#20. Zデイから一二一日目 『レベル7』
「それじゃあ、行ってきます」
運転席の窓からつーさんが顔を出して、言った。
「うん、気をつけてね」
「はい。栞子さんも」
「ちゃんと朝夕二回、定時連絡をするんだよ。忘れちゃダメだからね」
「栞子さんのほうこそ、忘れてて出ないとか、なしにしてくださいね」
連絡は、『要塞』の倉庫でみつけた、トランシーバーを使うつもりだ。
ただ、スペック上の有効距離的には、少し厳しいかもしれないけどね。ダメだったら、そのときはそのときだ。一応持って行って損はない。
つーさんが窓から顔を引っこめると、それと入れ違いに、今度は助手席の窓から若々しい顔がぴょこんと出て来た。
緩いウェーブのかかった栗色の髪と、今じゃトレードマークになった、あずき色の学校指定ジャージ。
「んじゃね。栞子さん。なるべく早く戻って来ますんで!」
「はいはい。渚沙も、ちゃんと無事に帰って来るんだよ?」
「わかってますって!」
渚沙は顔を引っこめると、今度は手だけを窓の外に突き出して、ひらひらと振った。
私が門を開けると、つーさんは危なげなく灰色のSUVを発進させて、門を出て行く。
さすがにつーさんは運動神経が良くて、もうほぼ問題なく車を運転できる。
教習所とは違って、坂道発進だとか縦列駐車なんかは練習していないけど、今となってはあまり気にする必要もないだろうしね。
どうせ動いている車なんか、他にはほとんどないんだからさ。
歩行者だっていないから、ちょっとした操作ミスで誰かを傷つける、なんてこともない。
つーさんと渚沙の二人は、渚沙の仲間たちの様子を確かめるために(そして渚沙が無事であることを知らせるために)、彼らの本拠地である学校に向かった。
どうしても仲間の様子が気になるという渚沙に付き合って、つーさんが里帰りに同行することになったのだ。
運転手兼、ボディーガードってとこだね。
渚沙は仲間の様子を確かめたら、ここに戻って来たいって言ってたけどね。
そのときに、友達を一人、私の『要塞』に連れて来たい、らしい。
同じ避難所にいた子で、ゾンビが溢れる前からの、一番の親友だってさ。
その渚沙の親友とは、一応私も、少しだけ面識がある。名前は、杏奈。
渚沙と初めて会ったときに、彼女も渚沙と一緒にいた。口調とか、ちょっとヤンキー入ってる感じだったね。
渚沙に頼み込まれて、私は迷ったけど、最後にはOKを出した。
ここにあまり多くの人間を受け入れたくはないけれど、たった一人だけなら、ま、いいかって思ったんだよね。つーさんも構わないって言ったしね。
これが一〇人友達を連れてきたいって話だったら、私は多分、断った。
そんなわけで今、つーさんと渚沙は『要塞』の外にいる。
そして私はといえば、『要塞』を無人にするのも気が進まないから、残ることにしたんだよね。
まぁ私が一緒に行ったところであまり役には立てないしね。
刀があればゾンビなんて何十匹でも斬り捨てられるつーさんのほうが、私なんかよりもよほど頼りになる。
私は門を閉めてから、『要塞』の中に戻ろうとして、思い出した。
「あ、そうだ。ついでに生ゴミを処理するつもりだったんだ」
まとめておいたゴミ袋を両手に持って、えっちらおっちらと、庭の片隅に向かう。
袋の中のゴミを、バカでかいドラム缶を横にしたような処理槽の中にぶちまけて、後は放置で良いのだから、処理と言っても面倒はない。
このまましばらく待てば、微生物が分解してくれて、肥料にもなる土のような物ができる。
それを適当に地面に撒けば、それでオッケーだ。
本当ならその肥料で畑でも作るべきなんだろうけど、今のところはまだ、その予定はない。
このあたりが完全に無人になるまでは、なるべくあまり目立つ行為は止めておこうと思ってる。
飢えた人間が、ここに目を付けて襲撃でもしてきたら嫌だからね。
せっかくここは廃墟を偽装してるんだしね。
それなのに、畑に作物なんかが実ってたら、台無しだ。ここに人がいますと大声で触れ回っているようなものだ。
「だったら、ライフルでゾンビを撃つのはどうなんだ?」と言われそうだけど、まぁそれはそれだ。
今でも二、三週間に一度くらいの頻度で、不審人物がこのあたりを徘徊しているのを見かけることがあるんだよね。
近くの民家に空き巣が入ることも、あるみたいだ。
中にゾンビがいたらヤバいと思うんだけどねぇ。
でもスーパーやコンビニなんかに物資がなくなれば、そんなことも言ってられないだろうね。
その内、空き家を一軒一軒、虱潰しに家探しするような輩が現われるかもしれない。
新鮮な野菜は魅力的だけど、今はまだ、我慢するしかないよね。
えり好みしなければ、十分食べていけるだけの食料はあるんだからさ。
◇◆◇◆◇◆◇
「さーて、今日はどの本を読もうかな……」
自室に戻ってきた私は、本棚の前でどれにしようかと考える。
今日、やらなきゃならないことはもうほぼ終わったからね。後は読書をして過ごすのだ。
「やっぱり、ミステリがいいかな?」
一番安心して読めるもんね。
はずれが少ないから。
たまに、トリックがあまりに奇想天外で、なんじゃそら! って言いたくなるときもあるけど。
「よし、これにするかな」
私が手に取ったのは、宮部みゆきの『レベル7』だ。
きっと面白いんだろうな、と思いつつ後回しにしていた本だ。
私ってなぜか、面白そうな本を後回しにしたくなるんだよね。まるでショートケーキの苺を最後に食べるみたいに。私の、変な癖かもしれない。
その本を持って、私は屋上に行くことにした。
プールサイドに置いたデッキチェアが、私のお気に入りの読書ポイントだからね。
外に出てみると、風に少しだけ、湿気が含まれているような気がする。
最近は雨が降っていなかったけど、もしかしたら夕方あたりにはざあっとくるかもしれない。
濡れないようにトランシーバーを、パラソルの下のテーブルの上に置いた。
ページを捲ると、すぐに活字の群れが目に飛び込んできた。
◇◆◇◆◇◆◇
「……これって、なかなか読むのがしんどいね」
一時間近く読書に耽ってから、私は栞を挟み、本を閉じた。
主人公、らしき二人は記憶喪失で、なにもわからないままでどことも知れぬ部屋に放置されている。
その状況が続くので、それを追体験する読者も、早くなんとかして欲しいと思いながらも、やはり不安な状態で放置されるんだよね。
記憶喪失になるのは男女二人なんだけど、個人的な事はなにもわからないし、今いる部屋が誰もの物かもわからない。
おまけに部屋には多額の現金に、拳銃までがある。
「うーん、謎だらけだね」
私はいったん、昼食の用意をするために『要塞』の中に入る。
ソーメンと野菜炒めで昼食を簡単に済ませて、私は再び屋上のデッキチェアに戻って来た。
すぐに続きを読もうと、栞のところから本を開く。
――小説の中では、主人公たちの状況はなかなか改善しないようだ。
それどころか、女性のほうは、視力まで失くしてしまった。
「うわぁ。悲惨過ぎないかな? なんか読むのがツラくなってきたんだけど……」
悲惨なことなんて、ゾンビでもう十分なんだよねぇ。
小説の中でまで、あまり悲惨なのはなぁ。
二人の元に現われる協力者らしき男も、正体不明で怪しい。
なにか騙されているような感覚があって、やっぱり不安は解消されない。
「このやきもきする感じ。たまらんね」
読み進めると、夫を亡くした女性が、行方不明になった年下の友人を捜して、奮闘を始めた。
「ああ、いいね。このキャラ。すごく良い人で、応援したくなる。頑張って欲しい。ってか、この人もやっぱり、主人公っぽいんだよなぁ」
これって、決まった主人公のいない小説なのかな?
謎だらけの状況から、少しずつ少しずつ、読者にヒントが与えられて、こんがらがった糸がほどけていく。うーん、ミステリの醍醐味だね。
ただし、どうにも読者を安心させてはくれないんだよね。ずっと不安感が付きまとうっていうか。
のんびり読書していると、やがて少しずつ、陽が沈み始めた。
そういえば、そろそろつーさんからの定時連絡があってもいい頃だ。
不安感を煽られるような小説を読んでるときに、連絡が遅れたりしたら嫌だなぁ。
相乗効果で必要以上に不安にになりそう。
時計を見ると、午後五時半を回っている。
約束では一応、五時から六時の間に、ってことにしてある。だからもう、連絡が来てもいい頃だ。
待ってるのも落ち着かないので、こっちから連絡してみようかと思ったとき、
『栞子さん、…………ザッ……こちら風早です。……応答願います……ザザッ……』
ありがたいことに心配は杞憂で、ちゃんと時間にはつーさんから連絡が来たよ。
私は、テーブルの上に置いてあった、トランシーバーを取り上げた。
「はい、こちら栞子。ちゃんと聞こえているよ」
『良かった。少し離れているので、通じないかもって思ったんですが、大丈夫みたいですね』
「うん。こっちは山の中腹だからね。その分、遮蔽物が少ないんだと思うよ。さえぎる物がなければ、トランシーバーって結構遠くまで使えるみたいだから……ところで、そっちの状況はどう? もう避難所に着いたんだよね?」
『はい、今は避難所になってる高校にいます。割と綺麗な建物ですよ。なんでも、数年前に校舎を新しくしたそうです』
「そう。それで、避難所の雰囲気はどう? 険悪だったりしない?」
実はそこが、一番心配だったところだ。
避難所の中に、赤の他人がまとめて押し込められて数ヶ月も経てば、諍いのひとつも起こらないほうが不思議だもんね。
周りをゾンビに囲まれて建物から出られないんじゃ、孤立感も半端ないだろうし。
渚沙の話では、案外雰囲気は悪くないってことだったけど。
『そうですね……確かに思ったよりはみんな冷静ですね。全体として雰囲気は良いほうだと思います。ただやっぱり、中には苛々している人もいるみたいですけど』
警察官だった人や、学校の先生などが指導者グループを作っていて、避難者全体に目を配っているらしい。
前に会った、桑原誠司って男性も、その指導者グループの中の一人だ。
学校での生活は、四階を女性が、二階を男性が、間の三階を指導者グループが使っているようだ。そんなところにも、指導者たちの慎重な配慮が窺えるね。
「ふむ。で、つーさんもすんなりと中に入れて貰えたの?」
『はい。取り立てて身体検査のようなものもされなかったですね。栞子さんと違って』
ふふっと、つーさんは含み笑いをした。
『刀は一度、取り上げられましたけど、その後返却されました』
「ええ? それでいいの? さすがに不用心過ぎない、その避難所」
やって来たばかりの良く知りもしない相手に、あっさり武器を持たせるなんて、私的にはちょっと考えられない。
せめて数日、様子を見るくらいの用心深さは必要じゃない?
『でもおかげで、自分の身を守る分にはなにも問題なさそうですね。素手でもそこらの相手には負けませんが、刀があれば百人力です』
「うん、鬼に金棒ってやつだね。……それで、渚沙の話し合いはどうなったの?」
『それがまだ、結論は出ていないようです。結構時間がかかってるみたいですね』
「そっか……まぁすぐに答えが出るもんじゃないのかもね……じゃあつーさん、今日はそっちに泊まるんだね?」
『はい。明日の朝、連絡する頃にはもう、さすがに話し合いの結果も出てると思いますので』
「うん。じゃあまた明日、だね。……そっちはみんな知らない人間ばかりなんだから、あまり油断しちゃダメだよ。いくらつーさんが強くてもさ」
『はい、わかってます。心配してくれてありがとうございます、栞子さん。それじゃ、また明日に』
通信を終えて、私はひとつ、ため息をついた。
うん、想定の範囲内ではあるんだけど。
今日すぐにとんぼ返りしてくる可能性は、低いと思っていた。
「つーさんに限って、なにも危ないことはないと思うんだけどね」
大抵のことは、つーさんの剣の腕なら十分対処できるはずだ。
それでもやはり、『要塞』の外に出た以上、リスクはあるからさ。
早く無事に帰って来て欲しいね。
◇◆◇◆◇◆◇
「うん、面白かった」
暗くなったのと、雨が降ってきたのとで、私は屋上から寝室に移動した。そしてさらに、読書を続けること数時間。
やっと読み終えた本を閉じて、ベッドに仰向けに横たわる。
面白いだろうとは思ってたけど、やっぱり面白かった。
構成が結構複雑で、入り組んでいる。なのに、わかり難くはないもんね。すんなり読めてしまうのがすごい。
ただやっぱり、主人公がいったい誰なの? ってとこがあって、感情移入型の読者は話に入り込み難いところはあるかも。
「そういや、終盤に出てくる病院が、要塞のように見えたって表現があったね」
窓が少なく、高いフェンスに囲まれているので、そう見えたらしい。
それでいうなら、今私がいるこの『要塞』も、まさにそれだね。
二階から下には窓はまったくないし、三階より上にある窓も小さい。おまけにちゃんと、高いフェンスだってある。
つまり最初からなんとなく、ここを『要塞』だって感じた私は、一般的な感覚の持ち主ってことだね。
「うーん、面白かったんだけど、ね」
ただ、しんどかった。なかなか。読むのが。
「悪もんがなぁ。どうしようもないほどのクズじゃん」
本気で救いようのないほどの、ドギツイ悪役が出てくる。
「犯罪を扱う小説に、クズが出てくるのは当然としてもねぇ……」
登場人物の一人、貝原みさおって女の子が特に、気の毒だったね。
薄幸の美少女? 親も、関わる人間もクズっぽいのが多くてさ。綺麗な女の子だから、目をつけられたってのもあるんだろうけど。
挙句の果てには薬を打たれて監禁されるんだもんね。可哀想。
最後にはちゃんと悪もんは報いを受けたようだから、めでたし、めでたし。ではあるんだけど。
そういや悪者といえば、あの渚沙を突き飛ばした革ジャンのバイカーも、結構な悪者ではあったな。
だってさ、あいつってば渚沙の友達を捕まえて、「ぐへへ。なかなか可愛い面してやがるじゃねぇか。後で味見をしてやるからなぁ! 楽しみにしとけよ? ぐへへへへ」とか言ってたもんね。
やだやだ。ああいうのは、元々ああだったんだよね、きっと。
世の中がこうなったから、突然性格が変わったわけではないはずだ。
「まぁ、ゾンビのせいでこういう世の中になったから、本性が表に出やすい状況になったんだろうけどさ」
もちろん、自分に直接関係ないならどんな悪人がいようと、私は気にしない。
けど今は、つーさんと渚沙のことがあるからね。
あのチンピラみたいなバイカー軍団は、渚沙のいる避難者グループと対立しているらしいし、今はそこにつーさんもいる。
まぁ、だからって、すぐに血で血を洗う抗争が始まる、なんてことはないと思うけどね。
「でもやっぱり少し、心配なんだよね」
なにもないといいけどさ。
ってか、しんどくなるから、次はもっと気持ちが明るくなるような本を読むことにしよう。
文句なく面白かったけど、ちょっと疲れたからね。気持ち的に。
私は身体を起こし、読み終わった本を本棚に戻す。
「ミステリとかは避けて……そうだ、冒険小説でも読もうかな」
ファンタジーとかでも、いいかも。
とにかく、気楽に読めるやつがいいね。
そんなことを考えつつ、本棚の背表紙を、ひとつずつ、指差しながら見ていった。




