6.「自分の力と、小さな一歩」
かなり久しぶりの投稿になります
またよろしくお願いします
自宅のソファに深く身体を沈め、縁原結は天井を見上げて盛大なため息をついた。
「……めんどくさい」
手元にある缶ビールを、お気に入りのガラスグラスへと丁寧に、ゆっくりと注いでいく。
めんどくさがり屋を自認する結だが、わざわざグラスに移し替えて綺麗な泡を立てて飲むというステップにだけは、ちょっとしたこだわりを持っていた。ただ単に、こうして飲むのが一番美味しいから、というだけの小さなルーティンだ。
一日の疲れの抜け方がまるで違う気がする。
ひと口煽り、冷えた液体が喉を鳴らす。ふう、と深く息を漏らしながら、ここ数日間の身の回りの怒涛のバタバタを振り返り、結は眉をひそめた。
営業部のマドンナである水瀬の我が儘なクレーム処理の火消し。
薄暗い路地裏で出くわした、神宮寺玲花の誘拐未遂事件の撃退。
さらに駅の改札トラブル、コンビニ前の暴力沙汰、商店街での工具箱落下事故。
「いくらなんでも、トラブルに遭遇しすぎでは……」
あの不気味な光の粒子が身体に溶け込んだ夜から、明らかに自分の日常が変わってしまっている。
底が知れない。環境のせいにするのは簡単だが、何より問題なのはあの2つの能力だ。これまでは危機に直面した瞬間、頭で考えるより先に本能のまま無意識に発動していた。
だが、いつまでも「たまたま」「気のせい」で片付けられる段階は疾うに過ぎている。
「……付随するトラブルを、本当にめんどくさい事態になったとき、回避できないな」
口癖を呟きながら、結はビールグラスをローテーブルに置いた。
じいちゃんから「備えを怠るな」と、幼い頃から厳しく体術を叩き込まれてきたのを思い出す。
「めんどくさい」と言うたびにゲンコツが飛んできたものだが、あの厳しさは、もしかして今のこの状況を予見していたのだろうか。
これ以上トラブルに振り回されず、平穏な会社員生活を守るためにも、まずはこの「力」を自分の意志で、ちゃんとコントロールできるようになる必要がある。
結はソファから立ち上がり、リビングの動線を遮るガラステーブルを、よいしょと部屋の隅へと押しやった。少し広くなった空間の中心に立ち、呼吸を整える。
「よし。まずは……あそこだ」
数メートル先にある、キッチンカウンターの端をじっと見つめる。脳裏に「移動した後の自分の姿」を強く、明確にイメージし、意識の奥にあるトリガーを引いた。
視界がぐにゃりと歪む。
次の瞬間、結の身体はキッチンカウンターの目の前にあった。壁や家具にぶつかることもなく、完全に自分の意思で空間を跳躍した。しかし――。
「……っ、はあ……、はあ……!」
着地と同時に、強烈な疲労感が全身の細胞を襲った。心臓が早鐘を打ち、肺が激しく酸素を求める。膝ががくがくと笑いそうになるのを、カウンターに手を突いてどうにか堪えた。
無意識の時はアドレナリンが出ていて気づかなかったが、意識的に発動させると、驚くほどスタミナを根こそぎ持っていかれる。身体の奥の感覚を探ってみるが、現段階でこの連続移動はおそらく「3回」が限界だ。連続使用のペナルティが重すぎる。
「ま、無理のない範囲で、少しずつ慣らしていくしかないですね。……ん?」
そこで結は、ふと奇妙な違和感を覚えた。
ここ数日、ピンチの時に「走るのが異様に速くなった」と思っていた。だが、今の空間跳躍の手応えと、身体に残る奇妙な浮遊感を思い返すと、どうも辻脄が合わない。
「……俺、もしかして足が速くなったんじゃなくて……浮いてるのか?」
試しに、その場でもう一度、今度は「上に移動する」イメージでトリガーを引いてみる。
フワリ、と結の身体が床から数十センチほど、静かに浮き上がった。重力を完全に無視して、宙に静止している。
「マジですか。俺、空も飛べるのか。めんどく……」
驚きつつも口癖を呟きながら、少しだけ前へ進もうと意識を傾けた、その瞬間だった。
――ズザザザーーーッ!
「うおっ!? 待て待て、止まらない……ッ!」
出力の加減がまったく分からず、結の身体は想定以上の猛スピードでリビングを水平にすっ飛んだ。狭い室内でのブレーキの踏み方が分からない。
ドガシャァン!!!
結の頭は、リビングの突き当たりにある、お気に入りの観葉植物の鉢植えに、見事な勢いで突っ込んだ。
「……っでぇ……! ったく、じいちゃんのゲンコツより痛いですよ、これ……」
頭から大きな葉っぱをたくさん被ったまま、結は床に転がって悶減した。
凄まじいスタミナ消費による息切れと、物理的な頭の痛さ。
瞬間移動と違って、飛行能力は慣性の法則が働く。移動した後の「減速と着地」を自分の身体でコントロールしなければ、ただの人肉ミサイルになってしまうという、致命的な仕様をこの時マヌケな形で自覚したのだった。
*
数日後。結は休日を利用して、外での初実践に繰り出していた。
部屋の中での大激突を経て、これ以上の大惨事を防ぐためにも外での練習は必須だった。しかし、スーツ姿や私服のまま白昼堂々と瞬間移動や飛行などすれば、一発で監視カメラやSNSの動画に捉えられて大拡散される。それは何よりも「めんどくさい」の極みだった。
そこで結が選んだのは、地元の商店街の福引きイベントで余っていた「熊の着ぐるみ」のボランティアだった。頭まですっぽりと隠れる分厚い毛並み。これなら顔を見られる心配は絶対にない。
「おい、そこのクマさん! 子供たちに風船配るの手伝って!」
「……うっす」
着ぐるみの内側で低く濁った返事をして、結は愛想を振りまきながら風船を配り歩く。そして、周囲の視線が一瞬だけ完全に途切れる、ビルの隙間の「死角」を見計らった。
(今だ――)
路地の陰に入った瞬間、結は意識を集中させ、2つ隣のブロックにある雑居ビル の屋上へと跳躍した。
フワリ、と一瞬だけ身体が宙に浮く感覚。
次の瞬間、結(着ぐるみ姿)は遮るもののないビルの屋上、突き抜けるような青空の下に立っていた。
「はぁ、はぁ……やっぱり距離がある分、部屋の中よりキツいな……」
実戦での燃費の悪さに激しい息切れを覚えながらも、今度は屋上から、地上にある人気のない自動販売機の隙間へと再び瞬間移動を試みる。
どさ、と音を立てて、着ぐるみの巨体が狭い隙間に現れた。
「……おい、今、あそこにクマ急に現れなかったか?」
「え? 見間違いだろ、いくらなんでも」
近くを通りすがった若者たちが、怪訝そうに振り返る。結は着ぐるみの内側で冷や汗を流しながらも、すぐに短い足を必死に動かし、何食わぬ顔で歩行者天国の人混みへと紛れ込んだ。
力を使うたびに、心臓がバクバクと脈打つ。正体がバレるかもしれないというスリルと過酷なスタミナ消費で、めんどくさいを回避するどころか、寿命が縮まる思いだった。




