか今の自然な優しさは! ノート見せてくれるとか好感度跳ね上がるやつじゃないですか! なんでそんな無自覚にポイント稼ぎにいくんですかあのお兄ちゃんは!』

(……昨日あんたが言ったこと、もう忘れたの?)


『覚えてますけど、それとこれとは別です! 妹としてはお兄ちゃんの美点を誇らしく思いつつも、恋敵としては非常に由々しき事態です! ぐぬぬ……!』

(じゃあ、ノート借りるのやめる?)


『なんでそこで引くんですか! 借りてください! チャンスは全部毟り取るのが基本です!』

(あんた、自分でも何応援してんのか分かってる……?)


 頭の中で一人相撲を取っている葵ちゃんに呆れながら、私は成瀬くんに向き直った。


「ううん、大丈夫。自分で一回書いてみるよ。どうしても分からなかったら見せて」

「そうか」


 成瀬くんは引っ込めた手をおにぎりのフィルムに戻した。

 無駄口を叩かず、淡々と自分の食事を進める横顔。


 私はパンを一口かじり、喉を通してから、指先で制服のスカートを軽く押さえた。

 今朝から、ずっと言おうと決めていたことがあった。


「……成瀬くん」

「ん?」


 周囲のざわめきに紛れないよう、私は少しだけ身を寄せ、声を一段落とした。


「あのね。木曜日に言ったこと……私が成瀬くんを好きなのは、今でも変わってないよ」


 成瀬くんの手が、ぴたりと止まった。

 わずかに眉が寄せられ、その瞳がこちらへ向けられる。


『……っ』


「でも、あのときの返事を変えてほしいって、今すぐ迫るつもりはないから」

「……」

「ただ……気まずいからって、話しかけるのをやめたり、避けたりはしない。これからも普通に隣で話すし、ノートも聞くし、放課後も一緒に帰れるなら帰る」

「……白川」

「成瀬くんが困るなら考えるけど。……困る?」


 問いかけると、成瀬くんは小さく唇を開き、それから視線を落とした。

 長い沈黙のあと、成瀬くんは深く息を吐き出した。


「……困らねえよ」


 低く、掠れた声だった。


「避けてんのは、俺の方だと思ってたから。……そう言ってくれるなら、助かる」

「うん」


 成瀬くんはそれ以上何も言わなかった。

 それでも十分だった。少なくとも、これまで通り話すことを拒まれたわけではない。


『……結衣先輩』


 成瀬くんが再び前を向いて、おにぎりを口に運んだ。


『堂々と宣戦布告し直しましたね……! 私の目の前で!』

(目の前も何も、頭の中にいるのはあんたでしょ)

『ぐぬぬ……! 私だって、起きたら真っ先に言ってやるんですから……!』


 悔しがる葵ちゃんの気配を感じながら、私は残りのパンをゆっくりと噛み締めた。


◇


 五時間目が始まる直前の休み時間。

 予鈴のチャイムが鳴り響く中、成瀬くんの制服のポケットで、短い振動音が鳴った。

 成瀬くんがスマートフォンを取り出し、画面をタップする。


「……母さんからか」


 ぽつりと呟いた成瀬くんの画面が、私の席からも少しだけ見えた。

 メッセージアプリのトーク画面に、数秒ほどの短い動画ファイルが添付されていた。

 〈こんなの出てきたよ〉という短い一言が添えられている。


 成瀬くんが親指で動画を再生した。

 音量は最小に絞られていたけれど、スピーカーからシャカシャカと小さな音が漏れてくる。


 画面に映し出されたのは、病院のベッドではなく、どこかのリビングだった。


 今よりも少し髪が短く、顔色のいい葵ちゃんが映っている。

 ラベンダー色のパーカーを着て、鏡の前で自分の前髪をいじりながら、カメラのすぐ横にいる誰かへ向かって、パッと花が咲くように笑いかけていた。


〈お兄ちゃん、どう? 似合ってる?〉


 両手を腰に当て、くるりと一回転して見せる。

 事故の前、元気に笑っていた頃の、他愛のない家庭の日常の一コマ。


『ぎゃああああああああっっっ!?』


 私の頭蓋骨が割れるかと思うほどの絶叫が響き渡った。


『ななな、なんで母さんそれ撮ってたんですか!? よりによって高校入学前の春休みに前髪切りすぎて失敗した日の動画ですよ!?』

(自分でバラしてどうすんのよ)


『消して! 今すぐスマホへし折って消滅させてください結衣先輩!!』

(うるさいってば! 私が消せるわけないでしょ!)


 脳内でじたばた転げ回る葵ちゃんを無視して、私は画面から成瀬くんの横顔へと視線を移した。


 成瀬くんは、画面を見つめたまま動かなかった。

 液晶の青白い光が、その横顔を照らしている。


「……妹さん、かわいいね」


 私がそう声をかけた、その瞬間だった。


「……どこが」


 成瀬くんの唇が小さく動いた。

 けれど、喉の奥で息が詰まり、成瀬くんは開きかけた口をぎこちなく結び直した。

 そのまま、二秒。奇妙な空白が落ちる。


「……成瀬くん?」


 呼びかけると、成瀬くんは弾かれたように視線を画面から外した。

 電源ボタンを押し、スマートフォンの画面を暗転させる。

 机の上に置かれたその手元が、迷うように止まっていた。


「……あいつ、昔からカメラ向けるとこういうのばっかやってさ」


 成瀬くんの声は、いつも通りの静かなトーンだった。

 けれど、落とされた視線は机の上のノートの端へ逃げたままだ。


『……あれ?』

(なに?)

『……いつものお兄ちゃんなら、絶対「どこがだよ」って即座に流すのに』


 先生が教室に入ってくる足音が廊下に響き、五時間目の始まりを告げる本鈴が鳴った。

 周りの生徒たちが慌てて席に着き、机の上の教科書を開いていく。


 隣の席では、成瀬くんがスマートフォンをポケットに仕舞い、ノートを開こうとして――けれどすぐにはペンを握らず、数秒の間、机の木目をじっと見つめていた。


 ただ、元気だった頃の妹を見て辛くなっただけなのかもしれない。

 それでも、あの二秒の沈黙だけが、授業が始まってからも頭の片隅に静かに残り続けていた。

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