私に兄を押しつけてそれでいいのかと聞いたら、義妹がよくないと答えた
自室の机の上で、明日の時間割に合わせたノートをスクールバッグの底へ滑り込ませた。
硬い表紙の擦れる音が落ちて、狭い部屋の中に吸い込まれていく。
ブレザーをハンガーに掛けてクローゼットの扉を閉めると、部屋の中には机の上の明かりと、壁の時計が刻む規則正しい音だけが残った。
通学路の暗がりで、私が投げかけた問い。
――あんた、本当に私に成瀬くんを押しつけて……それでいいと思ってるの?
その言葉を落としてから、葵ちゃんはずっと黙り込んでいた。
頭の奥底に、耳を澄まさなければ気づかないほどの、浅く縮こまった気配だけがある。
私は椅子の背もたれに体重を預け、冷えた指先を組んだ。
金曜の夕方、そして今日の帰りのバスの中。二度もあの不気味な空白を味わったのだ。
次にいつ声が消えて、そのまま戻ってこなくなるか分からない。
そんな足元のおぼつかない場所に立たされているのに、もう「また今度」なんて誤魔化しを受け入れる余裕はどこにもなかった。
(……聞こえてるんでしょ、葵ちゃん)
意識を尖らせて、頭の奥へ呼びかける。
一拍、間が空いた。
それから、やけに掠れた声が這い上がってきた。
『……聞こえてますよ。なんですか改まって。急にシリアスモードに入っちゃって』
(ふざけないで。聞いてることに答えてよ)
『答えるも何も、いいに決まってるじゃないですか』
(……それで?)
『お兄ちゃんには早く前を向いてほしいし、結衣先輩ならお兄ちゃんを任せられるし。私の攻略チャート通りに進めば、最終的にお兄ちゃんは幸せに――』
(私が聞いてるのは、成瀬くんの幸せの話じゃない)
遮るように、思考を強くぶつけた。
机の上のスタンドライトを見つめながら、静かに息を吐き出す。
(あんた自身は、それでいいのかって聞いてるの)
ピタリと、脳内の雑音が止まった。
何かを言い返そうとして、途中で喉に詰まらせたような、ひどく重い気配が伝わってくる。
部屋の外を、どこかの車が走り去るロードノイズが遠ざかっていった。
どれくらい、沈黙が続いただろう。
『……よくないですよ』
いつもみたいに張り上げた声じゃない。
オタクの用語も混ざっていない、等身大の声だった。
『……よくないです。いいわけ、ないじゃないですか』
部屋の空気が、冷たい水に浸されたように静まり返る。
私は何も言わず、膝の上で握りしめた拳に少しだけ力を込めた。
『……私も、お兄ちゃんが好きです』
家族として大切とか、頼りになる兄だからとか、そういう逃げ道のない響きだった。
(……やっぱり、そうだったんだ)
『……軽蔑しました?』
葵ちゃんの声は、消え入りそうに震えていた。
『義理の妹のくせに、お兄ちゃんをそういう目で見てキモいって思いますよね。……自分でも分かってますよ。妹なんだから、そんなこと思っちゃいけないって』
私は黙って、続きを待った。
『お兄ちゃんには、ちゃんと普通の女の子と普通の恋愛をして、幸せになってほしいって……それも、嘘じゃないんです』
(うん)
『それに、私……いつ起きるかも分からないし。下手したら、このまま本当に起きられないかもしれないのに』
(……葵ちゃん)
『そんな私が、お兄ちゃんを縛るようなこと……言えるわけないじゃないですか』
土曜日の病室の帰り道、バス停で葵ちゃんが言っていた言葉が、脳裏をよぎる。
あの時話していた理由は、何ひとつ嘘じゃなかった。
兄の人生を止めたくないという思いも、待たせたくないという願いも、全部本物だったのだ。
(……だから、私をけしかけたの?)
『……はい』
小さな肯定が返ってくる。
『結衣先輩なら……って思ったのは、本当なんです。お兄ちゃん、先輩といるとき、ちょっとだけ事故の前みたいに笑うから』
(……知ってる)
『先輩なら、私がいなくても、お兄ちゃんを引っ張り上げてくれるんじゃないかって』
葵ちゃんはそこで一度言葉を切り、喉を鳴らした。
『……でも、それだけじゃなくて』
(……なに?)
『……あの日』
(あの日?)
『お兄ちゃんが「もう起きないのかな」って言った日です。私、先輩に告白を急かしたじゃないですか』
(うん。放課後すぐに言えって、すごい勢いだった)
『……お兄ちゃんが「今は考えられない」って言って……先輩を傷つけたのに。私、先輩に申し訳なくてたまらなかったのに……』
頭の奥の気配が、痛いほど強張る。
『……お兄ちゃんが断ったとき、ほんの少しだけ、ホッとしちゃったんです』
喉の奥が、冷たく締め付けられた。
指先から体温が引いていく。
『お兄ちゃんが先輩のものにならなくてよかったなんて……そんなこと思っちゃった自分が、本当に嫌で……っ』
頭の奥で、葵ちゃんが両手で顔を覆って声を殺すような気配が広がった。
沈黙が落ちる。
私は椅子の背もたれに頭を預け、天井の木目をじっと見つめた。
(……それ、今聞くと結構きついんだけど)
ぽつりと、自分の本音が漏れた。
同情して、すぐに許してあげることなんてできなかった。
階段の踊り場で、成瀬くんに「今は考えられない」と言われた瞬間の、あの全身から血の気が引くような感覚。
その直後に、頭の中にいたこの子が、ほんの少しでも安堵していたのだとしたら。
胸が、ちくちくと痛んだ。
『……ごめんなさい。本当に……ごめんなさい……』
小さく絞り出される謝罪。
(……謝れば済むと思わないでよ。私、あのとき本当に心臓止まるかと思ったんだから。……少しの間、黙ってて)
『……はい』
意識的に思考を閉ざし、机の上の時計を見る。
針の動くカチカチという音だけが部屋に響いていた。
数分が経ち、私は膝の上で固めていた拳をほどいた。
(……でもさ)
『……はい?』
(葵ちゃんに急かされたのは事実だけど。でも、あの階段を走って追いかけて、告白したのは私だから)
木曜日の夕方にも、同じことを言った。
それは今でも変わらない。
(あんたに背中を押されたからって、言わされたわけじゃない。私が、成瀬くんの顔を見て、自分の口で言ったの。だから……そこまで全部、あんたのせいにはさせない)
『結衣先輩……』
(それにね、葵ちゃん)
私は机に両肘をつき、顔を上げた。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。眉を寄せていて、けれど目は逸らしていなかった。
(あんたが成瀬くんを好きだからって、私が諦める理由にはならないから)
『……え?』
(私だって、成瀬くんが好きなんだもん)
成瀬くんが誰を好きなのか、何を考えているのか、その答えはまだ誰にも分からない。
(譲らないからね)
『……っ、譲れなんて言ってません!』
返ってきた声には、いつもの鼻っ柱の強さが、わずかに戻っていた。
『言われなくても、先輩に譲る気なんてありませんから! 私だって、目覚めたらちゃんとお兄ちゃんに……言えるかどうかは別として、誰にも渡したくないです!』
(言えるかどうかは別なんだ)
『うぐっ……そこは義妹という社会的デバフがですね……!』
急にオタクっぽい言い訳を始めた葵ちゃんに、私の口からふっと微かな笑いが漏れた。
胃の奥の痛みが、完全に消えたわけじゃない。
(……で、どうすんのよ。恋敵が私の頭の中に住み着いてるんだけど)
『私だって好きで住んでるわけじゃないです! できることなら今すぐ自分の身体に戻って、正々堂々とライバル宣言したいですよ!』
(ライバル宣言ねえ……。今のところ、私の視覚と聴覚をタダ乗りしてるだけの居候じゃない)
『居候って言わないでください! 家賃代わりにお兄ちゃんの弱点情報を流してあげてたじゃないですか!』
(その情報で告白して玉砕したんだけど?)
『うっ……それを言われると何も返せない……!』
脳内で頭を抱えてじたばたする葵ちゃんの気配に、私は思わず小さく鼻を鳴らした。
机の上の時計を見ると、針はもう十一時を回っていた。
明日になれば、また朝が来る。
教室へ行けば、隣の席には成瀬くんが座っていて、普通に「おはよう」と挨拶を交わすのだ。
私はベッドへ向かいながら、深いため息をひとつ落とした。
(……はあ。明日、どんな顔して成瀬くんに会えばいいのよ)
『それ、私もまったく同じなんですけど!? 結衣先輩の目を通して見るんですよ!?』
(あんたは黙って目ぇ瞑ってなさいよ)
『見ますー! ガン見しますー! お兄ちゃんの寝癖までチェックしますからねー!』
ぎゃあぎゃあと言い合う声を聞きながら、私は部屋の明かりを消した。
暗闇の中に横たわっても、頭の中はやっぱり騒がしくて。
胸の中に落ちた新しい火種を抱えたまま、私は目を閉じた。




