#17. Zデイから九五日目 『プレイバック』
「あー、気持ち良いね」
プカプカと水に浮かぶ、フロートマットの上に寝そべりつつ、足でパシャパシャと、軽く水を蹴ってみる。
直射日光が当たる体表は火傷しそうなくらいに熱くて、でも水に浸かった足は鳥肌が立つほど冷たい。
熱さと冷たさが両極端で、丁度良いところがない。
「なのになぜか、気持ちいいんだよねぇ。不思議だ」
目を瞑ったまま、瞼を透かして見える、赤い太陽光を感じながら独り言を呟いた。
きっとプールの水面には、反射した太陽の光が、水の揺らめきでキラキラ光ってることだろう。
八月初旬、照りつける太陽の下、私は『要塞』の屋上にあるプールで水遊びをしているのだった。
といっても、ただ水の上で昼寝しているだけだけどね。
――――ヴァァァァ…………ヴィィィィィィ…………
たまにどっか遠くからゾンビの呻き声が聞こえてくるのが耳障りだけどね。まぁ結構距離はあるみたいだから、なんとか我慢できる。
しかし、つーさんの泳ぐ音が聞こえないね。
さっきまでは規則的な水音が聞こえてたんだけど。
つーさんは身体を動かすのが好きだからね。
寝っ転がってるだけの私と違って、つーさんはさっきから、ずっと泳いでいた。
薄く瞼を開けて、チラチラ周りを見てみたけど、つーさんの姿は見えないね。どこに行ったんだろう? もう水から上がっちゃったのかな?
「おうい、つーさん?」
何気なく、そう呼んでみた。まさか返事があるとは思わずに。
――なのに。
すぐ目の前にある水面が膨らみ、その下から黒髪が現れた。
水色の水中眼鏡をかけたつーさんが顔を出して、なんでもないことのように、
「はい、なんですか? 栞子さん」
「のわあ!」
驚いた私は、フロートマットの上でバランスを崩した。
バシャン! 水中に落ちた私は、アバアバと必死でもがく。
そこにつーさんが、手を伸ばして私を捕まえてくれた。
水面の上に顔を出し、つーさんの身体にしがみついて、ようやくホッと息を吐く。
「なにしてるんですか、栞子さん。もしかして、カナヅチなんですか?」
つーさんは呆れたように言うけど、そういうことじゃないんだよ!
「泳げるよ! 泳げるけど、突然はダメなんだ! いきなり水の中に放り出されたら、慌てちゃうだろ!?」
「そうですか? 私はそんなことないですけど」
そりゃ、つーさんは足が着くからいいさ。私はこの深さだと、足が着かないんだよ!
「……ってか、つーさんはどこにいたのさ。急に下から出て来たら驚くじゃないか」
「このプールあまり広くないですからね。ただ普通に泳ぐだけだとつまらなかったんで、ずっと潜っていたんですよ」
「ずっとって、どのくらい?」
「さあ? 三、四分くらいでしょうか」
「どんな肺活量してんのさ……」
運動能力が高過ぎる。
つーさんの肩にしがみついたまま、チラリと下を見る。
黒のビキニのトップスは、控え目に膨らんでいる。
胸は小さいんだよね。
肺活量と胸の大きさは関係ないのかな?
つーさんは、私の前髪を人差し指でそっとかき上げた。
「栞子さんも、水に落ちたくらいで慌てなくていいですよ。どこにいても、すぐに私が助けてあげますからね」
「……なぜ急にそんな、イケメンムーブかますのさ?」
私がそう言うと、つーさんは少し口を尖らせて、「栞子さん、台詞が違いますよ」と文句を言った。
「ん? ……あ! あーあー、そうだった。……コホン、つーさん? つーさんはすっごく強いのに、どうしてそんなに優しいのさ?」
「それはですね……強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない、からです」
そう言ってから、つーさんはポリポリと、頭を掻いた。
「やっぱこれ、ダメです。照れますよ」
「アハハ、まぁそうだろうね」
◇◆◇◆◇◆◇
――昨夜のこと。
キングサイズよりもさらに大きなベッドの上で、私とつーさんは一冊の本を一緒に読んでいた。
レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』だ。
この本は、この『要塞』の元の持ち主である、故、久我健太氏が残した本棚にあった。
最初にイギリスで発行されたのは一九五八年らしいから、随分と古い小説だよね。
翻訳も古くて、まぁ読みにくい。
これってどういう意味? と、頭がフリーズしてしまうことも、しばしばだった。
「でもさ、キャラの口調が面白いよね。意味は分からないけどさ」
「例えば、どこの台詞ですか?」
「えーとね、例えば……ここ。ヒロインのベティが嘆くじゃん。『どこまでも追っかけてくるのよ――地球の果てまでも、太平洋の真ん中の孤島まででも』とかって。それで主人公のマーロウが、『世界一の高峰のいただきまでも。世界一さびしい砂漠の真ん中まででも』と答える。すると、ベティは、『古臭い小説を読んでる人がまだいるのね』と返す」
「サッパリ意味がわかりませんね」
「だよね。でも表現が面白いよ。そして最後に、ヒロインはがっかりして、『あなたは高利貸しみたいに薄情ね』と言って去って行くんだけど」
「ああ、そこだけならわかります。高利貸しは薄情ですよね、多分」
なんて二人で話しながら、楽しく読書に勤しんでたんだよね。
「あ、こんな会話もあるよ。ホテルで襲われそうになって、なんとか反撃して逃れたマーロウが、ホテルの従業員にそれを話すでしょ。すると当然、その従業員から、『警察を呼びましょう』と言われる」
「そこは、普通ですよね」
「うん。でも、そう言われたマーロウの返事は、こうなんだ。『いいところに気がついた。ごらんのように、ぼくはまだ生きている。ここを何にすればいいか、教えようか。犬猫病院にするんだ』……意味がわかるかい?」
「んー? んんんん? いいえ、サッパリわかりません」
つーさんは、頭の上にハテナをたっぷり浮かべて、首を捻った。
「これって、翻訳の問題なのか、書かれた時代の古さの問題なのか、どちらなんでしょう?」
「さあ? 最近の翻訳なら、そりゃ翻訳が問題なんだろうけど、これは随分前の翻訳だろうし、なんとも言えないかな……あとは単純に、私たちの読解力が低いだけって可能性もある」
「うっ、そう言われてしまうと、なにも言えませんね。自分の読解力に自信なんてないですし」
そしてもうひとつ。
この小説には、超有名なあの名台詞が出てくる場面がある。
この小説は知らなくても、この台詞は知ってるって人も多いんじゃないだろうか。
私自身も、たまたまこの小説を読んで、「あ、これってあの名台詞だ!」と、驚いたくちだからね。
『強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない』
ってやつ。
この本では少し、細かいところが違っていたけどね。
「文学史上に残る名台詞だよね?」
「文学史上とかはわかりませんが、格好良い台詞なのは認めます。でも、なんで突然その台詞が出てきたのか、話の筋がよくわかりませんでしたけど」
そうなのだ。
主人公のマーロウがヒロインのベティとベッドインして、そのあくる朝のことなんだけど。
ベティとの会話の中で突然マーロウがあの名台詞を言う。けれど、どうにもその文脈がわからない。
「実は私も、なんで急にベティがマーロウに、『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?』とか言い出したのか、わからなかったよ」
「マーロウが、コーヒーを勧めてくれたからでしょうか?」
『コーヒーを淹れてくれるなんて、なんてやさしい人なの?』って? ……それはいくらなんでも、ねぇ?
「ええ? さすがにそれはなくない?」
「でもそれ以外ないですよ? その前なんか、一夜を共にしていながらベティに、『あれは夜だけのことさ』とかクズっぽいこと言ってましたもん」
「……確かに、そうだった!」
私たちは笑い合って、そして、お互いこの格好良い台詞を言うチャンスがあれば、逃さないようにしようと決めたのだ。
◇◆◇◆◇◆◇
「結局あの小説、最後までなんだかよくわかりませんでしたね」
「うん、ミステリ的なトリックらしきものも出てきたけど、あれもなんていうか、変なトリックだったしね」
プールの縁に手をかけて、バチャバチャと水を蹴りながら、私は言った。
「納得感はあまりないんですけど、つまらなかったわけでもないのが不思議ですね」
「まぁ二人でワイワイ話しながら読んだから」
「あ、それでかもしれませんね」
つーさんが、プールの水に落ちたテントウムシを、手で掬ってプールの外に逃がしてやった。
「あ、そうだ。栞子さん?」
「ん、なんだい?」
「明日、私に車の運転を教えて貰えませんか?」
「別にいいよ」
「ありがとうございます。せっかくここには車があるんですから、運転できるようになっておきたいと思って」
「確かに私にとっても、つーさんも運転ができたほうが助かるかもしれないな」
まぁ今のところは、特に車で遠くに行く予定なんかないからいいんだけどね。
でもできることが増えるのは良いことだし、つーさんがやる気なら教えることはなんの問題もない。
つーさんの運動神経なら、車の運転なんか、簡単に覚えちゃいそうだしね。




