また月曜と言われた帰り道、頭の中の義妹の声が突然途切れた
冬華の追及は店を出る頃まで続いた。駅前でようやく冬華が改札へ向かい、適当に間に入ってくれた京也くんも「じゃあな」と軽く手を振って人混みへ消えていく。
二人を見送って、私はようやく肩の力を抜いた。
肩の力を抜いた途端、一週間分の疲労と、告白から今日までの緊張が一気に足元へずしりと落ちてくる。
駅ビルの明かりを背に、自宅へ続く通学路へと歩き出した。
『ふぅぅぅぅぅーーっ! 助かりましたね結衣先輩!』
静けさを取り戻した私の頭の真ん中で、葵ちゃんが両手を広げて大の字に寝転がるような気配がした。
『一時はどうなることかと思いましたよ! 冬華先輩の察しの良さはもはや特殊能力の域ですし、水城先輩は水城先輩で天然なのか計算なのか分からない爆撃仕掛けてくるし! お兄ちゃんが途中退場できて本当に命拾いしました!』
(……退場できたのは成瀬くんだけで、私は蜂の巣にされたんだけどね)
『先輩の尊い犠牲は無駄にはしません! ほら、結果的にお兄ちゃん、「また月曜」って言ったじゃないですか! あれは恋愛シミュレーションにおける【確定生存ルート突入】のフラグですよ!』
(生存ルートって……人聞きが悪いわね)
『だってマイナス百からのスタートだったんですよ!? それがたった一日で「来週また会おう」ですよ! 勝ち確とまでは言わなくても、確実にセーブポイントには到達してます!』
葵ちゃんはまくしたてるように語りながら、頭の奥でフンスと誇らしげに鼻を鳴らした。
いつもの、二次元基準の適当な勝利判定。
けれど、その呆れるほどの明るさに、胸の底に残っていた重苦しさがふっと薄れていくのを感じる。
(……でも、成瀬くんの用事、結局邪魔しちゃったかもね。病院、間に合えばいいけど)
『あ、そこは大丈夫だと思いますよ! お兄ちゃん、無駄に体力ありますから! 今頃は全力疾走で――って、そんなことより先輩、さっきのポテトの塩加減の話です!』
(急に何の話よ)
『大事な話ですよ! 冬華先輩が食べてたチェダーチーズポテト、あれ絶対塩分過多です! 私の持論では、ファストフードのポテトにおいて真の至高はノーマル塩味の揚げたて三分以内! なのにチーズなんていうSSR級のトッピングに頼るなど邪道中の邪道、フライドポテトへの冒涜と言わざるを得ません!』
(トッピングくらい好きにさせてあげなさいよ……)
『ダメです! カリッとした衣と適度な塩気、これこそが本体なのに、あんなドロドロした乳製品でコーティングしてしまったら――』
住宅街の狭い歩道を歩きながら、私は呆れて小さく口元を緩めかけた。
相変わらずの妙なこだわりと、どうでもいいオタク理論。
歩道の白線の上を一歩、踏み出す。
『だからポテトの真理っていうの――』
途切れた。
足が、止まる。
アスファルトの上に、私の靴底が擦れる乾いた音だけが落ちた。
通り過ぎる車の走行音が遠くで響いている。
(……葵ちゃん?)
心の中で、いつも通りに意識を向けてみる。
返事は、なかった。
拗ねたような気配もない。息を詰まらせるような沈黙でもない。
さっきまで確かにそこにいたはずの存在感が、すっぽりと抜け落ちている。
(……葵ちゃん、ふざけてるの?)
もう一度、強く呼びかける。
それでも、何も返ってこない。
どれくらいそうしていたのか、自分でも分からなかった。
ほんの一瞬だったのか、もっと長かったのか。それすら判断できない。
いつもなら、私がこんなに動揺すれば、頼んでもいないのに『先輩、どうしたんですか?』と割り込んでくるはずなのに。
「……っ」
現実の喉から漏れそうになった声を、咄嗟に呑み込んだ。
手足の先から、すうっと血の気が引いていく。
電柱の街灯がジジッと音を立てて橙色に灯る。
呼んでも、意識を向けても、暗い虚空へすり抜けて消えていくようだった。
立ち尽くしていた、その時。
『――は、やっぱり塩の結晶が舌に直接触れる瞬間なんですよねー』
何事もなかったかのように、頭の真ん中で声が響いた。
「っ……!」
反射的にその場にへたり込みそうになり、電柱のコンクリートに手をついて踏みとどまった。
(……待って。葵ちゃん)
『はい? わっ、結衣先輩、急にどうしたんですか!? なんで電柱に張り付いてるんですか!?』
(今、続きから喋った?)
『え? 続きって……私、ずっと喋ってましたけど?』
(途中で、声が……消えてたの! 私が何度も呼んだのも、聞こえてなかったの!?)
『えっ……呼んでくれたんですか? ……先輩の声、ほんとに一回も聞こえなかった』
葵ちゃんの声が、微かに震えていた。
頭の中が、しんと静まる。
葵ちゃん自身も何が起きたのか分からず、二人の間に重い沈黙が落ちた。
あの事故。そこから一週間ほどして始まった、この奇妙な同居生活。
なぜ起きたのか、これからどうなるのか、二人とも何も知らないのだ。
このまま家に帰って、朝起きたとき――もし、もう二度と声が聞こえなくなっていたら。
私は電柱から手を離し、踵を返した。
『せ、先輩? どこ行くんですか? 家、逆ですよ?』
(病院)
『えっ!?』
(病院に行くの。身体、見に行く)
『で、でも、もう面会時間ギリギリですよ!?』
(確かめたいの、何も変わってないか!)
小走りに駅へ戻り、そのまま病院行きのバス停へ走った。
滑り込んできたバスに飛び乗り、座席の端に深く腰掛ける。
窓の外を流れていく夜の街の明かりを見つめながら、膝の上で拳を握りしめていた。
◇
バスを降りて病院へ駆け上がったときには、ロビーの自動ドアの前の時計は、すでに面会終了の時刻を指そうとしていた。
エントランスには静まり返った空気が漂っている。
自動ドアをくぐろうとした、その時だった。
スライドドアが左右に開き、中から一人の男子生徒が出てきた。
肩に掛けた見慣れたスクールバッグ。
成瀬くんだった。
「…………っ」
私の足が、タイル張りの床の上で止まる。
成瀬くんも顔を上げ、私と目が合った瞬間、足を止めた。
「……白川?」
成瀬くんの目が、信じられないものを見るように見開かれていた。
「お前……なんで、ここに」
低く、困惑の混ざった声。
帰り道で急に声が途切れて怖くなったなんて、言えるはずがない。
冷静になれば、面会時間が終わっていることくらい分かっていたはずなのに。
何やってるんだろう、私。
それでも、嘘をつくことだけはできなかった。
「……成瀬くん」
乱れた前髪を手で押さえながら、私は彼を見た。
「……急に、気になっちゃって」
「え……?」
「妹さんのこと。今日、顔だけでも見られないかなって思って……走ってきちゃった」
言い訳にもなっていない言葉に、成瀬くんは一拍の間、不思議そうに私を見つめた。
けれど、疑ったり突き放したりする様子はなかった。
「……もう、面会時間終わりだぞ」
成瀬くんは静かに言った。
「さっき看護師さんに声かけられて、出てきたとこだから。もう上、入れねえよ」
「そっか……。急に来て、ごめん」
「いや……」
成瀬くんはスクールバッグの持ち手を握り直し、視線を少し落とした。
「……あいつ、さっき見てきたけど」
「……うん」
「別に、何にも変わってねえよ」
淡々とした声だった。
身体には、何も起きていない。
それだけは分かった。
じゃあ、さっきの声の途切れは何だったのか。
その答えは、やっぱりどこにもなかった。
『……よかった』
消え入りそうな安堵の声が、頭の底にぽつりと落ちてくる。
「……白川?」
「あ、ううん。なんでもない」
冷たい夜の風が、エントランスを吹き抜けていく。
成瀬くんはポケットに片手を突っ込み、少しだけ間を置いた。
「……送るよ。もう暗いし」
「えっ、大丈夫だよ、バスで帰るから」
「バス停まで。お前、息上がってんじゃん」
ぶっきらぼうに言って、成瀬くんは先に立って歩き出した。
私はその背中を追いかけ、横に並んだ。
街灯の明かりが、二人の影をアスファルトに伸ばしていく。
頭の中の葵ちゃんは、静かに気配を潜めていた。
明日も、この声が聞こえるのか。
「……成瀬くん」
バス停の明かりが見えてきたところで、足を少し緩めて声をかける。
成瀬くんが立ち止まり、振り返った。
「……明日、また来てもいい?」
振られたばかりの私。
それでも、妹に会いに来たいと言う私。
成瀬くんは少し困惑するように視線を泳がせ――けれど、拒絶することはなかった。
「……午後なら、俺もいるけど」
「うん。午後に行く」
「……そうか。じゃあ、病室の前で」
成瀬くんは短く頷いた。
「……気をつけて帰れよ、白川」
近づいてくるバスのライトが、二人の足元を白く照らし出していた。




