#14. Zデイから九一日目 『江戸城御掃除之者!』
ほとんど真上にある太陽が、プールの底の水溜りに映って眩しい光を反射させている。
一応空には雲もあるんだけど、なかなか太陽の光を遮ってはくれない。
結果、カンカン照りの中、こうして働くことになる。
「ふぅ、ふぅ」
荒い息を吐き出しながら、私は今、屋上にあるプールの掃除をしている。
まず箒で落ち葉や砂ぼこりを集めて、塵取りで集めては捨てていった。
そこまではまだ、良かったんだけどね。
問題はその後だ。
水をかけながら、ブラシでプールの底を磨く作業が、キツい。キツ過ぎる。
あんまり汚れが落ちないしね。
一生懸命擦って、ようやく少しだけ綺麗になる。その程度でしかない。
徒労感が半端ない。
「ねぇ、つーさんよ」
「なんですか、栞子さん」
ショートパンツから剥き出しの素足を大胆に出しているつーさんが、私と同じようにブラシを片手に振り返る。
うん、健康的な色気を振りまいているね。どーん! と、惜しげもなくさらけ出している二本の脚が、迫力満点だ。
「ほどほどで良くない? 頑張って磨いても、たいして変わらないよ、これ」
「正直、私もそう思います。でも、せっかく始めたんですから、一応全体が終わるまではやりましょうよ」
一部分だけ磨いて、他はなにもしないのはつーさん的には「ナシ」らしい。
ほどほどだとしても、やり始めたからには全面を同じ程度には磨きたいみたいだね。
「……わかったよ、しゃーないなぁ」
ため息をつきつつも、私は再びブラシを手に、プールの底を磨きにかかった。
昨夜、推理小説の犯人当てでつーさんと私は賭けをした。
負けたほうが、勝ったほうの言うことをきくって条件で。
その賭けに負けて、本当はプール掃除は私一人でやるはずだったからね。
手伝ってくれているつーさんに、不満なんか言えないもんね。さすがに。
◇◆◇◆◇◆◇
「……ひぃ、ひぃ……ようやく、終わったぁ…………」
体中汗だくになりながら、ようやくプールの全面を磨き終わったのは、それから二時間後だ。
「お疲れ様です」
言いながら額の汗を拭うつーさんは、爽やかに笑っている。
さすが体育会系。体力が半端ないね。
「じゃあ早速、水を入れますよ」
「待って待って」
慌ててプールからあがる。
つーさんがハンドルを操作すると、デカい蛇口から、水が勢いよくプールに注がれる。
「これって水が溜まるのにどのくらいかかるんだろ?」
「わかりませんけど、結構かかりそうですよね?」
「まぁしばらくは放っておくしかないか」
「そうですね」
私とつーさんは、プールサイドに腰掛けて、なんとなく溜まっていく水を眺めていた。
汗で張り付いたシャツが気持ち悪いけど、この天気ならすぐに乾くだろうね。
つーさんが長い脚を伸ばして、プールの水に足を浸し、それを空中に蹴り上げた。
「冷た!」
注がれたばかりの水は、真夏だってのに氷みたいに冷たい。
「ふふっ、本当に冷たいです。でも気持ちいですよ」
パシャパシャと、つーさんが水を蹴って遊んでいる。
そのたびにこっちにも水が飛んでくるんだけど!
仕返ししようにも、残念ながら私の足はまだ、水面まで届かない。……腹が立つ。
「よく見たら、さっきせっかく綺麗にしたばっかりなのに、もう枯葉とか浮いてるね」
「ある程度は仕方ないですよね。ここって山の中ですし。枯葉ぐらいは自然に落ちてきちゃいますよ」
「……まぁ、枯葉ぐらいならまだいいけど、虫とかはねぇ」
「ああ、確かに嫌ですね。でもそれも、ある程度はどうしようもないでしょうけど」
「虫取り網みたいなので掬って捨てるくらいしかできないか」
「ですね。こまめな掃除が必要です」
掃除……そうだ、掃除と言えば。
そういや少し前に、江戸時代の、掃除が仕事のお侍さんの小説を読んだなぁ。
タイトルは、『江戸城御掃除之者!』。
掃除之者という役職の武士の話だ。
そんなお侍さんがいたんだね。
掃除なんか、てっきり女中だとか、小間使いみたいな人がやるものだと思ってたよ。武士の役職にそんなのがあるとはね。
城の中に外部の人間を自由に出入りさせるわけにもいかないので、下級武士が掃除をしていたってことらしいけど。
初めて聞くとイメージが違って驚くよね。
小説の中で主人公は、組頭といって、三つある組のひとつを率いる小隊長的な立場だ。
中間管理職のようなもので、上司に無茶ぶりされては部下を率いて現場を指揮する。
大奥の汚部屋を掃除したり、象の糞を運んだり、幽霊の出る部屋を掃除したり……
結構散々な目に遭うんだけどね。
読み終わった後、面白かったからつーさんに回したんだよね。読んでみたらって言ってさ。
「つーさん、前に渡した、『江戸城御掃除之者!』って小説、もう読んだ?」
「ああ、まだ途中までです。今主人公が大奥に入って、汚部屋の掃除をするところですね」
「まだ一話目じゃん」
「はい。面白いんですけど、聞き慣れない単語が多くて、なかなか進まないんです」
「あー確かに。役職の名前とか、場所の名前とか、江戸時代に使われていた単語がたくさん出てくるもんね」
「そうなんです。辞書で調べたりしながら読んでるんですけど」
「ちょっと前ならインターネットですぐだったのにね。今じゃネットなんて繋がらないもんね」
そういうところは、随分と不便な世の中になってしまった。
触頭とか、肝入とか、上臈御年寄だとか言われても、なんのことかわからないからね。
「私はわからない言葉があっても、なんとなくで読み進めちゃうほうだけどね」
「私はなかなか……やっぱりわからない言葉が気になっちゃいますね」
「それならゆっくり読めばいいよ。いくら時間がかかっても問題ないし」
「はい。のんびり読みます」
……いや、待てよ? 思い出した。あの本の一巻を読み終わったら、つーさんの感想を聞いてみたかったんだった。
三話目の『御殿向 開かずの間御掃除の事』では、幽霊が出るという、大奥の開かずの間の掃除を命じられるんだけど、そのオチについて、つーさんがどう思うか興味があったのだ。
ネタバレはご法度だから、今はつーさんに訊けないんだけどね。
「……つーさん、やっぱりあの本、早く読んでくれないかな?」
「ええ? どうしたんです? さっきと言うことが正反対じゃないですか」
「だってさ、あの本のことでつーさんと話したいことがあったの、今思い出したんだよ。読んでくれないと話せないじゃん」
「……じゃあ、栞子さんが手伝ってくださいよ」
「手伝うって、読書を?」
「はい。側にいて、私がわからない言葉があったら栞子さんが教えてください」
「なるほど。うん、いいよ。そうしよう」
それならと、つーさんは立ち上がる。水に濡れたつーさんの脚が、太陽に照らされてキラキラ光っている。
「じゃあ、早速続きを読みますか。本を持って来ますね」
「あ、それじゃあ私の分もよろしく。適当にミステリかSFを一冊持って来て。私は飲み物でも用意するから」
「了解しました」
やった! プールサイドで優雅な読書タイムだ。
ときどきやっていたことだけど、今までと違うのは、ちゃんとプールの中に水があることだ。プールに水が入っているってだけで、体感的に涼しさが全然違う気がするよね。
ウキウキしながら、私はジュースを取りに、キッチンへと向かった。




