第十章 届かなかった手紙と、焼けた帳簿 ➄
アドリアンはそっと馭者に合図した。
馭者が周囲を警戒しながらアドリアンに近寄った。
「僕と代わってくれないか。あの紙を確認したい」
馭者はしぶしぶうなずいた。
アドリアンは静かにハンスに近づいた。
「その紙を見せてくれ」
ハンスから受け取った紙を手にしたアドリアンは、紙面を撫で、明るいほうへ紙を向けてみた。
「まちがいない。これは慈善会の事務室で使っていた用紙だ」
「わかるんですか」
ハンスの問いに、アドリアンはうなずいた。
「ここに、慈善会の小さな透かしが入っている。これは、この用紙を知らない者には見つけにくい」
「よくご存じでしたね」
「最近、嫌がられるほど事務室に通ったからね」
「なるほど。慈善会内部の者が関わった可能性を強く示しますが、誰が書いたかは不明ですね」
ハンスの言葉に、アドリアンは相槌を打った。
「ともあれ、この紙切れは新たな証拠になるはずだ」
アドリアンは取り返した革の書類入れと紙切れを手に、ロザンヌたちのもとへ帰った。
馭者はハンスのもとに行き、話を始めた。
その様子を見ながら、アドリアンはセシリアに書類入れと紙切れを渡した。セシリアは大切そうに片手で書類入れを胸に抱え、もう片方の手で紙切れを確認した。
「間違いありません。慈善会の事務用紙です。よくある事務用紙に見えますが、アドリアン様のおっしゃったように、透かしが入っているので本来、私用や非公式なものには使わない用紙なのです。それに、役職まで書かれている……。これを書いたのは、私が会計補助だと知っている者です」
「少なくとも、慈善会と無関係な襲撃ではないな」
「フォルティ様が書いたとは、まだ言えませんけれど」
ロザンヌは首をかしげた。
「でも、妙ですわ」
ロザンヌは革の書類入れを見た。
「これを持っていることまで、どうして知っていたのでしょう」
「職場ではよく使っていました」
セシリアが答えた。
「姉からもらったものですから、大切な書類はいつもこれに入れていました。証拠をここへ移したときも、これに入れて運びました。でも、それ以来、職場へは持っていっていません」
アドリアンが目を細めた。
「つまり、以前から君を知っている人間なら、この書類入れも知っている。そして最近それを見なくなったことにも気づけるわけだ」
アドリアンは表情を引き締めた。
「エルシー嬢ではなく、セシリア嬢の書類を狙ったのは確かだ」
「少なくとも、今回の襲撃の目的はそうですわね」
ロザンヌは浮かない顔をして続けた。
「エルシー様が狙われていないとは、まだ言い切れないところが苦しいですわね」
アドリアンとセシリアは黙ってうなずいた。
重い空気になりかけたところで、セシリアがなおも蒼ざめていることに気づいた。
「馬車の中で座っていた方がいい」
「扉が壊れていますの」
「それなら、応急処置をしておきますよ」
馭者が遠くで声をかけた。
「馭者と護衛だけが能じゃない。修理もできる。任せておけ」
馭者台の下から工具を引っ張り出した馭者は、外れた蝶番を金具と針金で手早く留めた。
「とりあえず、閉まれば良しとしておいた。こっちはもう開けられないからな」
「ありがとうございますわ」
微笑するロザンヌに、馭者は顔を赤らめて、工具箱を片手にハンスのところへ行ってしまった。
セシリアは馬車に乗り込むと、大きく息を吐いた。
「わたし、当分、立てそうにありません」
「ゆっくりなさって」
ロザンヌが声をかけると、セシリアは目を閉じて背もたれに頭を預けた。
ロザンヌはセシリアの困憊した姿を見ながら囁いた。
「襲撃者たちは、わたくしの装身具にも、馬車にも目を向けませんでした」
「狙ったのはセシリアの書類入れだけだったね」
アドリアンの言葉に、ロザンヌはうなずいた。
「しかも、彼女が書類入れをお持ちだと知っていました」
アドリアンはロザンヌの手を取った。
「その書類入れを投げる前に、ひと言欲しかった」
「……扉ごしに? そんなことをしていたら、セシリア様が引きずり出されていましたわ」
「だからといって、きみまで危険な目に遭うようなことをしなくてもよかっただろう」
「とりあえず、わたくしたちは言われた通り、馬車から出ておりませんわ」
ロザンヌは口を尖らせた。
アドリアンはため息をついた。
「そういう問題じゃないんだけどなあ」
「では、次は投げる前にアドリアン様に大声でお知らせいたしますわ」
「次がある前提で言うのはやめてくれ」
「善処しますわ」
「きみの『善処』は信用できない」
アドリアンは困った顔をした後、ロザンヌの手を握り直してつぶやいた。
「そういうところまで好きだから、いちばん困るんだよなあ」
「え? なにかおっしゃいましたか?」
アドリアンは苦笑して首を振った。
「いや。独り言だ」
「そうですの? ならいいのですけれど」
あたりが薄暗くなる中、ハンスと馭者は馬車が通行できるように荷車を脇に移動させていた。
捕らえた男は両手を縛り、歩行できる程度に縄を打たれていた。男はハンスが馬で監視しながら新聞社まで連行することになった。
男は肩をかばいながら、おとなしくハンスたちの指示に従った。
ロザンヌとアドリアンは再び馬車に乗り込んだ。ロザンヌはアドリアンの横で、男が受け取ったという紙片を読んだ。
『慈善会裏手の通用門へ運ぶこと』
依頼主の名前はない。
だが、慈善会に関わる何者かが、自分たちの動きを見張らせている。
その事実を紙切れによって確認できただけでも、ロザンヌには十分な収穫だった。
日が暮れかけたころ、馬車はレマー新聞社の裏手に停められた。そこは高い塀に囲まれた、裏庭だった。
ハンスは馬から降りて、捕らえた男にかけられた縄が緩んでいないか確認した。男はしきりと肩をかばいながら、ハンスに引かれてやってきた。
裏手にはロバートとマイクが立っていた。
壊れた扉を見たとたん、二人の顔が険しくなった。
馬車から降りてきたロザンヌたちを見て、ロバートはアドリアンに尋ねた。
「全員、無事なのか」
「大きなけがはありません。セシリア嬢が足首を掴まれましたが、歩けています」
アドリアンの視線に気づいたセシリアが、後を引き取った。
「軽い打撲程度です。ロザンヌ様に助けていただきました」
ロバートはロザンヌの袖を見て、眉間にしわを寄せた。
「ロザンヌ」
静かな声だが、明らかに怒っていた。
ロザンヌは先回りするように、慌てて説明を始めた。
「叔父さま。わたくしは馬車から一歩も外へ出ておりませんわ」
アドリアンがため息をつきながらつぶやいた。
「それを免罪符にするらしいんです」
ロザンヌはアドリアンを睨んだ。
「事実を申し上げただけですのに」
ロバートは腰に手を当てた。
「話は中で聞こう。まずは全員、中へ」
ロバートに促されて裏口から入ろうとしたところで、ロザンヌはマイクに話しかけた。
「エルシー様とメリーは?」
マイクはすぐに答えた。
「無事です。誰にも追われませんでした。ケリーさんが安全な場所まで送り届けましたよ」
「そう。それで一安心できますわね」
戸口をくぐって細い階段へ向かいながら、マイクは話を続けた。
「エルシー様は疲れた様子でしたが、温かい食事をとり、メリーさんがそばにいることで幾分落ち着かれた様子でした。それと」
「なんですの」
「メリーさんから、ロザンヌ様が無事に到着したらすぐに教えてほしいとのことでした」
ロザンヌは微笑した。
「わたくしたちはこの通り無事ですわ。メリーにそう伝えておいてください」
横からアドリアンがのっそりと言った。
「袖が破けてはいるけれどね」
「少しだけですわ。それを言うのでしたら、アドリアン様だって」
マイクは二人の袖口を見て苦笑いした。
「お二人ともですか。そんなところまで仲が良いんですね」
ロザンヌは得意そうに胸を張った。
「ええ。お揃いですわ」
「……そこは、喜ぶところではないと思う」
アドリアンは階段の前まで来たロザンヌに手を差し出した。
その後をロバートと馭者、ハンスと捕らえた男が入ってきた。
「ハンス、その男は荷物部屋へ閉じ込めておいてくれ。決して一人にするな。だが、必要以上に手荒な真似もするな」
「心得ております」
ハンスは当然のように返した。
馭者が薄ら笑いを浮かべて、捕らえた男に話しかけた。
「この男を怒らせるなよ? 軍隊仕込みで、人を動けなくする方法ならいくらでも知っているからな」
男は真っ青な顔をして、何度もうなずいた。
「脅しはその辺にしておいてやれ。後は頼んだぞ」
「承知しました」
馭者とハンスはロバートに一礼すると、別の戸口へと男を引き立てていった。
ロバートは戸口が閉まって少し間を置いた後、マイクに言いつけた。
「信頼できる治安部員へ使いを出すよう、二階にいる社員に言っておいてくれ」
「はい」
マイクは階段を一段飛ばしで上がっていった。
「さて、私の居住階まで上がろうか」
階段を上がり始めたロバートの後をアドリアンとロザンヌとセシリアはついて行った。
通された部屋はロバートが起居する三階の一室だった。私的な来客を通す部屋で、落ち着いた調度品が置かれていた。
ロバートはランプをテーブルに置いた。
セシリアにはロバート自ら温かい飲み物を渡し、足を延ばせる椅子に座らせた。
そこへマイクが戻ってきた。
ロザンヌとアドリアンも席に着いたところで、ロバートは全員を見回した。
「まず、証拠を確認する」
アドリアンは上着を脱いで、肩に斜め掛けしていた布製の書類鞄を取った。
ロザンヌはその書類鞄を見た途端、肩から力が抜けるのを感じた。アドリアンが体を張って守っていると頭でわかっていても、実際に目にしないと安心できなかったらしい。
アドリアンに書類鞄を渡されたマイクは、中身を取り出すと、メモを開いて一枚ずつ確認を始めた。
「オリバー様からの手紙が六通、そのうちの署名入りが二通、日付と金額の一覧が三枚、物資の数量と引き取り先の覚え書きが四枚……」
マイクは顔を上げた。
「欠けているものはありません」
ロバートはうなずくと、原本を布製の書類鞄へ戻し、居室の金庫へ収めた。
セシリアが大きく息を吐いた。
「よかった……」
セシリアがぐったりと背もたれに体を預ける姿を見て、ロバートが難しい顔をした。
「それで何が起きたんだ」
アドリアンがかいつまんで説明するうちに、ロバートの顔が再び険しくなった。
「偽の書類は、万一書類入れを奪われても原本を失わないために入れたものだったはずだ」
ロザンヌは口を尖らせ、小さな声で反論した。
「結果的には役に立ちましたわ」
「誰も投げるところまでは想定していなかったけどね」
アドリアンの言葉に、ロバートとマイクはうなずいた。
ロバートはじろりとロザンヌをにらみつけると、ロザンヌはすっと顔をそむけた。
「……マイク、襲撃について、起きた順に記録してくれ」
「はい」
「もう一度話そうか?」
アドリアンの言葉に、マイクは素直にうなずいた。
「助かります」
アドリアンは先ほどよりも短く、要点をかいつまんで語った。
最後まで書いたところで、マイクはメモを読み上げた。
「一、荷車が道を塞ぐよう、意図的に置かれていた。
二、襲撃者は五人ほどだった。
三、金品には手を出すなと叫んだ。
四、『茶金の巻き毛』、『慈善会の会計補助』とセシリア様を特定した。
五、革の書類入れだけを狙った。
六、ロザンヌ様が書類入れを投げると、セシリア様を放して書類入れを追った。
七、一人をハンスさんが捕らえた。
八、捕らえた男は、慈善会裏手の通用門で依頼を受けたと証言した。
九、年配の事務員風の男から前金と指示書を渡された。
十、指示書には貸家の場所、セシリアの外見、役職、書類入れ、受け渡し場所が書かれていた」
ロバートは目を細めた。
「つまり、襲撃者はロザンヌの装身具にも、馬車そのものにも手を出さなかったのか」
ロザンヌはうなずきながら言った。
「ええ。書類入れを投げた瞬間、わたくしたちには見向きもしなくなりましたわ」
「強盗に見せかけるつもりすらなかった、ということか。最初から書類の奪取だけが目的だったわけだ」
アドリアンは男が持っていた紙切れをロバートへ渡した。
「これが捕らえた男の持っていた指示書です」
ロバートはランプで紙切れを透かし、慈善会の透かしを確認した。
「慈善会の用紙であることは確かだな。だが、これだけではフォルティ氏が書いた証拠にはならない」
セシリアがうなずいた。
「フォルティ様以外にも、この用紙へ触れられる者はいます」
ロザンヌはロバートから指示書を渡してもらった。
「この指示書からわかる事実を拾い上げませんと」
「やってみろ」
ロバートの声から、いまだにロザンヌのお転婆に怒っているのがうかがえた。
ロザンヌはちらりとロバートを見て、指示書に目を落とした。そこからゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「では、拾い上げます。
一、貸家の場所を知っていた。
二、セシリア様が会計補助だと知っていた。
三、革の書類入れをお持ちだと知っていた。
四、書類入れを慈善会の裏手へ運ばせようとしていた。
以上でしょうか」
アドリアンが続けた。
「少なくとも、依頼主は慈善会と無関係な人間ではない」
うなずいたマイクが指摘した。
「書類入れの受取先を慈善会にしたことが、相手の失敗ですね」
ロザンヌは首を振った。
「受取先ではなく、置き場所かもしれませんわ。指示を出した本人が姿を現すとは限りませんもの」
ロバートはぐったりしているセシリアへ向き直った。
「あなたがオリバー殿を捕らえるためにしたことはマイクから聞いた。だが、慈善会の金と物資を使ったことも、エルシー嬢を閉じ込めたことも消えない」
セシリアは体を起こして目を伏せた。
「承知しています」
ロバートは静かな声で聞いた。
「それでも、すべてを証言するか」
セシリアは顔をあげて、ロバートをまっすぐに見た。
「はい。覚悟はできております」
ロバートはセシリアの目を見てうなずくと、マイクに用紙を一枚用意するように言いつけた。
「では、セシリア嬢が証言する項目を確認する。マイク、書いてくれ」
「はい」
マイクは用紙をテーブルに置くと、ペンを持った。
「……八項目あるな」
ロバートは宙を見つめながらつぶやいた。
マイクは自分のメモを確認して、うなずいた。
マイクは八項目を一つずつ読み上げ、その都度、セシリアの答えを書き留めていった。すべてを書き終えると、セシリアは完成した供述書に目を通し、署名した。
ペンを置いて小さく息を吐いたセシリアに、ロバートは質問した。
「貸家にあった証拠は一部だと聞いた。では、残りはどこに?」
セシリアはロバートに目を向けた。
「慈善会の事務室です」
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