1.「めんどくさいけど、放っておけない」
夜の街を歩いていた縁原結は、ふと立ち止まった。
三十代前半、スーツ姿。見た目はどこにでもいる会社員だが、その瞳の奥には、時折言い表せない影が宿る。
「……まただ。」
夜風が吹き抜ける。
ほんの一瞬、足元がふわりと浮いた感覚。
ビルの屋上に立っているはずのない視界が広がった。次の瞬間には、元の地面に戻っている。
夢か、錯覚か。
だが、何度も繰り返してきたこの現象は、どう考えても「気のせい」では済まされない。
結はポケットに手を突っ込み、ぼそっとつぶやいた。
「……めんどくさい。……あ、めんどくさいって言うとじいちゃんに怒られるんだったな。」
自嘲気味の笑いを浮かべて、また歩き出す。
空を飛べる感覚と、瞬間的に景色が変わる錯覚――。
それが何なのか、結自身まだわかっていなかった。
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翌朝。
広告代理店のオフィスに到着した結は、タイピングの音と電話のベルが混ざる喧騒に溶け込んだ。
「縁原さん、おはようございます!」
若手社員が慌てて頭を下げる。
「おはよ。――で、その資料、数字が逆じゃないか?」
ちらっと見ただけで間違いを指摘する。
「えっ!? あ、ホントだ……ありがとうございます!」
「気をつけろよ。……まあ、誰だってやらかすもんだ。」
結は軽く肩を叩いて通り過ぎた。
彼は社内でも「仕事が早くて正確」と評判だった。
だが昇進の話が出るたび、必ず首を横に振る。
「縁原さん、課長職の件、本当に辞退でいいんですか?」
同僚に聞かれるたび、結は決まってこう返す。
「出世とかマジめんどくさいんだよ。……あ、またじいちゃんに怒られるわ。」
周囲からすれば“惜しい人材”だが、本人はまったく気にしていない。
ただ黙々と、与えられた仕事を完璧にこなしていく。
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昼過ぎ。社内にちょっとしたざわめきが走る。
営業部のマドンナ、水瀬美咲が、険しい顔で戻ってきたのだ。
「……最悪だわ。クライアントから直接クレームが入ったの。」
彼女は周囲に取り囲まれ、必死に説明している。
どうやら広告案件で納期やデザインの食い違いが起こり、相手が怒鳴り込んできているらしい。
「え、また?」
「美咲さん、今日は踏んだり蹴ったりだな……」
「いや、でも彼女、普段は超優秀だから……」
社員たちのざわめきを横目に、結はため息をついた。
「……めんどくさい。……けど、放っておけないんだよな。」
彼は立ち上がり、そっと美咲の隣に並んだ。
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クライアント応接室。
怒り心頭の中年男性が机を叩いている。
「約束の納期が守られてないじゃないか! うちのキャンペーンが台無しだ!」
美咲は必死に説明する。
「ですが、最初にいただいた修正依頼が――」
「言い訳するな!」
場が凍りついたその瞬間、結が口を開いた。
「――申し訳ありません。こちらの確認体制に不備がありました。」
「は?」クライアントが一瞬たじろぐ。
結は落ち着いた声で続ける。
「ただ、本日の夕方までに臨時チームを組んで差し替え案を仕上げ、御社の希望に合わせた形で再提案いたします。それなら、まだ御社のスケジュールに間に合いますよね?」
相手は唸り、しばし沈黙した後――。
「……本当に間に合うのか?」
「必ず。」
結の言葉には揺るぎがなかった。
美咲は横で目を丸くした。
普段は「めんどくさい」が口癖の男が、今は堂々と相手を説得している。
やがてクライアントは渋々ながらも頷き、事態は収束へと向かった。
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応接室を出た瞬間、美咲は大きく息を吐いた。
「……縁原さん、すごいね。あんな風にまとめられるなんて。」
「いや、ただの火消しだよ。めんどくさいことは早めに片づけるに限る。」
「その“めんどくさい”で、何人が助けられてるんだろうね。」
美咲は小さく笑った。
結は肩をすくめて歩き出す。
その背中を、美咲はしばらく見つめていた。
――空を飛べる感覚、瞬間移動のような謎の力。
まだ誰にも話せない秘密を抱えながら、結の日常は静かに動き始めていた。




