7.「動き出す影」
結が必死に「めんどくさい事態の回避」に躍起になっているその頃、事態はすでに個人の範疇を超えて、裏社会の頂点で動き出していた。
*
「――例の『謎の着ぐるみ出現事件』の件ですが、目撃情報のあったSNSの投稿、および動画データは全て削除・改ざんを完了しました」
都内の一等地、重厚な調度品に囲まれた神宮寺財閥の最高経営責任者室。
黒い高級スーツに身を包んだ、神宮寺家直轄の特別チームのリーダーが、デスクの前に直立不動で報告を上げていた。
デスクの奥に座る老婦人――神宮寺財閥のトップであり、国の中枢を裏から支える現当主、神宮寺京は、手元に用意された暗号化タブレットの監視データを静かに眺めていた。そこには、着ぐるみが一瞬で消失する前後の、不自然な空間の歪みがはっきりと記録されている。
「一度下がりなさい」
京が静かに告げると、リーダーは一礼し、音もなく部屋の陰へと姿を消した。
一人きりになった広大な部屋で、京は老獪な威厳を漂わせる瞳をわずかに細め、手元のタブレットに映る空間の歪みをじっと見つめた。
「やれやれ……。私の代で、まさかあの『力』を宿す者が現れてしまうとはねぇ……」
京は深く息を吐き出し、ぽつりとボヤいた。それは神宮寺が危機に瀕した際、血筋の男子に宿るとされてきた、使うと泥のように疲れる力。国家の危機にしか現れないはずの、伝説の影の力だ。
「代々、神宮寺の血筋にしか引き継がれなかったはずの力が、なぜ今になって、我が家に仕える『縁原』の子に宿るのかね……。本当に奇妙な因果だよ」
京はそう呟くと、ふっと手元の別資料に目を落とした。そこには新興勢力である黒瀬グループが、玲花を狙って周囲をうろちょろしている不穏な暗躍の報告書が並んでいる。
だが、京は手元に記録された超強力な力の痕跡と見比べ、一人、冷笑混じりに小さく首を横に振った。
「……黒瀬? いやいや、まさかねぇ。あんな羽虫が動いている程度で、この『力』が目覚めるはずがない。……水面下で、一体何が隠れているのかね」
京は手元のベルを軽く鳴らし、再び姿を現した特別チームのリーダーへ視線を戻した。
「引き続き、特別チームで監視を続けなさい。ただし、決して彼に悟られるんじゃないよ。彼は静かな生活を望んでいるのだろうからね」
「御意」
影の特別チームが頭を下げ、音もなく部屋から消え去る。京は静かに窓の外の夜景を見つめ、ただ一人、まだ見ぬ本物の危機に向けて深く思考を巡らせるのだった。
*
そんな世界の裏側の暗躍など、結は知る由もない。
翌日、株式会社クロスエッジのオフィスに出社した結は、自席でいつものように黙々とデスクワークをこなしていた。意識して力を使う時のスタミナの配分や間合いなど、感覚はある程度掴めてきている。
(明日からは、また神宮寺商事との合同プロジェクトが本格的に動き出す。どうせまた、ろくでもないトラブルが降ってくるんだから、最低限の準備くらいはしておいて損は無いよな)
結が画面を見つめながらそんな思考を巡らせていると、書類を整理していた水瀬が、ふと思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば縁原さん。明日からの合同プロジェクトなんですけど、神宮寺商事の早川部長がこっそり愚痴をこぼしてましたよ」
「……部長がなんて?」
「今回のプロジェクトリーダー、大河内駿さんっていうんですけど、神宮寺商事の内部でもかなり強引に選定されたらしくて。早川部長たち生え抜きの幹部を差し置いて、上層部の覚えがめでたいだけの男がリーダーシップを握るんですって。現場の意見を全然聞かないから、早川部長、すごくやりにくそうにしてました」
何気ない水瀬の言葉に、結のタイピングをする手がピタリと止まる。
まだ始まってもいないプロジェクトの裏で、すでに不穏な影が深く侵食している。
「……縁原さん?」
怪訝そうに顔を覗き込んでくる水瀬の視線を、結はぼそりと呟いて遮った。
「……めんどくさいことになりそうだな、おい」
その不吉な予感は、最悪のタイミングで、最悪の形で的中することになる。
その日の深夜。
すでに定時で退社し、自宅で泥のように眠っていた結のスマートフォンが、枕元でけたたましく鳴り響いた。画面に表示されたのは、営業部長である赤木の名前。時計の針は午前2時を回っている。
信じられないほど嫌な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、悲鳴に近い部長の怒鳴り声が飛び込んできた。
『縁原くん! 大変だ、今すぐ会社に来てくれ! いや、パスポートを持って羽田空港へ向かってくれ!』
「……は? パスポートですか? 部長、今何時だと――」
『神宮寺商事と我が社の合同次期プロジェクトが、発足早々、最悪の形で幕を開けたんだ! 神宮寺の海外拠点、東南アジアの巨大ハブ港で大規模なシステム障害が発生して、我が社が手配した精密機器のコンテナデータが完全にロストした! 今すぐ日本から緊急対応チームを現地へ送り込む! 君もその一員だ!』
頭が痛くなるような怒号を聞きながら、結はベッドの上にガバッと起き上がり、盛大なため息を吐き出した。
東南アジア、巨大ハブ港、大河内という嫌なリーダー、そして消えたコンテナデータ。
せっかく力をコントロールする準備を始めた矢先に、強制的に引きずり出される世界規模の面倒事。
窓の外、まだ夜明け前の暗い夜空を見上げながら、結は補足するように、諦めの混じった声でぽつりと呟いた。
「……やれやれ……、めんどくさいことになったな、おい」




