終章 守られた秘密 ①
レマー家の朝食室で、デヴィッドは難しい顔をしてレマー新聞の朝刊を広げていた。一面記事には、慈善会の不正が大きく取り上げられていた。
記事には、『慈善会に重大な記録不一致』『架空の運搬費と、届かなかった寄付物資』という文字が踊っていた。
見出しの内容のほかに、治安部が関係書類を確保し、調査を始めたこと、タイラー運送の倉庫火災と強盗、証拠書類を狙った襲撃についても捜査が進められていること、エルシー嬢の無事が確認されたことなどが端正な文面で報道されていた。
「ロバートが作った新聞だと思うと、胃が痛む。だからあれの新聞はうちではとらないようにしているというのに」
ぶつぶつ言いながらも、記事に目を走らせているデヴィッドに、ロザンヌは不思議そうに首を傾けた。
「叔父さまの新聞で、なぜ胃が?」
「ロバートは十歳になる前から新聞を作っていたんだ。その頃はもっぱら手書きで家での出来事を記事にして家族にだけ読ませていたが、中には触れなくてもいいことまで書き立ててだな、ひと騒動起きたというか、つまり、その」
言い淀むデヴィッドの横で母がくすくす笑った。
「デヴィッドがおじいさまの大切にしていた稀覯本のひとつを破損させたことをごまかしていたのに、家族新聞でばれちゃったからよ」
「ロザムンド!」
デヴィッドは真っ赤な顔で妻を睨んだ。
「お母さま、そのお話、くわしく」
ロザンヌが前のめりで母に顔を向けた。
「要するに昔の苦い思い出で、ロバート様がつくる新聞は苦手なのよ」
「暴かれた事実はほかにもございましたの?」
目を輝かせているロザンヌに、デヴィッドは新聞をくしゃっと握りしめて叫んだ。
「余計な話はせんでいい!」
ロザンヌはびっくりして、顔を真っ赤にしている父を見た。
「はいはい」
デヴィッドの剣幕にも動じず、ロザムンドは笑いながらゆったりと食後の紅茶を飲んだ。
ロザンヌは母と父の様子を見ながらうなずいた。
「それで、レマー新聞をとってほしいとお父さまにいくら頼んでも、首を縦に振ってくださらなかったのですね」
「身内の書いたものは、どこかこっぱずかしいものなのだ」
デヴィッドは咳払いをして、しわの入った新聞で赤くなった顔を隠した。
「でもこれからは当分、叔父さまがうちに新聞を届けるように手配してくださったので読めるわけですわね」
デヴィッドは、ロザンヌがこの事件に最初から関わっていたことを知っている。その事件が公にどう報じられ、どこまで明らかにされたのかを正確に知るには、ロバートの新聞が一番良いということを理解しているから、いつもなら読まないレマー新聞を他紙より先に読んでいるのだ。
エルシー嬢のことを調べ、慈善会を調べている間は、そのことに夢中だった。まわりを見ていたとしても、その気持ちをちゃんとわかっていたかと問われれば、自分でもはっきりと肯定できないと思った。
自分が父や母に相当心配をかけたということに、終わってから気がついたのだ。
「お父さま、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
ロザンヌの真摯な声に、デヴィッドは顔を隠すように広げていた新聞からちらりと顔を覗かせた。目を伏せたロザンヌの神妙な態度を見て、デヴィッドは深く息を吐いた。
「お前が無事ならそれでいい。事件も収束に向かっているようで良かったな」
暖かな声に、ロザンヌは顔を上げた。微笑を浮かべる父の、ふっくらしていた頬が少しだけこけているようだった。
「お父さま」
ロザンヌは席を立ってデヴィッドに抱き着いた。
「あんまりお転婆をしないでくれよ。ロバートの新聞より胃に悪い」
抱きしめ返しながら、デヴィッドが言った。
「善処しますわ」
ロザンヌは顔をあげてにこっと笑った。デヴィッドは困り顔になりながらも、
「しかたないなあ」
と言って、ロザンヌの頭を撫でた。ロザンヌは大きくて暖かな父の手に目を細めた。
「お父さま、大好きですわ」
その言葉に、デヴィッドは大いに相好を崩した。
ロザムンドは二人を見ながら微笑んだ。
朝食室の窓の外から、新聞売りの声が聞こえた。
「慈善会の不正が暴かれたよ! 物資の横流しだ! 詳しくは新聞で!」
通りで人々が話題にしているのは、エルシーの醜聞ではなく、慈善会の記録と届かなかった物資だ。
ロザンヌは父がテーブルに置いた新聞の一面の隅にあった、『エルシー嬢の無事を確認』という短い一文を目にした。
新聞に書かれなかったことが、確かに誰かを守っている。
「良かったですわ」
ロザンヌは父の首に回した両腕に、少しだけ力を込め、額を押しつけた。
「当分はゆっくりするといい」
デヴィッドの言葉に、ロザンヌはうなずいた。
「今日はお父さまとお母さまとで、お庭で午後のお茶をいただきたいですわ」
「おお、それはいいな」
デヴィッドが上機嫌な声で言った。
「さっそく頼んでおこう」
デヴィッドは執事にあれこれと指示を出し始めた。
ロザムンドはあきれ顔で、ロザンヌに声を落として囁いた。
「これはちょっとしたお茶会規模になりそうよ」
ロザンヌも母に囁いた。
「よいのです。お父さまがご機嫌なら、わたくしはいくらでもおつきあいいたしますわ」
「……それ、アドリアン様の前では言わない方がよいと思うわよ?」
「なぜですの?」
「『ロザンヌの中では僕は二番目?』って、拗ねるのが目に浮かぶからよ」
ロザンヌは背筋をピンと伸ばした。
「それは困りますわ! アドリアン様が拗ねると、あとが面倒ですもの」
「誰が面倒だって?」
朝食室の扉を背にして、不機嫌そうな顔をしたアドリアンが立っていた。
「アドリアン様!」
ロザンヌは慌てて席を立って、アドリアンのもとへ駆け寄った。
「僕ってきみにとって面倒なんだ?」
ロザンヌは何度も横に首を振った。鮮やかな赤い髪が動きに合わせて波打った。
「そんなことはございませんわ。わたくしが申し上げたかったのは、アドリアン様のお心を煩わせたくないということですわ」
腕を組んだアドリアンは疑わし気な目でロザンヌを見下ろした。目にはまだ疑いの色が現れている。
「本当に?」
ロザンヌは何度もうなずいた。朝から背中に嫌な汗が伝った。
「もう朝食が済んだから入室は構わないと執事に言われて入ったら、悲しい話を聞かされて、僕は心が痛いよ」
そう言って、額に手を当てて大仰にため息をついて見せた。ロザンヌはその手の甲に、まだうっすらと傷跡が残っているのを見て、顔を曇らせた。
いつものようにすぐに返事が来なくて、アドリアンは覆った手の下からロザンヌに視線を落とした。
「……どうしたの?」
ロザンヌは無言のまま、傷跡が残っているアドリアンの手を両手で包み、自分の額に当てた。
「わたくし、この傷がなくなるまでは、危険な調査には出向かないことにいたします」
「僕のために、自ら謹慎するっていうの?」
ロザンヌは額に当てていた手を降ろし、アドリアンを見上げた。
「謹慎というよりも、アドリアン様の受けた痛みを思う時間を持つためですわ」
アドリアンはもう片方の手で、そっとロザンヌの頬を撫でた。
「こんなのかすり傷だって言っても、きみは気にするんだろうな」
ロザンヌはアドリアンの手に、自分から頬を寄せた。
「今回のことは、最初は事実を切り分けることの延長上だと思っていました。けれど、事件を追うことは、大切な人の身を危険にさらすことになりました。事実を切り分けることとは全く違います。そのことを心に刻むためです」
「ロザンヌ……」
アドリアンの感極まった声をかき消すように、デヴィッドが大声で話しかけた。
「そのロザンヌは、今日は私と妻とでお茶会をする約束だ。アドリアン君にはまた日を改めてもらいたい」
いつも穏やかなデヴィッドの声に慣れていたアドリアンは、面食らった。
「悪いな、アドリアン君」
デヴィッドはアドリアンから引きはがすようにしてロザンヌを抱え込んだ。
あっけにとられていたアドリアンに、ロザムンドが近づいて、小声で謝った。
「ごめんなさいね。今日はあの人にロザンヌを譲ってやって頂戴。娘を独占したくてもできない日が続いて、限界なのよ」
アドリアンは目を瞬いた。苦笑しているロザムンドに顔を向けると、胸に手を当てて軽く頭を下げた。
「お義父上のお気持ちは、僕にも覚えがあります。今日はロザンヌの顔を見たくて来ただけです。彼女が元気なら、それで充分です」
「本当は、記事のことを語り合いたかったんでしょう?」
「それと、僕がいかに彼女を大切に思っているかということを伝えたかっただけですから」
ロザムンドはアドリアンを軽く抱擁した。
「ありがとう。あなたが娘の婚約者でよかったと心から思うわ」
アドリアンは小さく微笑むと、ロザンヌとデヴィッドに暇を告げた。
「もう、お帰りになりますの?」
寂しそうなロザンヌに、アドリアンはにっこりした。
「今日はゆっくりしてって言いにきただけだからね」
アドリアンはそう言って、朝食室から出て行った。
「いつもならずっと一緒に過ごしてくださるのに」
ロザンヌはじろりと父親を睨んだ。その視線に、傷ついたような表情を浮かべた父を見て、口を尖らせて文句の言葉を吞み込んだ。
「そんな顔をしてもだめだぞ。私との約束が先だからな。ああ、午後が待ち遠しい。今日は書類仕事がはかどりそうだ」
デヴィッドはスキップするような勢いで部屋を出て行った。
ロザムンドはロザンヌの肩に手を置いた。
「お父さまへの孝行、相当面倒くさいと思うけれど頑張ってね」
「……わたくしの周りには、面倒くさい殿方しかいないのでしょうか」
真剣に言うロザンヌの言葉に、ロザムンドは噴き出した。
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