4.「動く」
広告代理店のオフィスは朝から騒然としていた。
電話のベルが鳴りやまず、上司の声が飛び交う。
「納期遅延、商品名の誤記載、さらに企画意図が不明確って……」
資料を眺めながら、結は心底めんどうくさそうに椅子へ沈んだ。
「まさにトラブル三点盛りだな」
そんな彼の横で、後輩の美咲が必死に対応していた。
「結さん、どうしましょう! 先方かなり怒ってて……」
「俺に振るなよ。俺は、めんどくさいのは嫌いなんだ」
「そう言いながら、一番頼りにされてるの、知ってます?」
「……知ってるから余計にめんどくさいんだよ」
口ではそう言いながらも、結は腰を上げる。
調整の電話を入れ、謝罪文をまとめ、部署間の摩擦をうまく丸め込む。
結の手にかかると、午前中に荒れ狂っていた社内の空気が、夕方にはどうにか落ち着きを取り戻していた。
「はぁ……疲れた」
机に突っ伏した結の耳に、弾んだ声が届く。
「――あ、レイカ?」
美咲がスマホを片手に笑っている。
「レイカ?」結は顔を上げる。
誰のことか分からず、眉をひそめる。
通話の途中で、美咲の表情が急に曇った。
「……え? 本当に? ……うん、わかった。すぐ行く」
電話を切ると、結がぼそりと聞いた。
「なんか、面倒そうな話だったな」
「玲花からで……」美咲はスマホを見つめながら答える。
「神宮寺玲花。大学生の頃、私が家庭教師してたんです」
「神宮寺……? あの神宮寺財閥の?」
結の眉がわずかに動く。
「そうです。今でも妹みたいな存在で……」
財閥の令嬢。自分とは縁遠い存在だと思っていた名前が、唐突に身近な距離で語られたことに、結は内心ざわつきを覚えていた。
美咲は小さく息を整え、不安げに続ける。
「その玲花の親友の澪さんが、最近誰かにつけられてるみたいなんです。相談に乗ってほしいって」
「よくある話だな」結はあくびをかみ殺す。
「結さんも一緒に行きません?」
「やだ。めんどくさい」
あっさりした返答に、美咲は苦笑い。
「ですよね……」
---
夜。
仕事帰りの街を歩いていた結は、ふと路地裏で見覚えのある三人を見つけた。
美咲と、財閥令嬢・玲花。
その隣に立つのは、澪――落ち着いた雰囲気の女性だ。
(……なるほど。あれが澪か)
しかし彼らの背後から、数人の影がじりじりと迫ってくる。
視線、歩調、空気――どう見てもただの通行人ではない。
「……はぁ」
結は面倒くさそうにポケットに手を突っ込んだ。
次の瞬間。
「……あれ?」
玲花がきょろきょろと辺りを見回す。
背後にいたはずの男たちの姿が、一瞬で消えていた。
「え? 澪、今いたよね?」
「う、うん……確かに……」
男たちはというと――。
気づけば、街外れの交番前にドサッと転がっていた。
「な、なんだここ!?」
「え、俺たちさっきまで……!」
大声に気づいた警官が飛び出してくる。
「おい、何をしている!」
混乱する男たちはそのまま取り押さえられていった。
――全ては結の瞬間移動の力によるものだった。
路地の奥で一部始終を見届け、結は小さくつぶやく。
「……はい、事件解決。めんどくさがり屋的ベストアンサー」
瞬間移動で自宅のソファに戻ると、彼は缶ビールを開けた。
「俺の週末は……やっぱり休ませてくれないんだよな」
---
翌朝。
美咲は小さく笑いながら結に話しかけてきた。
「昨日のこと、警察もすぐ動いてくれて、澪さんたち安心したみたいです」
「へぇ……よかったな」
「……結さん、もしかして――」
「俺は何もしてないぞ。めんどくさいから」
結のそっけない返答に、美咲は肩をすくめる。
ただその表情には、不思議と安心の色が浮かんでいた。
そして同時に、新しい影が街で動き出していた。
裏で暗躍する存在の手が、じわじわと伸び始めていたのだ。




