初めてお兄ちゃんと呼んだ思い出を聞いたら、なくしたリモコンの話だった
土曜日の総合病院は、平日の夕方とは少しだけ空気が違っていた。
外来の受付窓口は閉ざされ、広いロビーには規則的なアナウンスと、エレベーターの到着を告げる低音だけが響いている。
午後一時過ぎ。面会受付でプラスチックの番号札を受け取り、私は案内板に従ってエレベーターホールへ歩いた。
昨日の夕方、通学路で突然途切れた葵ちゃんの声。
あの空白を思い出すたび、指先がすっと冷たくなる。
成瀬くんは「何にも変わってねえよ」と言っていたけれど、自分の目で確かめるまでは、胸のざわつきがどうしても収まらなかった。
四階のナースステーションを通り過ぎ、病室の前まで行くと、引き戸の前に見慣れた背中が立っていた。
制服ではなく、黒のパーカーにジーンズ姿の成瀬くんだ。
「……成瀬くん」
声をかけると、成瀬くんは少しだけ肩を揺らし、振り返った。
「……来たのか」
「うん」
「入るぞ」
からから、と引き戸が開く。
前に来た時とは違い、今日の病室には、レースのカーテン越しに柔らかな秋の陽射しが差し込んでいた。
白いベッドの中央に、静かに目を閉じた少女が横たわっている。
掛けられているのは、あの日一緒に選んだラベンダー色のブランケット。
規則正しい呼吸に合わせて、胸元が上下している。
目立った覚醒の兆候もなければ、管が増えているわけでもない。
成瀬くんの言葉通り、何も変わっていなかった。
『ふぅ……。よかった、ちゃんと生きてる』
頭の奥底で、ホッとしたような溜息が落ちた。
けれど、安堵の時間は一瞬で終わる。
『……って、ちょっと待ってください結衣先輩! お兄ちゃんのあのブランケットの掛け方、見てくださいよ!』
(え?)
『右側が完全にずり落ちかけてます! あと私の前髪! なんでセンター分けみたいになってるんですか! もうちょっとこう、ふわっと横に流すとかあるでしょうが!』
(文句言わないの。成瀬くんなりにやってくれてるんだから)
『やってくれてるのは認めますけど、乙女心への解像度が低すぎます! 起きたら真っ先に鏡見たいのに、これじゃ寝起きドッキリの被害者ですよ!』
文句を並べ立てるその勢いに、強張っていた気持ちが少しだけ解けるのを感じた。
成瀬くんがずり落ちかけたブランケットへ手を伸ばした。端を引っ張り上げ、胸元を直す。
それから、眠る妹の顔を見下ろし、ぽつりと言った。
「……白川、また来てくれたぞ」
静かな声だった。
成瀬くんは数秒ほど妹の寝顔を見つめてから、振り返って私を見た。
「……白川、座るか?」
「ううん、大丈夫」
ベッドの脇に立ち、私はそっとラベンダー色の布地に視線を落とした。
指先はピクリとも動かない。
けれど、頭の中ではこの子が喋っている。
この奇妙な状況を、成瀬くんは何も知らないのだ。
◇
面会は、十五分ほどで終えた。
長居しても邪魔になるだけだし、成瀬くんも「俺、もう少しいるから。親もあとで来るし」と、病院の入り口まで見送るために降りてきてくれた。
自動ドアを抜けると、少し冷たい午後の風が吹き抜けた。
ロータリーの近くで、成瀬くんが足を止める。
「白川、わざわざ来てくれて悪かったな」
「ううん。顔、見られてよかった」
「……そうか」
成瀬くんはポケットに両手を突っ込み、視線を少し落とした。
お互いに、これ以上何を話せばいいのか分からない気まずさが、ほんの少しだけ漂う。
「じゃあ……気をつけて帰れよ」
「うん。……成瀬くんも、無理しないでね」
成瀬くんが踵を返し、病院の中へと戻っていく。
自動ドアが閉まるのを見届けてから、私は病院前のバス停へと歩き出した。
ベンチに腰を下ろし、時刻表を見上げる。次の駅行きまでは、まだ十分ほどあった。
ロータリーを行き交う車の音を聞きながら、私は頭の奥へ意識を向けた。
(……ねえ、葵ちゃん)
『……はい』
さっきまでの賑やかさは消え、静かな返事が返ってきた。
(ずっと聞こうと思ってたんだけどさ)
『なんですか?』
(……成瀬くんに、言おうとは思わなかったの?)
葵ちゃんの気配がふっと揺れた。
(自分の意識が、私の頭の中にいるって。私を通してなら、成瀬くんに言葉を伝えることだってできるのに)
『……言えるわけ、ないじゃないですか』
返ってきたのは、投げやりでもなく、泣き声でもない、落ち着いた声だった。
『もし言ったら、お兄ちゃん、どうすると思います?』
(どうするって……)
『絶対、もっと待っちゃいますよ』
胸の奥を、細い針で突かれたような感覚があった。
『だってお兄ちゃん、今でも学校が終わったら病院に来て、私のこと待ってるんですよ? 「俺だけ普通にそういうことしてんの、なんか違う気がして」なんて言っちゃう人なんですよ?』
階段の踊り場で、苦しそうに言葉を絞り出していた成瀬くんの姿が蘇る。
『そんな人に、「葵の意識はまだ生きてるよ」「結衣先輩の頭の中にいるよ」なんて教えたら……お兄ちゃん、もっと自分のこと後回しにしちゃいます。絶対に、私の身体が目を覚ますまで、一歩も前に進まなくなっちゃう』
(でも……成瀬くん、もう十分立ち止まってるよ)
『だからです!』
葵ちゃんの声が、頭の真ん中で強く響いた。
『これ以上、お兄ちゃんの足を引っ張りたくないんです。私がこんなところでふわふわ漂ってるせいで、お兄ちゃんの高校生活をこれ以上奪いたくないんですよ。……だから、結衣先輩ならって思ったんです』
(私なら……?)
『先輩といる時のお兄ちゃん、事故の前みたいに、ちょっとだけ笑ってたから』
葵ちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『無愛想で、変なところで頑固なお兄ちゃんだけど……結衣先輩の前なら、ちょっとだけ普通の高校生に戻れるんじゃないかって。私がいなくても……先輩なら、お兄ちゃんを笑わせてくれるんじゃないかって』
そこで、葵ちゃんはふっと言葉を飲み込んだ。
けれど、昨日の夕方の恐怖を思い出した私は、そのまま黙っていることができなかった。
(……でも、昨日みたいに、また声が聞こえなくなったらどうするの?)
『え……』
(今度は、そのまま戻らなかったら? 成瀬くん、葵ちゃんがここにいたことすら知らないままになっちゃうんだよ?)
頭の中が、しんと静まる。
沈黙の奥から、今にも消え入りそうな声が漏れた。
『……怖いですよ。私だって』
『昨日みたいに、今度は戻れなかったらって考えたら……怖いです。でも、だからって、お兄ちゃんに「私が戻るまで待ってて」って言うみたいなことはしたくないんです』
私は何も言い返せなくなっていた。
少しの間をおいてから、葵ちゃんはわざとらしく息を吸い、調子を戻すように声を張り上げた。
『それに、私がお兄ちゃんの面倒を見なきゃいけないのは、昔からの義務みたいなものなんですから! 再婚したての頃から、あのお兄ちゃんは手がかかるんです!』
(再婚したての頃……?)
『私が中一で、お兄ちゃんが中二の時です。一緒に暮らし始めてまだ一ヶ月も経ってなくて、お互いに「総司郎くん」とか「葵さん」とか呼んでて、壁が一枚あったあの頃ですよ』
(そんな頃だったんだ)
『そうなんですよ! あれは忘れもしない、日曜日の昼下がりの居間です! 私、どうしても見たいアニメの録画予約をしたくて、テレビのリモコンを探してたんですよ』
葵ちゃんは頭の中で、身振り手振りを交えるように語り始めた。
葵ちゃんの話を聞きながら、私はまだぎこちない中学生二人を勝手に想像した。
『探しても探しても見つからなくて、ソファーの隙間とかテレビ台の下を這いつくばって探してたら、お兄ちゃんが「……何してんだよ」って呆れながら一緒に探してくれたんです。で、二人で雑誌の束をどかしたりクッションをひっくり返したりしてて、私が焦るあまり、無意識に叫んじゃったんですよ』
(なんて?)
『「お兄ちゃん! リモコンそこになかった!?」って!』
葵ちゃんの声が、少しだけ跳ねた。
『その瞬間、お兄ちゃんがピタッと止まったんです。雑誌持ったまま、完全に石化して』
(……成瀬くんが?)
『はい。で、数秒固まったあと、ものすごく真面目な顔でこっち向いて、「……今の、もう一回言って」って』
(……ぷっ)
思わず、私の口から吹き出すような笑いが漏れた。
(成瀬くん、そんなこと言ったの?)
『言ったんですよ! もう、こっちは恥ずかしくて顔から火が出るかと思いましたよ! だから「言わない!」って即答してやりました!』
(で、リモコンは見つかったの?)
『……そこなんですよ』
葵ちゃんが、急に気まずそうに声を落とした。
『……私が着てた、ダボダボのパーカーの、前ポケットに入ってました』
(……)
『重みでポケットが垂れ下がってるのに、探すのに夢中で全然気づいてなくて……』
(……バカじゃないの)
『バカって言わないでください! あれは私の人生における最大級の黒歴史なんですから!』
叫ぶ葵ちゃんの声に、私はベンチの上で肩を揺らして笑った。
二人が途中から家族になって、そうやって少しずつ距離を縮めてきたのだという手触りが、可笑しいくらいに伝わってくる。
笑いながら、ふと、一つの考えがよぎった。
居間のリモコン。
成瀬くんが「もう一回言って」と言った記憶。
少なくとも、クラスメイトの私が知っているはずのない、具体的な出来事。
(……ねえ、葵ちゃん)
『なんですか、まだ笑う気ですか?』
(……それ、成瀬くんに言えば、信じてもらえるんじゃない?)
頭の中が、すうっと静かになった。
(その話をすれば……成瀬くんだって、私が葵ちゃんと話してるって、信じるしかないんじゃないかな)
葵ちゃんは、答えなかった。
静かに私の頭の奥で息を潜めている。
遠くから、路線バスがエンジン音を響かせて近づいてくるのが見えた。
ロータリーへと入ってくる、白い車体。
立ち上がり、鞄を持ち直す。
今、踵を返して病院へ戻れば。
まだ中にいる成瀬くんにこの話をぶつければ、私が抱え込んできた秘密を打ち明けることができる。
信じてもらえないから言えない、という言い訳は、もう通用しない。
――けれど。
足は、一歩も動かなかった。
振られたばかりの私が、妹の記憶を盾にして彼の前に立つこと。
それを成瀬くんがどう受け止めるのか、自分を見る目がどう変わってしまうのか、想像しただけで喉が強張った。
葵ちゃんが止めたわけじゃない。
それでも私は、病院へ戻れなかった。
プシュー、と音を立てて、目の前にバスが停まった。
前扉が開き、数人の乗客が降りてくる。
(……帰ろっか、葵ちゃん)
心の中で呟くと、少しの間をおいて、葵ちゃんが小さく答えた。
『……はい』
ステップを上がり、バスの中へ足を踏み入れる。
整理券を抜き取り、窓際の席に腰を下ろした。
動き出したバスの窓から、遠ざかっていく病院の白い建物を見つめる。
頭の中には、今も葵ちゃんの気配がある。
――でも、もし昨日みたいに、また声が途切れたら。
その先の想像を言葉にできないまま、私はただ、窓の外を流れる景色を眺めていた。




