#09. Zデイから九六日目 『血染めの鍵』
エドガー・ウォーレスは一九世紀に生まれた作家だ。
ミステリを中心に、SFや、映画の脚本なども書いた人らしい。
著作は相当な数になるそうだけど、私が彼の作品を読むのはこの『血染めの鍵』が初めてだ。
とまぁ、そんな作者によるミステリ小説を、私は昨夜から読み始めたんだけど。
しかし、あれだね。
やっぱり日本人作家の小説に比べると、読むのに少し時間がかかる。
いくら翻訳家がちゃんと読みやすい日本語にしても、どうしても言い回しに聞き慣れないものがあったりするんだよね。
原文に忠実に翻訳すればどうしてもそうなるんだろうね。
かといって、あまりに意訳し過ぎて、原文の面影がなくなってしまうのもどうかと思うし。
私は一度本を閉じて、ジュースのグラスを口に運んだ。
今日も私は、相変わらず屋上に置いたデッキチェアに寝ころんで読書と洒落込んでいる。
私が本を読む場所は、大体二箇所だ。
ここか、三階の寝室のベッドの上か、だ。
ちなみに、つーさんが読書をするときは、居間のソファに座りながら、ってのが多いね。
寝っ転がって本を読みたい私とは、少し違う。私よりも彼女のほうが少しだけ行儀が良い。ほんの少しだけね。
そのつーさんはというと、今は私から少し離れた場所で、刀を振っているよ。
ああいうのを型稽古とか言うのかな? 決まった動作を何度も繰り返してる。
これは今日だけのことじゃない。大抵の日は午前中ずっと、つーさんはこうして訓練に励んでる。身体を動かすのが好きなんだろうね。
つーさんの剣の練習は、まるで舞のようで、見てて楽しい。
刀が風を切る鋭い音がヒュンヒュンと鳴る。
まるで踊っているみたいに軽々と刀を振っているけど、あれってすごい重いんだよね。
私も持ったことがあるからわかる。剣道で使う竹刀よりもずっと重い。
しかも重心位置の関係で、振り回すとなると重量以上にキツい。
あの細い体のどこにそんな筋力があるんだろうね?
「ふぅっ」
大きく息を吐き出して、つーさんが刀を下ろした。
つーさんが動きを止めたタイミングに合わせて、私は中断していた読書に戻る。
今読んでいる『血染めの鍵』という小説は、一言で言ってしまえば密室もののミステリだ。
主人公は新聞記者で、友人の警部と一緒に事件の捜査に当たるんだけど、このへんも時代を感じさせるところで、現代の小説ならあり得ない設定だよね。
しかも、そうするだけのもっともらしい理由すらないんだからね。
特になにか理由をつけることもなく、記者が警察と一緒に捜査に参加してしまうのだから、おおらかと言うか、適当と言うか……
他にも、殺害現場でなにか重要そうな物を発見しても、すぐにひょいっと拾い上げてしまったり、それをポケットの中に押し込んだり、思わず「おいおい、証拠の扱いはそれでいいの?」と突っ込みたくなるようなことも多くて、なかなか楽しい。
今は中盤まで読み進めたところだ。
そろそろ次の展開に進みそうな気配で、――これならなんとか、午前中には読み終わるかな?
そのとき、つーさんがこちらを振り返り、大きな声を出した。
「栞子さん! 午後の予定は忘れてませんよね!」
「はーい! 心配しなくても、覚えてるよ!」
私が大きく手を振ると、つーさんは嬉しそうに頷いた。
実はつーさんに、午後から車の運転を教えて欲しいと頼まれているんだよね。
前に二人で外出したときは私が全部運転したからね。彼女は、自分も車の運転を覚えたほうが良いと考えたみたいだ。
ということで、午後から私はつーさんに、ここの庭で自動車講習を行うのである。
門の外に出るつもりはないけど、敷地の中だけでもそれなりに練習できるくらいのスペースはあるからね。問題はないよ。
彼女は高校に入ったばかりだから、本来なら免許が取れる年齢ではないけど、今となってはもう関係ないよね。
自動車免許証をチェックされることもないし。
……そういや警察って、今どうなっているんだろうね? 少なくとも、警察がこの時点でまともに、組織として残っているとは思えないけど。
だってさ、世の中がこうなってから、パトカーなんか一台だって見たことない。
制服のおまわりさんがパトロールにやって来て、「今一軒一軒、住人の無事を確認して回っているんです」なんて言ってきたこともないしね。
「さて、そんなことより、本の続きを読まないとね……」
私はいそいそと本を開き、栞代わりに使っていた私のゴールドの免許証をどけて、中断した箇所から、文字を追う。
◇◆◇◆◇◆◇
「うーむ……」
読み終わった小説を閉じて、私は唸り声をあげる。
「どうしたんですか、栞子さん」
いつの間にか隣のデッキチェアに腰掛けて、私と同様に読書に勤しんでいたつーさんが、横目で訝し気に私を見ていた。
「ああ、もう剣の練習は終わったんだね」
「ええ、とっくに。もう一時間近くこうして隣で本を読んでました。栞子さんはまったく気づきませんでしたけど」
と、ツンと顎を反らせる。え、もしかして拗ねてるの? 可愛い。
「……で、なんで唸っていたんですか? 本がつまらなかったとか?」
それにしては随分集中してましたけど、とつーさんは付け足した。
「いや、つまらなくはなかったよ。面白かった。けどねぇ……」
「けど、なんですか?」
「いや、これミステリなんだけど、この人の本、初めて読んだんだよね」
「へー、ミステリだったんですね。面白かったんなら、次に私も読んでみようかな」
最近は恋愛ものだけでなく、ミステリも読むようになったつーさんが興味を示し、私は「そうするといいよ」と答えた。
「でも、初めて読んだのに、この本のトリックを知ってたんだよね」
「ええ? 読んでもいないのに、トリックだけは知ってるなんてことがあるんですか?」
「まぁ、一〇〇年も前に書かれた、ミステリの古典みたいな本らしいからね。私もどこで見たのかまでは覚えてないけど、他のミステリかなにかで、この本のトリックについての言及があったんだと思うよ」
「へー、そんなこともあるんですね。で、その本を読んだら、あ、あのトリックだって気づいたんですね?」
「そういうことだね。最初の殺人が起きたときに、まさかあのトリックじゃないよなぁ、って思ってたら、そのまんまそのトリックだったっていう……」
「ああ、それでちょっと拍子抜けしちゃったわけですか……」
「まぁ、そうかな? でも、面白いことは面白かったんだよ。トリックも、ああ、これが例のやつが出て来る小説だったんだ、って思うと、読んで損した気分にはならないし」
「なるほど。それでもやっぱり、ちょっと微妙な気分にはなったと。それで唸ってたんですね」
「うん」
私は、つーさんに『血染めの鍵』を手渡した。
「ということで、つーさんも読んだことないなら、是非読んでみたらいいよ。ミステリについて造詣が深まるからね」
「ははあ。では畏まって読ませていただきます」
「うむ。よろしい」
恭しくつーさんは本を受け取った。
「さて、それじゃあ栞子さんには車の運転を教えて貰わないと」
「うん。わかってる。でもその前に、昼食が先だね」
「今日はなにを食べますか?」
「そうだねぇ……」
私とつーさんは、並んで屋上から建物に入るドアへと向かって歩く。
強い日差しがコンクリートに反射していた。
今日の昼ごはんは、ソーメンなんかいいかも? 暑いしね。
手で庇を作って日光を遮りつつ、私はそんなことを考えていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「うん、案外運転って簡単なんですね」
ものの数分でコツを掴んだつーさんは、『要塞』の周りをぐるぐる回りながら、そんなことを言う。
灰色のSUVは多少の凹凸などものともせずに、軽快にに土の上を走っている。
私がしたことといえば、アクセル、ブレーキなんかの簡単な操作を教えただけだ。後はつーさんが自分で勝手に覚えてしまった。
「まぁただ走らせるだけなら確かに簡単だよね。難しいのはたくさんの車の中でちゃんと流れに乗って運転することとか、歩行者に注意することとか……あとは駐車?」
「どれも今となってはあまり関係ないですね」
「他の車も、歩行者もいないもんね。いるのはゾンビくらい?」
「はい。駐車だって適当でも文句言う人もいないでしょうし」
ただ、今は前とは別のところで注意が必要なことはある。
道になにが落ちてるかわからないし、突然道の真ん中に壊れた車が転がっていたりもする。
そういう意味じゃ、世界がこうなる前よりもむしろ危険かもしれないね。
道路を安全な状態に整備してくれる人もいないから、危なくてとてもスピードは出せない。
「そうだね……じゃあ近いうちにこの車で、どこか行ってみようか?」
「え? 私の運転で、ですか?」
「もちろんだよ」
「さすがにまだ早くないですか?」
「でも結局外を走らなきゃ意味ないからね。ここでぐるぐる回ってるだけじゃ、上達しないよ」
「まぁ、それは確かに、そうかも?」
「でしょ? じゃあ、つーさんはどこか行きたいところあるかい? あまり遠くはダメだけど」
「ええ? もう行くのは決定ですか?」
「決定! 実は私も行きたいところがあるんだよね」
「わかります。図書館ですよね?」
「やっぱわかる?」
「そりゃあ、わかりますよ。栞子さんですもん」
つーさんは自動車を停車させて、うーん、と頭を悩ませる。
「……そういえば、車は関係ないんですけど、行ってみたい場所はあります」
「うん、どこだい?」
「すぐそこに、企業の研修所とか、水道局の建物とかあるじゃないですか? あ、それに教会もありましたっけ」
「ああ、あるね」
「近くにああいう大きな建物があると、気になりませんか? あの中になにがあるのか。使える物資とかないのか、とか、ゾンビがいたりしないか、とか」
「そうだね。気になるといえば気になるよ。でも私は基本的に、『触らぬ神に祟りなし』っていうほうだから」
君子危うきに近寄らず。
藪をつつくと蛇が出る。
臭い物には蓋しとけ。
放置して今のところ問題が起こっていないなら、そのまま放っておくほうを私は選ぶ。
「えー、私は気になります。一度探索してみませんか?」
「……やめとこうぜ。別にいいじゃん。放っておけば」
「でも、もし誰か住み着いていたらどうします? ヤバい人が入り込んでいて、この『要塞』や私たちのことも見てるかも」
「双眼鏡かなにかで? どうかなぁ。ちょっと考えられないけど」
「でもあり得なくはないですよ。調べてみたほうが安心できます」
私は少し考えて、すぐにやっぱりダメだと首を横に振った。
「やっぱり危険だよ。広い場所ならゾンビってそれほど危険でもないけど、ああいう建物の中じゃ、接近するまで気づかないかもしれない。つーさんが強いのは知ってるけど、わざわざ危ないことをするのは賛成できないね」
「……確かに、栞子さんの意見はもっともだと思います」
「でしょ?」
「でもですね。それを言うなら図書館だって同じですよ。いえ、むしろ本棚がたくさんあって障害物になるんだから、余計危険かもしれないですよね?」
「うっ……まぁ、そうかも、ね」
形勢が悪くなりそうな予感がして、私は口籠る。
「でも栞子さんは図書館には行くんですよね?」
「う、うん。行く。いずれは」
そこは譲れない。
できるだけ早いうちに、図書館の本を回収したい。
段々読む本が少なくなってきているからね。
それに、本の価値のわからない誰かに、図書館の本を台無しにされたら、泣くに泣けない。
「別に行くなとは言いませんよ? でもだったら、近くの建物も探索していいはずですよね?」
「うぅぅ……」
「栞子さん、図書館に行くときのための予行練習だと思って、ね?」
「はぁ、わかったよ! しゃあないなぁ」
結局言い負かされた私が折れて、図書館の前にまず、近くにいくつかある大きめの建物の調査をすることに決まったのだった。




