応援されているはずなのに、成瀬くんが気にした男子の話で義妹が嬉しそうにしていた
月曜日の朝の教室は、土日の湿り気を引きずった生徒たちのざわめきで満ちていた。
黒板には日直が書いた日付と連絡事項が白く残り、窓際の席に着いた私は、鞄を机の横のフックに掛けた。
金曜日の放課後、駅前のバーガー店で成瀬くんが残していった「また、月曜」という言葉。
土曜日の午後、病院のベッドで眠る葵ちゃんを見て、バス停で交わしたあの会話。
本当に月曜日が来て、私はいつもの制服を着てここに座っている。告白を断られた事実が消えたわけでも、気まずさがゼロになったわけでもないけれど、あの「また」がちゃんと今日に繋がっていたことに、胸の奥でひっそりと安堵している自分がいた。
「おはよ、白川」
前扉が開く音と重なるようにして、横から声がかけられた。
見ると、黒いスクールバッグを肩に掛けた成瀬くんが立っていた。制服のブレザーを羽織り、眠そうに目を細めている。
「……おはよう、成瀬くん」
「ん」
成瀬くんは短く頷き、隣の席に腰を下ろした。鞄から筆箱を出し、机の隅に置く。
たったそれだけのやり取り。けれど、その瞬間を待ち構えていたかのように、頭の奥でファンファーレが鳴り響いた。
『はい加点! 挨拶コンボ継続でプラス五ポイント! 月曜イベント生存確認完了です結衣先輩!』
(朝からうるさい……。普通の挨拶でしょ)
『その普通を維持するのがどれだけ大変か! 見てくださいよあのお兄ちゃんの顔! ちょっとだけ口元緩んでましたよ! 「白川がちゃんと普通にしてくれててよかった」って顔です!』
(勝手にアフレコしないで)
成瀬くんが机の中から一時間目の現代文の教科書を取り出し、パラパラと指先で弾いた。
こちらに視線を向けることはないけれど、先週の金曜日みたいな張り詰めた硬さは消えている。
『……む。でも、なんかちょっと悔しいですね』
(何がよ)
『今の「ん」って返事、ちょっと慣れ合いが入ってませんか? 妹の私ですらあんな気の抜けた相槌滅多にもらえないのに、結衣先輩相手だとすっかり油断しきった顔しちゃって……ぐぬぬ』
(……じゃあ、もうちょっと距離取った方がいい?)
『なんでそうなるんですか! 攻めてくださいよ! せっかく隙だらけなんだから、すかさず「成瀬くん、週末何してたの? 私のこと考えてた?」くらいの不意打ちを――』
(言うわけないでしょ、バカ)
脳内でぎゃあぎゃあ喚き立てる葵ちゃんを無視してノートを開いたところで、前の席の椅子がガタッと音を立てて回った。
「……結衣〜」
秋林冬華が机に肘をつき、猫っぽい目をじっと細めて私の顔を覗き込んできた。
「なに、冬華」
「なに、じゃないよ。金曜の放課後は水城先輩に邪魔されてうやむやにされたけどさ」
冬華は声を潜め、チラリと私の隣の成瀬くんに視線を走らせた。
「なんか金曜から、二人とも変じゃない? 成瀬くんが去り際に『また月曜』とか言うし、今朝の挨拶も妙に息合ってるし。……ホントに何もなかったの?」
「何もないってば。ただの席が隣同士の挨拶でしょ」
「怪しいんだよなー。まあいいや、またあとで聞くからね――あ、ちょっとごめん、呼ばれた」
教卓の近くにいた女子生徒から手招きされ、冬華は席を立った。
教室内には朝の小テストの範囲を確認し合う声や、誰かの笑い声がざわめきとなって満ちている。
冬華が離れたことで、私と成瀬くんの間に、他人に遮られない短い間が生まれた。
成瀬くんは前を向いたまま、机の上の消しゴムの角を親指で弄んでいた。
それから、周りのざわめきに紛れ込ませるような、ひどく低い声で言った。
「……水城先輩には、話したのか」
一瞬、心臓が跳ねた。
金曜のバーガー店で、京也くんが成瀬くんに向けたあの探るような物言い。成瀬くんが「先輩に、何が分かるんですか」と反発した場面を思い出して、指先が強張る。
「……私が、相談したの」
「……」
「でも、成瀬くんの家のこととか、妹さんのことは何も話してない。ただ……私が、勝手に話しただけだから」
成瀬くんは消しゴムを弄る手を止めた。
視線は机の木目に落としたまま、数秒の間を置いた。
「……そっか」
それ以上、成瀬くんは何も聞いてこなかった。
責める色も、怒る気配もない。ただ事実を受け取っただけの、短い返事だった。
ちょうど朝のホームルームを告げる予鈴が鳴り響き、二人の会話はそこで自然に途切れた。
◇
放課後。終礼のチャイムが鳴り終わると、成瀬くんは手早く鞄に荷物をまとめた。
立ち上がり、スクールバッグを肩に掛ける。
その背中を見上げて、私は声をかけた。
「成瀬くん、今日も病院行く?」
「行くけど」
成瀬くんが足を止め、振り返る。
「……私も、行っていい?」
「別にいいけど」
土曜日に面会したばかりだったけれど、それ以上言い訳を探すのはやめた。
駅前のバス停から病院行きのバスに揺られる。
総合病院のエントランスを抜け、エレベーターで四階へ上がる。
一般病棟の静まり返った廊下を歩き、病室の引き戸を開けると、中には先客の女性がいた。
「総司郎、いらっしゃい」
パイプ椅子から立ち上がった女性に、成瀬くんが短く口を開く。
「母さん。こいつ、白川。同じクラスの」
「白川さん? 葵のお見舞いに来てくれたのね。ありがとう」
成瀬くんのお母さんは穏やかに笑い、手に持っていた湯呑みをサイドテーブルに置いた。
棚の周りには、着替えやタオルといった日用品が手際よく整理されている。
「お父さんも仕事が終わったら来るって。私は一度家に戻って、洗濯物回してくるわね」
「ああ」
成瀬くんが短く答えた。
「そうそう、これ。昨日、葵のクラスの子が受付まで届けてくれたのよ」
お母さんがベッドサイドの丸テーブルを指さした。
そこには、色紙と、何枚かのメモ用紙が置かれていた。
「見舞いの寄せ書き?」
「ええ。クラスのみんなで書いてくれたみたいでね」
成瀬くんが色紙を手に取り、眺めた。
私も横からそっと覗き込む。
色とりどりのカラーペンで書かれたメッセージには、高校生らしい他愛のない言葉が並んでいた。
〈成瀬、いつまでサボってんだよー〉
〈数学の課題プリント、お前の机の中に突っ込んどいたからな〉
〈早く戻ってこないと文化祭の買い出し係押し付けるぞ〉
雑で、少し乱暴で、けれど彼女が戻ってくる前提の日常の言葉たち。
『ちょっとおおおお! 誰ですか数学のプリント押し込んだやつ! 起きたら真っ先に破り捨ててやりますよ!』
頭の奥で、葵ちゃんがいつもの調子でぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた。
『文化祭の買い出しも絶対やりませんからね! 私、模擬店の看板描く係って決めてたんですから! ほんと男子ってデリカシーがないんだから……!』
文句を言いながらも、その声はどこか誇らしげで、嬉しそうだった。
お母さんが上着を羽織りながら、何気ない調子で言った。
「届けてくれた男の子もね、すごく心配そうにしてたわよ。『クラスみんな待ってますから』って」
「……そいつ、葵とよく話してたの?」
成瀬くんが、ぽつりと落とした。
お母さんは鞄のファスナーを閉めながら、不思議そうに首を傾げた。
「さあ? そこまでは聞いてないけど……同じクラスの子みたいだし、普通に話してたんじゃないかしら」
「……そっか」
成瀬くんの手元が一瞬だけ止まり、それから色紙を静かにテーブルの上に戻した。
『……え』
さっきまで色紙にツッコミを入れていた葵ちゃんの声がわずかに跳ねた。
『……今の、お兄ちゃん、気にしました?』
『……ちょっとだけ、気にしましたよね? 男子のこと』
(葵ちゃん……?)
『あ、いえ! なんでもないです! お兄ちゃんたら過保護なんだからー!』
「じゃあ、一度帰るからね」
お母さんが病室を出ていき、成瀬くんは妹のベッドサイドに立って、ラベンダー色のブランケットを直した。
その背中を見つめながら、私の胸の中に、小さな違和感が落ちた。
成瀬くんを推してくれているはずなのに。
……なんか、変じゃない?
◇
面会を終えて病院を出たときには、日が傾き、空が薄暗くなり始めていた。
ロータリーのバス停で、成瀬くんが足を止める。
「白川、今日もありがとな」
「ううん」
「じゃ、また明日」
「うん。また明日」
成瀬くんが踵を返し、病院の中へと戻っていく。
バスに乗り込み、窓際の席に座った。
駅へ向かって走り出した車内で、私は頭の中へ意識を向けた。
(……ねえ、葵ちゃん)
『なんですかー? まだ色紙のプリントのこと根に持ってます?』
(私が根に持つわけないでしょ。あんたの宿題なんだから)
『うぐっ、正論……! でもあれ、絶対に私の机をゴミ箱代わりにしてるだけですよ!』
(あはは、まあ男子ってそういうとこあるしね)
『そうなんですよ! だから私が目覚めた暁には、その男子の机の中に数学のプリントを百枚――』
ぷつりと、音が消えた。
私の思考が、硬直する。
窓の外を流れる街灯の光。バスの規則正しいエンジンの振動。
けれど、頭の真ん中だけが、完全に空白になっていた。
(……葵ちゃん?)
あの金曜日の感覚が蘇る。冷たい虚空。
喉がカラカラに渇き、膝の上の鞄を握る指先に力が籠もる。
(葵ちゃん……?)
『――突っ込んでやるんですから!』
何事もなかったかのように、声が戻ってきた。
(っ……!)
座席の上で、思わず小さく身体が跳ねた。
金曜日より短かった気がする。けれど、確かに途切れた。
『……あれ? 結衣先輩? どうしました?』
葵ちゃんの声には、やっぱり途切れた自覚がないらしかった。
ただ、私の動揺が伝わったのか、戸惑うように問いかけてくる。
(……今、また途切れた)
『……え?』
(うん)
『……また、ですか』
葵ちゃんの声が、静かに沈んだ。
二人とも原因は分からない。
私は窓ガラスに額を預けた。
また、起きた。
もう、聞かないままにしておけない。
バスを降り、すっかり暗くなった通学路を歩く。
街灯の下に伸びる自分の影を見つめながら、私は手洗い場の鏡の前で投げかけた、あのとき答えが返ってこなかった問いを思い出していた。
立ち止まり、夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
そして私は、頭の奥底にいる少女へ向けて、静かに意識を向けた。
(……ねえ、葵ちゃん)
『はい?』
(あんた、本当に私に成瀬くんを押しつけて……それでいいと思ってるの?)
静かな夜の道に、私の問いだけが落ちていった。




