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コアワルツ・リィンカーネーション  作者: 彷徨南無
幽玄、或いは無限

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13/14

Be the one ⑤

「止まれ!特攻は無意味―――」


「悪いね、ロボットさん。弾薬の尽きた俺でもちいとばかしの時間稼ぎはさせてくれや」


 ウスバの叫びを受け流し、ファーストアース軍の戦闘機は真っ直ぐに万軍へと突っ込み喰われていった。その口内では粘液に包まれ爆発も起こらない。


「ウスバ!人数が足りないわ、後退しながら増援を待ちましょう」


 凹みと傷にまみれた迫撃機巧を操り、歯噛みしながらナターシャはウスバに声を送る。止まることの無い有脳体の供給により弾薬に制限のある連合軍は窮地に立たされていた。


「そーするべきだなッ!」


 ウスバの機体は急旋回し万軍の脳天へ向かう。巨大な一つ目から放たれた光線によって機体は真っ直ぐ貫かれ爆発した。その爆風を追い風にし、機体から脱したウスバは迫撃機巧の伸ばした掌の上に落ちる。万軍の光線を避けながらポポラスは後ろに跳んだ。


「アリカとは繋げるか」


「遠くて無理ね。今はお邪魔だし」


 穏やかだが少しだけ寂しそうにナターシャは答えた。アリカはエリィの元へ飛ぶ際に重いゴーグルは外している。誰かに預けておりそのうち取り戻す可能性もあるがこの混沌とした状況ではあまり期待できないだろう。彼女への通信回路は生きているから無線機のみ付けているようだ。


「そうか。では少しばかりボクが操縦席に座ったって問題無いなァ」


 え、とナターシャが言葉を飲み込む間もなくウスバはいつの間にかポポラスの掌から表出させたコードの束に自身の掌から伸ばしたコードを滑り込ませた。








「みんな、ねむって」


 静かな聖遣の声が全ての生きた有脳体に向けて響く。有脳体は一度肉体が欠けても命令を聞くことができるように遠方の軍人や聖遣の声を捉えられる波形測定器が埋め込まれている。一度設定した状態に巻き戻るかたちで再生するので、同じ仕組みで聖遣にもグソクの命令が届いていた。


 各地に見られた拉致型による白い光が減衰していく。異星の極地にて破壊の限りを尽くした有脳体達が地面へゆっくりと墜ちていった。アリカの無線機を借りてエリィはパシェに声を伝える。


「これで、有脳体はみんな休眠状態に入ったよ。攻撃したら万軍……王様の機体の餌になるから、そっとしておいてね」


 モニターにて有脳体達が活動を停止したのを確認しパシェは万軍の方を見た。己の内の敵愾心を抑え冷静に問うた。


「グソク機も有脳体で構成されているのではないのか?」


「私が操れるのは生きた有脳体だけ。あれは全て死んだ有脳体でできてる」


「そうか。了解した。……休眠した奴等の眠りが覚めることは本当に無いのだな」


「うん。邪魔しないであげてね」








 突如動かなくなった侵略者に困惑していた兵士達にパシェから通信があった。


 フサマキの眼前に有脳体が横たわっている。軍からの伝達を聴いて、彼女は短く息を吐いて嗤った。そして無傷のまま氷床で静止した口腔型を踏み潰す。赤外光線も同時に発射され真っ黒な血が大量に飛び散り彼女の顔を濡らした。咳をして手袋に血反吐を吐くと、もう返り血と自らの血の見分けがつかない。彼女は次なる標的の気配を感じ取ってゆらりと振り向き、また黒い血溜まりを残して消えて行った。








 エリィはくらりと前に倒れそうになって、アリカに支えられた。有脳体全てへの命令は身体に負担がかかるらしい。すぐに姿勢を正したが少し虚ろな目になった彼女をアリカは苦し気に見つめる。


「大丈夫?」


「うん」


 青白い顔で微笑んで見せる。エリィには分かっていた。機能を停止した有脳体であろうと殺す兵もいることを。彼女の冷たい手をアリカは強く握った。そして遠方にて孤軍奮闘する万軍を険しい顔で見据える。


「アタシ、ナターシャの所に行かなきゃ」


「私も行くよ」


 平然とそう言ったエリィに向き合い、アリカは食い気味で反抗した。


「ダメだ。アタシには迫撃機巧があるけどエリィは生身なんだ。傷ついて、何度まで再生するかなんて分からない」


 必死に訴えるアリカを見てエリィは目を伏せた。もうエリィは触手も有脳体も盾にしようとは思えない。悪役のパフォーマンスは必要なくなっていたが、悪役でいた方が強いことは明白だった。


 言葉を探すエリィを待たず、アリカの無線機に通信が入る。


「アリカさん、聞こえますか」


「マダラか!今ナターシャ達の所に行こうとしてるんだが」


 焦っているのか、指令室で戦況を視るマダラは早口に捲し立てる。


「そこを動かなくて結構です!今ポポラスにウスバさんが乗ってまして、電波の媒介になってます。その無線機だけで接続できるようにしたので、ポポラスと繋いでください。立地的にまずい動きはウスバさんが修正します」


 怒涛の情報量にアリカは圧倒されるが、その熱量に押されてすぐに答えた。


「わ、分かった」


 アリカのヘッドホン型無線機と迫撃機巧接続ゴーグルは元々一体のものである。両方の機能が揃うことで最大の効果を発揮するが、片方でもある程度のことはできる。無線機だけの場合、人体とコアが接続することによる認識拡張の効果は得られるがそれはナターシャのみの認識となっていた。


 アリカのヘッドホンにぴったり耳を着けていたエリィは彼女に訊く。


「ここで戦うの?」


 表情は変わらないがその声に喜びが滲んでいるのを感じてアリカはニヤッと笑った。


「あぁ、ここにいたままで繋がるらしい」


 二人は繋いでいた手を組み直す。アリカはもう片方の手を肩甲骨に、エリィはアリカの腕の付け根に当てる。地上の電灯が歪なホールドを照らしていた。


「アタシと、踊ってくれる?」


「喜んで」








 電気が迸りポポラスとアリカが繋がる。瞬時にナターシャは万軍を見上げた。アリカがおらず認識できていなかった内部を探る。レナの時とは別種の異様さを感じ取った。


「あれ、一人になってる……乗ってたはずの女の人がどこにもいないわ」


 ナターシャの声を聴きアリカは目を見開く。自身が迫撃機巧で戦った際は口内に留まることでその近辺に赤外線砲が直撃するのを避けていた。人間を殺さないために。赤外線砲が命中した後も致命傷を負ったような混乱や痛みは感じていない。


「ふむ、攻撃の衝撃で死んだか?グソクはどうなってる」


 暫し万軍は赤外線砲の射程外で停滞している。ウスバの問いにナターシャは慄然として答えた。


「……今、飲み込まれたわ。死んだ有脳体の中に……ねえ、これまずいんじゃないの⁉自爆とか」


 エリィは冷静にナターシャに声を送る。


「死んだ有脳体は爆発しないよ。特攻はあるかもしれないけど」


 特攻。自爆。万軍の中で何が起こったのか、アリカには知りようも無い。ただ、暗夜に望むたった一匹の深海魚は何故か哀れに見えた。味方の空挺は次々と墜ち、最期の光で夜を照らしている。深く息を吐き、前を向いてポポラスに訊いた。


「ナターシャ、ウスバ。アタシ達の動きちゃんと伝わってるか?」


「問題無いぞ!好きなだけ踊ってやれ」


 ウスバがそう答えた直後に、エリィは素早く回転した。そのままステップを踏みつつ上半身を大きく反らす。ウスバは強がりの口笛を吹きながら猛スピードでそのステップを進行方向へと修正した。


「ナターシャ、私の動き参考にしていいよ」


 アリカにリードされつつもナターシャはエリィにリードされている。まだ、こんなに違うダンスがあっただなんて。悔しさと嬉しさに存在しない胸が熱くなる。


「見せつけてくれるわね!」


















 少し前。


 万軍を操作し俊敏に動く戦闘機に尾で攻撃する。それは虚空に振り下ろされ反撃の爆撃を喰らった。衝撃に耐えながらセカンドアースの王は思考を巡らせた。


「まだ……まだだ、有脳体一体でいい、聖遣の脳さえ撃ち抜けられれば」


「陛下」


 有脳体を操っていたハナガサがグソクの言葉に被せるように言った。反撃に出るはずの有脳体達は地表に倒れている。そして静かに続ける。


「我々はもう負けました。これ以上聖遣にも空挺の兵にも戦いを強いることは無意味です」


 王は憤り腹心を振り返った。弾薬の尽きた戦闘機が離脱し万軍には暫しの停滞が許される。


「ふざけるな!全員が今も勝利のために戦っている!何も終わっていない……我が軍に貴様のような腑抜けはおらぬのだ」


 王の怒りを真正面に受けながらハナガサは瞬きの一つもしない。彼の後方に設置された操縦席で凛として言い放った。


「腑抜けで構いません。聖遣が機能しなくなった今、じきに敵の攻撃は万軍に集中します。ここは皆で退きましょう。陛下は生き残らなければなりません」


 王もその覚悟を受け取り、一度口を結ぶ。そして静かに答えた。


「であれば尚更退けん。この機を逃せば我々の未来は永遠に失われる」


 前方に向き直った王は再び万軍の攻撃を操作する。その瞳には有脳体の目から送られる聖遣の中継映像が捉えられていた。


「問答は終わりだ。私は聖遣を撃つ。貴様は空挺の指揮を取れ」


 ハナガサが返事をする間もなく、ファーストアース軍の戦闘機の一機体が突っ込んでくる。王が万軍の大口を操作しそれを噛み砕いた。万軍が鉄の塊をパイロットごと嚙み砕き飲み込む。その直後、万軍はグソクの操縦からオートモードに切り替わった。王は振り返らないまま低い声を出す。


「……おい」


 ハナガサの行いである。


「陛下。私がお仕えできるのはここまでのようです」


 軽やかなリロードの音を聞き、王は口端を歪めて後ろを見やった。ハナガサは懐から出した真っ黒の銃を右手に持っている。その顔は穏やかだった。


「この私に早撃ち勝負か」


 武芸に優れない王にとって射撃の腕前とはその生命線ですらあった。誰より磨いてきた技術である。


彼女は無言で背後から撃たなかった。微々たる殺気も感じられないその表情。声色。ここで散る気か。如何にもカムリの配下らしい。王は懐に手をやる。


「いえ」


 しかしハナガサは王の思考の埒外に居た。


「グソク様。私は、何も後悔などしていないのですよ」


 その銃口を自らのこめかみに当てる。目を見開き硬直したグソクに優しく語りかけながら。


「は」


「それでは、お元気で」






 乾いた音と、鮮血。グソクは引き金に指すらかけていない。ハナガサの微笑んだ顔から力が抜けて項垂れる。銃が彼女の手からすり抜けてグソクの足元に転がり落ちた。


「ナ、ガサ」


 灰色の操縦席に縛り付けられたままだらりと垂れたハナガサの身体から赤黒い血が零れ落ちる。


「ハナ、ガサ……?」


 席を立ち、その肩に手を伸ばすと、彼女は触れる直前でビクリと身体を震わせ口から大量の血を吐いた。目に光は宿っていない。グソクは後方に飛びずさった。二人用の広くはないコクピットの床が血で埋まっていく。






 何故?何がハナガサを殺した?憎しみか?後悔か?罪悪感か?恐怖か?違う。全部違う。では何が。何か……理由があるはずだ。あるに違いない。そこらの能無しとは違うのだ。感情に支配されて選んだ行動であるはずがない。では理論があった?今ここで死ぬべき理論とは何だ?なぜ私を案じるような言葉を発しながら死んだ?全て妄言か?違う。違うはずだ。しかし見つからない、今ここで死んで何が、何のために、私に知り得ぬことなのか?個人的なことか?では何故あんなに晴れやかな表情をしていた?何もかも上っ面のものではなかった。私を想いながら私に背いて死んだ?有り得ない。違う。違うはずだ。では何故。感情ではない。論理ではない。では何だ。それ以外など有るのか。ずっと死ぬつもりだったのか。違う。違う。全て間違っている。おかしい、何か、何かずっとおかしいのだ。私に間違っているとでも言うのか。違う。混乱している。違う。怖かったのか?違う。違う。直さねば。まだ、まだ、何か、何かを見落としているはずだ、打開まではいかなくとも、何かほんの少しでも状況を好転させる方法が


「可哀想に」


 グソクの思考が止まる。嘲笑と望まない言葉の幻聴が彼を襲った。




「そうやって、屍の上に立って……」「最初から分かっていたんだろう」「第二王子」「かわいそうね」「可哀想な子なんかじゃないわ」「貴様は王にはなれない」「お前は父様みたいにはなれない」「随分、滑稽だな」「ハハ」「かわいそうに」




「黙れ!消えろ!」


 怒号が幻聴を掻き消す。いつの間にか呼吸は浅く全身から滝のように汗が流れていた。コクピットと有脳体の死肉を別つ薄い板が破られ、白い有脳体によってハナガサの死体が飲み込まれる。半狂乱に発した言葉を万軍は命令と受け取ったようだった。


 後部の操縦席が丸ごと万軍の死肉に埋め尽くされた。グソクの脚から力が抜けてその場にへたり込む。頭を抱え、儀礼のために伸ばした長髪をぐしゃぐしゃに掻き毟る。


「……せ」


 項垂れたまま低く唸るように声を出した。それは万軍に聞き取られなかったようで、彼はゆっくりと言い直す。


「私を、飲み込み……目についたもの全て破壊しろ。最後の命だ」


 万軍がそれを承ったのか、グソクに確認する術は無い。彼は懐に入れていた銃を取り出し、額に銃口をぴったり当てる。彼の百発百中は揺るがず、浅い呼吸と震える両手に乱されながらも的に当てることができた。


 万軍は死した者しか飲み込むことができなかった。








 禍々しい深海魚がサードアースの空にて強烈な威圧感を放つ。万軍は第二赤外線砲の射程を見切ったようで全く射程区域に近寄らなくなった。ポポラスの通信を聴きながらパシェは命を下す。万軍を倒す目算は立っていた。


「全ての兵力をグソク機へ充てろ。ここで敵の士気を抓むぞ!」


 出番を待っていた銃火器達が万軍へ火を吹く。立て続けに放たれた地対空ミサイルが標的に到達する前に光弾によって相殺された。一切の思考を棄てた万軍は向かってくる敵を驚異的な反射速度で攻撃している。威力が低いが一秒ほどで放つことができる光弾を近距離の敵に、破壊力に長けるが数秒ほどチャージに時間がかかる光線を遠距離の敵に使用しているようだ。ミサイルの雨が途切れると鎌首をもたけるようにしてその砲台に照準を合わせ、光線が放たれる。直撃した砲台から高く火の手が上がった。近づきすぎた狙撃手達も光弾に焼かれていく。指令室の兵は歯噛みした。


「着弾しません、先に撃たれます!」


「撃ち続けろ!」








 アリカは片目を瞑りもう片方の目でエリィに目配せする。エリィもそれだけで理解した。万軍から距離を取る。クイックステップだ。跳ねる。無い右脚も使う。無い地面も舞う。


 心底安心した。エリィはアリカが至って自然に、恐らく無意識に笑って踊っていることに、心底安心した。昔からずっと求めていた笑顔だったが、エリィがそれを取り戻してしまっては二度と離れられなくなると分かっていた。だから、ナターシャや、他の様々な人々のおかげでまた彼女が笑えるようになったことが嬉しく、寂しく、切ない。


 大きく反っていた腰を元に戻し、二回転の後エリィはアリカと刹那の間正面に向き合う。プロムナード・ポジションからクローズド・ポジションに切り替えられた。エリィは上目遣いに訊く。


「ワルツ。いい?」


「うん。行こう」


 アリカと少しでも長く触れ合っていられるように、自然とワルツを選んでいた。思い返せば、二人で最初に踊ったのもワルツだった。義足の無いアリカをエリィが支え、上下の浮き沈みと回転を流麗に繰り返す。


迫撃機巧が爆炎を追い風に舞う。黒煙が白銀のドレスを際立たせた。








「海が見えたぞ!」


 ポポラスの掌でウスバが叫ぶ。設置された砲台に沿って進んだ迫撃機巧は陸地の端まで辿り着いた。ここで集中砲火が途切れた時、迫撃機巧は万軍の標的となる。できればより海の近くに誘導したい。アリカは汗だくの四肢を動かし前に進む。ポポラスもそれに呼応する、が―――


 死力を尽くし続けた鋼の肉体が限界を迎えた。ポポラスは回転しきることができずに地面に倒れる。左脚の下部から火花が散り、管の束が露出していた。付近の爆発による爆風などでダメージを負っていた脚を酷使した結果だろう。指令室のマダラは息を吞む。


「左脚下腿部、機能停止……ナターシャさん!」


 迫撃機巧の付近にあった最後の砲台が爆発した。万軍は身体を揺らし、砂塵にまみれ倒れ伏したロボットに照準を合わせ眼に光を集めていく。


「バカね……」


 にやっとナターシャは笑った。ウスバも笑う。


「頭は悪くなったなァ!」


 ウスバの操る小さな無人戦闘機三機が三方から一斉に万軍へ突っ込んだ。三機とも全く同じ速度で、全く同じ距離から万軍へ突撃する。万軍は瞬時化石した。


「今!」


 ナターシャが力の限り叫ぶ。パシェはその覚悟を受け取った。


「第三赤外線砲、撃て」


 万軍に無人の戦闘機三機が激突し、黒煙が上がる。しかし致命傷には程遠く、万軍は次に地表に新たに現れた動く代物―――第三赤外線砲に向かい照準を合わせた。


「遅いな」


 深海魚の脳が赤い光線に貫かれる。歪な翼も撃ち抜かれ、頭から轟音を立てて氷床の端に墜ちた。すぐに重量に耐えきれなくなった氷が割れ、その骸は飛沫と共に真の深海へと沈んでいく。分離した骸の欠片が海面に白く浮かび上がっていた。








 万軍の撃墜した地点から遠くに浮かぶアリカ達にも、その様は見えていた。海に落ちていく万軍の姿に、アリカは既視感を覚える。迫撃機巧に搭乗して最初に打ち倒し、海の中へ墜とした人型侵略者の姿が重なった。安堵と疲労のなかで彼女は声を落とす。


「あれに乗ってた人達……もう、助からないんだよな」


 互いに海を見たまま、夜の風を感じている。


「それを、望んだ人達だから」


それきり二人は黙って固く手を握っていた。








 地表の敵を全て掃討し暫しの安堵に包まれていた指令室に急報が響く。ファーストアース大将、クマシからの全体放送だった。


「セカンドアース、ファーストアース、サードアース、全ての人間は直ちに戦闘行為を停止してください!」


 その切羽詰まった声色にパシェは立ち上がる。


「何事だ」


 クマシは拳を握り、逸る心を抑えゆっくりと述べた。


「セカンドアースの軌道が、サードアースに重なりました。早くて六時間後……二つの惑星は衝突します」








 セカンドアースは自由浮遊惑星である。付近に恒星が存在せず孤立している惑星のことをこう呼ぶ。ほぼ不可視かつ一定の軌道を持たない性質から観測は困難だが、二百五十年前にファーストアースにてセカンドアースを発見することができた。これはセカンドアースがファーストアースに比較的接近していたこと、すれ違った恒星と重力で引かれ合い増光の反応が確認されたことが原因である。


 セカンドアースは現在も無軌道な軌道を描いている。但し、この南極決戦の直前からその舵はサードアースに向かって切られており、徐々に加速していた。これを知っていた者はグソクとセカンドアースの高官、天文学者などのごく限られた人間達だった。


 その誰もがここまでの加速を予期していなかったのである。








 パシェ含め誰もが状況を飲み込めていない。必死に脳を回転させ彼女は言葉を紡ぐ。


「二つの星の距離は二千万キロあるはずだろう、なぜ六時間後に衝突などと」


 余裕の無いクマシの早口がパシェに被せるように繰り出された。


「それは古い情報です。セカンドアースは既にサードアースの恒星の重力圏に突入したんです、貴方方サードアースが御自分の衛星の一つや二つお持ちであればこんなことには……とにかく普通では考えられない速度で真っ直ぐこの星に引かれているんですよ、今は三百万キロ地点ですから何とも感じないでしょうが、そのうち海流に影響が出て来ます。概算ですが六時間後には二つの星は衝突……同じような質量ですからいずれマグマに覆われた一つの星が出来上がるでしょう」








「嘘だろ」


 満身創痍のアリカから震えた声が漏れる。


「両方の星が無くなるってのか……全部……消える……」


 空を見上げて呆然としたアリカをエリィが抱きしめる。自分の身体に巻き付けていた触手までアリカを包んだ。細い腕と白い触手の中でアリカは熱を感じる。エリィは不安に目を見開いた彼女の頬に触れる。そして告げる。


「大丈夫だよ。私達は何もかも……大丈夫」








 燃料を補給し再び戦線に戻って来たハリア達は早々にこの戦争の終わりを知ることになった。無線でパシェやクマシ達が何やら対策を練ろうとしているようだが、ハリアは構わずに話し始める。


「マトラ大佐の高笑いが聞こえてくるぜ。どうせ世界は終わるんだってな」


 皮肉っぽく笑い、暗闇の中でハリアは羽ばたき飛び上がる。この戦闘を経てもコアギアの動作は何ら問題無い。イエローは神妙に言葉を返す。


「本当に終わるんでしょうか」


 地上では負傷者が担架に乗せられて運ばれている。有脳体はぴくりとも動かない。


「ま、何にせよ俺達には何にもできねえな。隕石ならともかく、同じぐれえの大きさの星が突っ込んでくんだからよ。一応この辺で待機はしとくか?」


 軽く普段通りに話す彼に対してイエローは何か遠慮するように言った。


「あの……左手と左脚、怪我してますよね。治療してもらいに戻りませんか?」


 目立った流血こそ無いがハリアは骨を折っていた。庇いながら走り飛んでいたがイエローの目を誤魔化すことはできない。


「別に大した怪我じゃねえよ。他の奴が優先だ。お前こそ、最後の最後まで俺の背中にくっついてていいのか」


 ハリアは何か予期していたようにこの状況を飲み込んでいた。ここに来る前から、全く予期していなかった事由でここで死ぬかもしれないと思っていたのかもしれない。


「私は……」


 イエローはまだ迷っている。何かできることは無いのか、全て諦めるべきなのか、ただ自分のために行動するべきか。


 傷だらけの翼が刺すような極地の風に吹かれている。ハリアは窮屈なヘルメットを取り外してそれを浴びた。空を見上げても、セカンドアースを視認することはできない。


「俺は飛んでいたい」


 本心だった。皮肉も作り笑いも無かった。だから、イエローも答えることができた。


「私もです」








 ファーストアース母艦では次々に脱出艇が発進している。クマシの命により帰還を希望する者達はファーストアースに向けて飛び立った。セカンドアースの軍艦達は有脳体が眠りについたため全くの戦闘の術を持たない。彼等には帰る場所すら無かった。


 母艦に同乗していたジンはクマシのもとへ車椅子を走らせ、訴える。


「クマシ殿。貴方も巻き込まれます。どうかお逃げください。ファーストアースとて貴方を失っては」


 モニターにはコンピュータによる計算が立て続けに表示される。クマシは息を吐いてどかっと椅子に座った。


「セカンドアースとサードアースが同時に滅べば、ファーストアースも衰亡の一途を辿るでしょう。……私はまだ足掻きたい。どの星にも失くすのが惜しい人が一杯いるんです」


 その顔はモニターの青い光に照らされている。出来ることは無に等しいと誰より理解していながら、確かに足掻いていた。ジンはその瞳に自らの甘さを感じ取り、恥じ入りながら深く礼をする。


「ありがとうございます……どうか、知恵をお貸しください」


 ジンも、死ぬまで足掻くと決めていた。








 氷床の上で、膝を折りフサマキは前に倒れこんだ。もう立っている必要が無くなったからである。彼女は血だまりの中でボソボソと声を出していた。


「うん……」


 コアと話しているようである。


「解ってるよ、自己満足だって……」


 コアにしか聞き取れないほどのか細い声だった。


「ごめんね、巻き込んでさぁ」


 彼女の気管からヒューヒューと音が鳴る。発声が億劫なのが逆にオランとのラグを打ち消していた。彼女だけにオランの冷たい機械音声が聴こえる。


「これで 満足 しましたか」


 もうコアへの支配は解けている。今更オランが人を呼び治療を受けたところで、数時間の命には変わりないのだろう。この星の全員がそうなのだ。


「うん。もう、大丈夫……」


 霞んだフサマキの瞳にもぼんやりと空が映る。咳き込むとぼんやりとしていた身体が勝手に血を吐き出した。誰かの啜り泣きが聴こえて、彼女は微笑を浮かべる。


「泣かないでよ、オラン。ほら……星が綺麗だぜ」








「ウスバ、きこえてる?」


 有脳体や人間の転がる氷床を全速力で走っていたウスバの元にユーニの声が届いた。互いに遠隔で声が届くようになっており、ユーニはウスバの進行方向から少し逸れた地点で人目を避けて物陰に潜んでいる。


「ユーニ?」


 その声にらしくなさを感じて、ウスバのサードアース本部に向けていた脚の動きが鈍る。ユーニは困ったように笑った。


「ぼく……ぼくさ、うまく言えないや。なんでかな……」


「……どうした」


 地上を覆うような言い知れぬ悪寒を感じてウスバは周囲を見渡す。足元で動かなくなっていた有脳体達が俄かに痙攣し始めたのを見て、すぐに踵を回転させた。氷が割れるほど強く蹴る。


「そっちに向かう!言いたいことは直接言え!」


 そう叫んでウスバは跳んだ。不安定な瓦礫の山に体勢を崩されても、駆動部が過度に熱を帯びても構わず、真っ直ぐに駆ける。崩れた発電所の影に、小さな有脳体が浮かんでいるのが視えた。ユーニも跳んで来る彼女を視認して、微笑む。


「ウスバ」


 一つ目と皮膚の境から黒い体液が漏れる。影に溶けてしまいそうな有脳体の黒い血も、ウスバははっきりと見ることができた。


「……さよならって、それだけなんだ。わざわざよびよせちゃって、ごめん」


 ユーニは確かにウスバに面と向かってそう言った。倒れるように着地したウスバが口を開きかける。


その言葉を待たずに、ユーニの身体は黒い液体となって弾けた。








 エリィは身体を震わせ、口を手で覆う。指の間から黒い液体が数滴零れ落ちた。ふと顔を上げると、アリカに向けて微笑みかける。


「そんな顔しないで」


 その青白い顔にアリカは一層苦しくなり、俯いて頭を振った。そしてエリィの冷や汗を拭う。


「……身体、苦しい?」


「平気だよ」


 垂らしていた触手を持ち上げ、口と手を拭い、エリィは姿勢を正した。アリカより少し上に浮かび、彼女を自らの胸に抱き寄せる。


「アリカ姐がいるから、怖くないの」


 目を見開いたままのアリカの顔がエリィの胸に埋まった。アリカは震える手で彼女の背に触れる。その手は沈み込んだ。


「大丈夫……これは、ただのおまじない」


 囁く声が聴こえる。アリカの全身が何かに包まれていく。声を出そうとしたが、口から出るのは泡ばかりだった。


「遍く命は宇宙てんから遣わされし聖なるもの。集合し散逸するもの。宇宙へ還るもの。宇宙よ、どうか、須臾の間、わたしの命がみなとひとつになることを、御赦し下さい」


 そう唱えるエリィの顔もアリカには見えない。手で抱いていたものが輪郭を失っていくと同時に意識も遠くなっていった。


 声だけが聴こえる。


「おやすみ、アリカ姐」








 聖遣の輪郭が融け、水浅葱の液体となりアリカを飲み込んだ。有脳体の全てが液体に融け、聖遣の元へ浮かび上がる。液状の球体がそれらと混ざり膨張していく。万軍すらも同化しようとしているのか、膨大な海水すらもその球体の元へ引き込んでいた。




 海水が空を渡っていくのをウスバはぼんやりと見上げる。彼女だけはこの事態に腑落ちしていた。誰に言うともなく呟く。


「そうだな。元来……キミの寂しさが有脳体を生み出したんだ……」


 肥大していく聖遣に極地は急速に飲み込まれており、最早逃げる術は無い。


 全てが一つになろうとしていた。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 暖かい……


 春が来たみたいに、染み入るような温もりだ。人肌のそれじゃない。


 エリィの腕の中にいるはずなのに、エリィが遠くなっていくのを感じる。


 また、いなくなるのか。アタシ達のために。


 もし、エリィが犠牲になってみんなが生き残るなら、アタシは……


 もう後を追うなんてできない。もう単純だった頃のアタシには戻れない。悲しいけど、急激に痩せ細るようなこともなくて……ずっと悲しみながらも父さんと生きるんだろう。エリィがいない場所でも笑えるようになったから。




 最悪だ。アタシはエリィが居ない世界に、きっと折り合いをつけてしまう。














 懐かしい声がする。誰の声だったろうか。


 アタシは目を覚まして目元をこする。右手に違和感を覚えたけれど、すぐにその違和感に対して違和感を抱いた。身体のどこもおかしな所は無い。右脚だって―――


 なんで右脚が気になったんだろう。痛むわけでもないのに。下の階のリビングからは料理をする音が聞こえる。そうだ。確かに、毎日こんな生活を送っていたはずだ。この部屋だって見覚えがある。自分の部屋だった。


「アリカー?遅れるよー」


 知っている声。この扉を開けた階段の下に、みんないるはずだ。跳ね起きて突っ込むように扉を開ける。身体は軽かった。


 朝食の匂いがする。この古びた階段も手すりも知っている。アタシの小さな身体は震え出して、一段ずつ確かめるように階段を降りた。




 音をたてて少女がリビングの階へ落ちる。最後の段を踏み外したようだった。


「アリカ!」


 母親が驚いて駆け寄ってもアリカはへたり込んだまま茫然としている。父親も箸を置いて立ち上がった。


「どこか打ってない?」


 母親はそう言ってアリカの身体を心配そうに見つめる。


「かあさん」


 目を見開いてそう呟いたアリカの顔を見て母親は首を傾げる。少女の顔が歪み、瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れた。


「おかあさん、っ、アタシ、アタシずっとっ、おかあさんに、あっ会いたく、て、っぐ、う」


「アリカ……」


 子供は声を上げて泣き出して、母親は心配げに彼女を抱きしめた。父親も傍に座ってどこかに傷ができていないか確かめる。


 子供はきっと階段から落ちて吃驚したのだろう。こんな朝だって、何のことは無い平穏な日々の一部に過ぎなかった。






――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 セカンドアースの衝突まで五時間半。サードアースの地表は液体に包み込まれている。セカンドアースの船も海に墜ち、人々は穏やかな眠りについていた。


「グリュプス四型機、ロストしました」


「……巻き込まれましたか」


 ファーストアースの戦艦からクマシはサードアースを見下ろす。数十分前にそこへ送り出した小型船の通信が途絶えた。これでサードアースとの生きた通信手段は全て失われたことになる。


「皆さん、本当に良いのですか。まだ帰還には間に合いますよ」


 静かにそう言ってクマシは船員を振り返った。モニターを見ていた部下の男は他の船員達と顔を合わせ、クマシに告げる。


「帰らねばならない者は皆帰りましたよ。たとえサードアースの人間全てが何かに飲み込まれたとしても……我々はここに残ります」


 この宇宙に乗り出した時点で、命の危険は誰もが承知していた。守ろうとした星が水没し、近いうちに潰えるとしても、彼等の意思は変わらないようだった。クマシもまた、ここから去ろうとは思っていない。セカンドアースにもサードアースにも、何も出来ることはないかもしれない。自分の意地に他人を巻き込んでいないか不安だった。窓の外を見たまま黙っていると、サードアースを観測していた船員が声を上げる。


「今、すごい速さで北極から順に潮が引いています。これは、恐らく……サードアース全体の海流が南極に向かっているのかもしれません」


「セカンドアースの重力の影響ですか」


「南極の一点に向かっているようです。正確な衝突地点は南極から少し逸れているので、恐らくセカンドアースと聖遣の両方がこの流れに寄与しているのかと」


 サードアースでは未だに何かが起こり続けている。眠りから覚める人々も現れるかもしれない。クマシは冷や汗を拭い、思案を再開した。もう進退について考える暇は無い。


「引き続き、観測を」








 コアは夢を見ない。脳を再現した物質としては奇妙に思われるかもしれないが、コアはニューロンの模写であり海馬の機能は持っていないのだ。これはウスバの傲慢であり自惚れであり願いだった。夢の中で記憶が整理されることで人間の脳は正常に保たれる。コアには記憶はただデータとして保管され優先順位がつけられることもない。全てを今と認識することすらできる。このような状態で長期間自我の連続性を保つことのできる人間は少数である。


 尤も、コアが意識を抱くことができるのは外界に干渉できる外付けの機械が機能している時だけだ。コアが何物にも接続していない時、コアの無意識はどこに存在するだろうか。




 今、コアギアの殆どは機能を停止している。聖遣はコアの無意識領域すらも飲み込んでいた。








 夕暮れのカマクラで、ナターシャは息を切らして走っている。人間の肉体の証左が今は彼女の思考を蝕んでいた。日が落ちるのを見て、汗を拭って立ち止まる。


「ナターシャ?まだ帰ってなかったんだ」


 丁度立ち止まった道に面した建物から少女が出てきて、ナターシャに声をかけた。半ズボンからは少し日に焼けた細い脚が覗いている。ナターシャは歯切れ悪く声を出した。


「……アリカ、よね」


「なに、まだアタシの名前うろ覚えなの?パートナーなんだからちゃんと覚えてよ。ナターシャはナターシャ・カラバイだろ?アタシはちゃんと覚えたんだからさ」


「……」


「え、あってるよな」


 カラバイ、とは孤児だった彼女を引き取った貴族の姓である。情報を受け止めきれずに唖然としていたナターシャは慌ててにっこりと笑みを作る。


「あ、えぇ。ちゃんと覚えてるわ。あの、聞きたいんだけど、その」


 そしてまた葛藤する。アリカはスポーツバッグを肩に下げて不思議そうに彼女を見つめた。その声は少し震えた。


「エリィ、は……どこにいるの」


「あれ、アタシの妹の名前何で知ってんの?言ったっけ」


 ナターシャはアリカの顔を見上げる。動揺している様子はない。慎重に言葉を選ぶ。


「……ダンスが上手いって聞いたの」


「あぁ、それで知ってたんだ。エリィってめちゃくちゃダンス上手いのに遊びでしか踊らないんだよ。ちゃんと練習したらぜったい優勝できるのに……あ、アタシの一つ下だから今は林間学校でいないんだ」


「そう。やっぱりすごいのね」


「すごい子だよ。勉強だってすごく……あ」


 目線の先に人影を見つけて、アリカの顔はぱっと明るくなった。ナターシャもその視線の先を振り返る。


「お母さん!」


「おまたせ~。あら、お友達も一緒だったんだ」


 大人のアリカによく似た溌剌な女性が車から降りてやって来た。アリカはナターシャを母親に紹介した。


「ダンスのパートナーだよ。ナターシャっていうんだ」


「アリカのお母さんのカッシです。よろしくね」


 カッシは膝を折りにこやかに話しかけたが、ナターシャは上手く言葉を紡ぐことができず、ただ微笑んだ。アリカは駆け寄って母親と手を繋ぐ。


「それじゃ、また明日。バイバイ」


「……バイバイ」


 夕暮れに染まる二人の背中を見てナターシャは立ち尽くした。




 アリカは何も覚えていない。聖遣が南極全体を飲み込み、人にもコアにも夢を見せている、とすると―――この世界は幼いアリカの記憶を再現している。辺りを走り回って探索したが、二千三百年のカマクラとは少しずつ異なっていた。


 今の聖遣にエリィの心が残っているなら、これはアリカが幸せに生きるための世界なのだろう。でも、それならなぜエリィがパートナーじゃないのだろう。血の繋がった妹になっているのに近くにいないことも違和感がある。エリィのポジションを私に移し替えたのはどうして?


 そして、一番分からないのは……私だけが現実世界の全てを覚えていること。エリィが私をこの状態にしたのなら、あの子は私に何を望んでいるの?アリカに全てを明かして、この世界を終わらせること?それとも、私への罰なの?アリカから何もかも奪った、私への……


 私がアリカに全てを告げたら、彼女は全てを思い出すのだろうか。思い出させて、何をどうするというの?エリィは消えて、みんながこれから消え去ることを認識させて、未来の無い現実に送り返す?


 言えるわけがない。たとえ、アリカが本当は現実に戻りたがっていたって……あの、お母さんと一緒にいる時の顔を見たら、私は……




 周囲の子供達がはしゃぎながら家に帰っていく。ナターシャにも家や家族が割り当てられているのだろうか。彼女は俯いて顔を手で覆う。辺りが暗くなったのを感じて顔を上げると、ナターシャは暗闇の中大きな鏡の前に立っていた。目を見開くと鏡面には自らではない少女の裸足が映っている。


「振り向かないで」


 忘れるはずもない、幼いエリィの声だった。右脚にはあの頃と同じ枷がついている。


「エリィ、なの……?」


 鏡を凝視したままのナターシャの瞳から一粒涙が落ちる。脚から上は闇に融けてしまって姿を捉えることはできない。闇は安らかに笑った。


「私は、ただの可能性のかけら。あの子が聖遣として生きる上で最初に切り捨てた存在。あの子に見つかったら消されちゃうから、ここにいるの」


「それって……あの子の、コアなの?」


 ナターシャは鏡に縋りつく。


「うん。そうなのかも」


「いたのね、あなたは、ずっと……この場所に……」


 止め処なくナターシャの瞳から涙が零れる。きっと砕けた彼女のコアだけではない。聖遣になるために犠牲にした彼女の願いや祈りが、ほんの少し残っていたのだ。


「ごめんなさい、守れなくて」


「もう、いいの。泣かないで」


 膝から崩れ落ちてナターシャは嗚咽交じりに泣いた。真っ黒な地面に涙が落ちてすぐに見えなくなる。涙を拭い、眼と頬を赤くして鏡に向き合った。


「私が全て覚えているのは、あなたのおかげ?」


「ううん。あなたの記憶は外付けの媒体に依存してるでしょ。あの子が支配できるのは人の脳とコアだから。きっとあの子はあなたの記憶も取り除くつもりだったと思う」


「じゃあ、覚えているのは私だけ……」


「ううん。覚えていたいと望んだら、記憶を持ったままでいられるの。そういう人は、殆ど現実に戻ったけど」


 静かに告げられた真実にナターシャは目を丸くする。


「戻ったの⁉でも、この星は」


「セカンドアースもサードアースも終わらせないために、あの子が頑張ってる。だから、きっとみんな死んじゃったりしないよ。あの子はこの夢にみんなを閉じ込めたわけじゃないの。生きたいと望む人は、あの子が頑張って、星と星がぶつからなかった現実世界で目覚める。そういう現実世界より夢の中に居たい人は、そのまま眠り続けるの」


 聖遣の展望に愕然とする。完全に自分だけが犠牲になろうとしている。ナターシャは小さな拳を握りしめた。


「……私、あの子に一人で頑張らせたくないわ。きっと、アリカも……あの子がいなくなった世界で目覚めるのは、きっと……」


「そうだね。夢の世界は続くけれど、あの子はもうすぐ消えちゃうの。アリカはさよならを言えないこと、きっと後悔する。あの子はアリカを特別扱いしてるの。ほんとうはあの子が最後まで隣に居たっていいのに」


「あの子を悲しませたくないのね」


「ナターシャにはね。ほんとうのあの子がいなくなることだけは、伝えてほしいの」


「うん、でも……伝えてしまったら、もう戻れないわよね。エリィのいない世界なら、きっと夢の中に留まらないだろうから」


 鏡に向き合いながら、ナターシャは微笑む。


「あの子から、私は何度も奪うのね」


「ごめんね」


「ううん。仕方ないの。全部、アリカ次第だわ。私達に出来るのは、選択肢を与えるだけ。例えそれが、不自由なものだったとしても……」


 鏡が割れる。またね、と小さく声が聴こえてナターシャは思わず振り返ったが、彼女の脚はどこにも無くただ夕焼けに染まる街が広がるだけだった。

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