2.「誘拐未遂事件」
その日、縁原結は取引先との打ち合わせを終え、会社へ戻る途中だった。
時計を見ると、少し早い。道すがら、普段は通らない大通りに足を向けていた。
「……めんどくさいな。いや、めんどくさいって言うとじいちゃんに怒られるんだよな」
口癖のように呟き、結は背伸びをした。
その時、耳にかすかな悲鳴が届いた。
ビルとビルの間に伸びる細い路地からだ。
「……気のせい、じゃないな」
普段なら気づかないふりをするだろう。だが、なぜか足が止まらなかった。胸の奥に、ざらついた違和感が広がっていた。
路地の奥にいたのは、長い黒髪を乱しながら腕をつかまれている少女だった。
二人の男が彼女を車に押し込もうとしている。
少女の顔を見て、結の目が見開かれた。
「……水瀬じゃない。いや、違うか……」
彼女は――神宮寺玲花。
街で噂になるほどの財閥令嬢。だが、そんな特別な肩書きより、必死に助けを求める瞳のほうが、結の胸を強く揺さぶった。
「離してッ! 誰か――!」
声が喉を裂く。
結は眉をひそめ、小さく息を吐いた。
「……ったく。めんどくさい」
一歩。
ただ一歩踏み込んだつもりが、気づけば男たちの背後に立っていた。
(――あれ? 俺、どうやってここに……)
考えるより先に、体が動いていた。
「おい。やめとけよ」
低い声で言うと、男たちが驚いたように振り返る。
「なんだテメェ!」
「関係ねぇだろ、どけ!」
男の拳が飛ぶ。
避けようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。気づけば、拳は空を切り、結は数歩先に立っていた。
(……また、だ。瞬間移動? いや、そんな馬鹿な)
混乱はある。だがそれを悟らせる余裕もない。
結はため息をつき、相手の腕をひょいと掴むと、ほんの少し体をひねった。
「ぐっ……!」
男はあっさりと崩れ落ちる。
残る一人は玲花を盾にしようとしたが、結の鋭い視線に一瞬たじろぐ。
「放せ」
短い言葉。だが、その響きに抗えず、男は舌打ちして玲花を突き飛ばし、逃げ出した。
静寂が戻る。
路地に、結と玲花だけが残った。
「……大丈夫か?」
「……っ」
玲花は肩で息をしながら、結を見上げた。
恐怖の奥に、明らかな警戒心と――奇妙な安堵。
「あなた……どうしてここに?」
「通りすがり」
「……通りすがり、で、あんな動きができる?」
問いかけは鋭かった。
結は肩をすくめる。
「俺だって説明できないんだよ。……正直、めんどくさい」
「めんどくさい、ですって……?」
玲花の瞳に、わずかな怒りと好奇心が混ざる。
結は頭をかきながら、うっかり漏らす。
「めんどくさいって言うと、じいちゃんに怒られるんだよな……」
場違いな言葉に、玲花は思わず吹き出しそうになった。だがすぐに真剣な表情に戻る。
「……助けてくれて、ありがとう」
「礼なんていい。……ただ、気をつけろよ」
「気をつけろ、ですって?」
「今のは……偶然かもしれないが。誰かが、あんたを狙ってる」
玲花は小さく唇を噛んだ。
彼女は知っている。自分の家がどれほど敵を作りやすい立場にあるかを。
「あなたの名前は?」
「縁原、結」
「……縁。ね。皮肉な名前」
そう呟いた時、遠くでサイレンの音が聞こえた。
誰かが通報したのだろう。
「俺は行く」
「待って!」
玲花が手を伸ばしたが、結の姿はすでに路地の出口にあった。
彼の足取りは速くもなく、遅くもなく。だが、その背中はなぜか、彼女の心に焼きついて離れなかった。
――なぜ、この人は私を助けたのだろう。
――どうして、あんな風に消えるように動けるのだろう。
玲花の胸に、疑念と期待が入り混じる。
そしてそれは、後に大きな事件へと繋がっていく始まりにすぎなかった。




