第十章 届かなかった手紙と、焼けた帳簿 ④
短く二度、間を置いて一度。
マイクはアドリアンがしたように床すれすれまで身をかがめ、扉の下の隙間を確認した。
「大丈夫」
マイクがそっと扉を開けると、そこには中肉中背の、冴えない顔つきをした中年の男が立っていた。
「やっぱりケリーさんだ」
マイクが嬉しそうに言うと、ケリーは馭者帽をとって室内をぐるりと見まわした。
「社長の命により、エルシー嬢を安全な場所にお連れする役を仰せつかった、レマー新聞社の社員のケリーです」
「馬車は?」
質問したアドリアンに、ケリーはちらりと目を向けた。
「裏手に。だが、もたもたするのはなしで」
「当然だな」
アドリアンはエルシーへうなずいてみせた。
「さ、彼について行ってください」
「メリーも」
メリーはうなずき、エルシーの荷物をさっと手に持った。
「安全な場所へ着くまで、メリーの指示に従ってくださいませ」
「わかったわ」
上ずった声で、エルシーは答えた。
「あなたの失踪についても、必要のないことは外へ出しませんわ」
「……ありがとう」
エルシーは小さく息を吐いた。
「あの、エルシー様、私は……」
セシリアがどこか縋るような口調で話そうとすると、
「今は聞きません」
エルシーは固い声で遮った。
「あなたのしたことは、すべてが終わってから聞きます」
セシリアは唇をかんだ。
「だから、逃げずに最後まで話してください」
「……はい」
セシリアの目尻が濡れていることに気づかないふりをして、エルシーは戸口へ向かった。その後をメリーがぴたりとついて行く。
マイクは二人の横をするりと通り抜け、廊下の様子をうかがった。
「大丈夫です。行きましょう」
メリーが扉の前で振り返った。
「アドリアン様、くれぐれもお嬢様をお願いします」
「心得た。安心して任せて」
メリーは小さく頭を下げた。
「ご婦人方、少し急いでくださいよ」
ケリーが促した。
エルシーはメリーへ目を向け、小さくうなずいた。
ケリーを先頭に、マイク、エルシー、メリーの四人が廊下へ出た。アドリアンは扉を閉め、鍵をかけた。
廊下を遠ざかる足音が聞こえ、やがて裏手から馬車の車輪が動きだす音がした。
その音が聞こえなくなってから、しばらく待った。
やがて、再び扉が規則的に叩かれた。
アドリアンは床すれすれまで身をかがめ、扉の下を確認した。一人分の靴しかないことを確かめてから、扉をわずかに開けた。
扉の前には、ハンチング帽をかぶり、白いシャツに上着を羽織った男が立っていた。
「レマー新聞社の社員、ハンスです。護衛役として参りました」
上着越しにも、鍛えられた体つきだとわかる。
「ロバート殿は、本気で人を選んだようだね」
アドリアンがつぶやいた。
「エルシー嬢たちの馬車は出発しました。私たちは時間を空けて出ます。ロザンヌ様たちが乗る馬車の馭者も、護衛を務められる者です。私は馬で、少し離れた後方からついて行きます。準備はよろしいですか」
ハンスの言葉に、ロザンヌとアドリアンはうなずいた。セシリアも遅れてぎこちなくうなずいた。
「では」
ハンスの声に、三人は扉へ向かった。
薄暗い廊下を通って裏口にたどり着き、ハンスは戸口から顔を出して、小さく鳥の鳴き声を真似た。
その声に呼応するかのように、右手から似た鳥の声が聞こえた。続いて馬車の車輪の音がして、ハンスは戸口から外に出た。
アドリアンがまず外に出て、ハンスと一緒に通りを見回した。
「いいよ」
アドリアンの声に、ロザンヌはセシリアの背中に手を当てて、一緒にアドリアンのもとへ進んだ。
ロザンヌたちの目の前に、レマー家の紋章が入った馬車が横付けされた。
ハンスが馬車の扉を開けると、アドリアンがまず乗り込み、続いてセシリアをエスコートして馬車に乗せた。最後にロザンヌを乗り込ませると、アドリアンは扉の近くに座った。ロザンヌはその横にぴったりと貼りつくように座った。
ハンスが馬車の扉を閉めると、近くに待たせていた馬へまたがった。
アドリアンはさりげなく、ロザンヌの手を握りしめた。
「怖い?」
小声で問うアドリアンに、ロザンヌも小声で返した。
「少しだけ」
「なら、ずっとこうして近くにいて」
「そういたしますわ」
こわばっていたロザンヌの肩が、少しだけ下がった。
「出発します」
馭者の声に、馬車の中の空気が張り詰めた。
誰も口を開かず、馬車の車輪の音と、馬の蹄の音が響いた。
セシリアは厚手の布で包んだ書類入れを胸に抱えたまま、窓の外を見た。
「誰にも見られていなかったのかもしれません」
セシリアのつぶやきに、ロザンヌは、
「そうであればよろしいのですけれど」
と、返した。
馬車の揺れに身を任せ、三人はしばらくの間、蹄の音を聞くともなしに聞いていた。
馬車の窓から見える風景はいつもと同じで、時折荷車とすれ違うほかは、まばらな通行人の姿が見えた。
アドリアンは油断なく窓の外を見回していた。
ロザンヌはそっと尋ねた。
「先ほどから同じ馬車や馬がついてきてはいませんか?」
「ここから見えるだけになるけど、今のところはないようだよ」
「後方にハンス様がいらっしゃる?」
「少し離れているけれど、ちゃんとついてきてくれているよ」
ロザンヌはつないだままの手をそっと握りしめた。アドリアンは、ロザンヌの不安をなだめるように握り返した。
アドリアンは馬車が角を曲がるたびに、しっかりと周囲を確認した。
馬車が大きく揺れるたびに、セシリアはびくりと肩をはね、書類入れを抱きこんだ。
やがて道が少し細くなった。
午後も遅い時間になり、倉庫街の商店は早々に店じまいを始めていた。
「ここからは、道幅が狭いうえに人通りが少なくなるな」
アドリアンが眉をひそめた。
「ええ。この道から新聞社へ行く途中は、細い路地や倉庫街がありますものね」
レマー新聞社は、王都でも市民が暮らす地区の一角にある。もともとは倉庫兼住居だった建物をロバートが買い取り、社屋兼自分の住居に改築した。
「王都の主要道路のようにうるさくないけれど、人がほとんどいない、物騒なところでもないのがいいんだ」
ロバートは嬉しそうに言っていた。
ロザンヌがロバートの自慢話を思い出していると、ふいに馬車が止まった。反動でロザンヌたちは座席から放り出されそうになった。アドリアンがロザンヌを抱きかかえ、揺れの衝撃から守った。セシリアは片手で馬車の壁についた取っ手を握り、もう片方は書類入れを抱えた格好で耐えていた。
三人が体勢をなおそうとしたところで、今度は車体が大きく揺れた。
ロザンヌの額がアドリアンの肩にぶつかった。
「どうした!」
アドリアンが大声で馭者に声をかけた。
「荷車が道を塞ぎました!」
アドリアンは素早く窓から目を走らせた。前方で大きな荷車が斜めになって道をふさいでいた。
「荷物は崩れていない」
「ということは、故意に?」
「僕たちを足止めするためだろう」
馭者は馬を操り、なんとか向きを変えて後退させようと躍起になっていた。
馬がいななき、乱れた蹄の音が道に反響した。
そこへ、後方から数人の男が駆け寄り、馬車の後ろへ回り込んだ。
別の男が馭者台に飛び乗った。馭者を引きずり降ろそうとするが、馭者はただの男ではない。ロバートが選び抜いた屈強な男だ。二人はしばらくもみ合った末、馭者は鞭の柄で男の腕を打った。
後方にいたハンスはまだ追いついていない。
襲撃者の一人が叫んだ。
「金には手を出すな!」
「茶金の巻き毛が会計補助の女だ! 革の書類入れだけを盗れ!」
険しい顔をしたアドリアンは、ロザンヌの手を放して立ち上がった。
「ロザンヌ、奥へ」
「アドリアン様」
「ここから出ないで」
アドリアンはロザンヌを座席の奥へ押し、セシリアに告げた。
「書類入れを離すんだ」
「ですが」
アドリアンは声をひそめた。
「原本ではない。あなたの命を懸ける必要はない」
セシリアが躊躇している間に、襲撃者は外から固いもので馬車の扉をがんがんと殴り始めた。
アドリアンは小さく舌打ちをして、自分の側の扉を蹴り開けた。そのまま勢いよく飛び出し、怯んだ男の腕をねじり上げ、わき腹を蹴り飛ばした。
「アドリアン様!」
アドリアンは素早く馬車の扉を閉め、守るようにその前に立ちはだかった。
襲撃者たちは五人ほどだった。馭者は鞭を巧みに操り、馭者台へ上がろうとする男を近づけまいとしていた。
ロザンヌは馬車の窓に顔を寄せた。アドリアンの広い背中が目の前にあった。
見慣れた背中のはずなのに、ロザンヌがいま目にしている背中からは、殺気と感じられるほど威圧感が溢れ、いつもより大きく見えた。
アドリアンは今、貴公子ではなく、幼少より剣技を叩き込まれた戦う者としてロザンヌの前に立っている。
ロザンヌは口元を引き締め、振り返った。
「セシリア様、そちらの扉の内鍵は」
言い終わらないうちに、アドリアンとは反対側の扉が、轟音とともに内側へ大きく弾けた。片方の蝶番が外れ、扉が斜めに傾いた。
「きゃあ!」
セシリアの体が座席から横に飛ばされた。
「セシリア様!」
ロザンヌは座席の縁にしがみついたまま叫んだ。
男は馬車の中に手を突っ込み、セシリアの両足を掴んで引きずり出そうとした。
ロザンヌは慌ててセシリアの両脇に手を入れて抱きしめた。セシリアの耳元で、早口で囁く。
「セシリア様、書類入れを放ってください」
「でも、これは」
「中身は偽物ですわ」
蒼白な顔のセシリアは、足をばたつかせようとするが、男はセシリアの両足を抱え込み、力任せに引っ張った。
セシリアの体はずるずると、外へ引っ張り出されていく。
ロザンヌは書類入れを抱きしめているセシリアの手を強く叩いた。
まさかロザンヌに乱暴をされるとは思っていなかったセシリアは、驚いた拍子に腕の力を弱めた。その隙に書類入れを引き抜いたロザンヌは、それを力いっぱい、馬車の外の店の戸口めがけて放り投げた。
「書類入れだ!」
男たちの一人が叫んだ。
その瞬間、セシリアの足を引っ張っていた男は店の戸口へ身をひるがえした。
男がいなくなってすぐ、ロザンヌは蝶番のひとつが外れてしまった扉を閉めた。その扉に背中をつけ、体重を乗せて座り込んだ。扉のささくれが袖に引っかかり、布の裂ける音がしたが、かまってはいられなかった。肩で息をしながら、呆然と床に座り込むセシリアに、固い微笑を浮かべて見せた。
「ないよりはましですわ。たぶん」
ほかの男たちも、書類入れを目指して駆け寄っていった。
書類入れを拾い上げた男が、細い路地へ逃げようと走り出した。
そのとき、後方から馬が駆けてきた。ハンスだ。
ハンスは馬で男の前方を塞いだ。男が方向を変えて逃げようとしたところで、馬から降りたハンスが書類入れを持つ男の腕を掴んで後ろ手に捻り上げた。
「いてえ!」
「それを離せ」
「うるせえ!」
ハンスがさらに腕を捻り上げると、男の手から力が抜けた。
男は声にならない悲鳴を上げて、書類入れを手放した。
「最初からそうすればいいものを」
ハンスは男を地面へ押さえこんだ。
馭者が鞭の柄を振り下ろすと、男はそれを腕で受け、馭者台から飛び降りた。
アドリアンは馬車に乗り込もうとした男の首筋へ手刀を入れた。男はよろめき、馬車から離れた。
「相手になるぞ」
アドリアンは男が取り落とした金属棒を拾い上げ、構えた。
襲撃者たちは書類入れを持ち去ろうとした男が捕まったのを見て、互いに目配せをすると、その場から走り去った。
アドリアンは周囲に残党がいないか確認すると、急いで馬車の扉を開けた。
「ロザンヌ!」
反対側の扉の前で座り込んでいたロザンヌを見て、アドリアンは真っ青になった。
「どこか怪我をしたのか? 大丈夫か?」
アドリアンは馬車に乗り込むと、ロザンヌの肩や手首や額をぺたぺたと触った。
「わたくしは大丈夫ですわ」
宥めるような声でロザンヌが言った。
「……袖が破れているじゃないか!」
アドリアンはこの世も終わりというような表情になった。
「きみを無傷で守ると誓ったのに」
「アドリアン様の袖も破れていますわよ」
「僕は袖だけだからいいんだ」
「わたくしもですわ。お互いに無事ということですわね?」
アドリアンは目を瞬いた。
「そう、なるのかな」
「ええ。それより、セシリア様ですわ」
アドリアンは慌ててセシリアへ目を向けた。
セシリアは座席の下に座り込んだままだった。
スカートの裾から見えている足首には、男の指の形をした赤い跡が残っていた。
「これは……」
痛ましそうな表情を浮かべたアドリアンに、セシリアは首を振った。
「ロザンヌ様に言われたのに、動転していて、すぐに書類入れを手放さなかったからです」
「ほかに痛むところは?」
「軽い打撲です。御心配には及びません」
「ならいいが」
「興奮している今は、痛みを感じにくいと思います。無理をされませんように」
ロザンヌの言葉に、セシリアはうなずいた。
「いろいろとありがとうございます」
「じゃあ僕は、ハンスたちの様子を見てくるから」
「わたくしも参りますわ」
アドリアンは困った顔になった。
「大人しく馬車の中で待っていてほしいんだけどなあ」
「捕らえた男から話を聞きだすのでしょう? わたくしも聞きます」
「でしたら、私も同席したいです」
「セシリア嬢まで……」
アドリアンはため息をついた。
「二人とも、少し離れたところで聞くくらいにしてほしい。ハンスたちもそれで妥協してくれると思うが。くれぐれも」
「危ない真似は致しませんわ」
ロザンヌが前のめりで答えた。
アドリアンは先にハンスと馭者に断りを入れた。捕らえた男からは姿が見えない位置で聞くだけ、という条件で承諾を得た。
「ここから離れないでくださいよ。まだこの辺りは物騒なんですからね」
明らかに嫌がっていることを隠そうともしない馭者に、ロザンヌは神妙にうなずいた。
「ええ。お約束いたしますわ」
セシリアもうなずいた。
アドリアンとロザンヌとセシリアは、捕らえた男から姿が見えないように、ハンスの背後にある物陰から様子を見ることにした。馭者はハンスのそばにいて、周囲を見回した。
捕らえた男はきっちり縄で縛りあげられていた。
ハンスが男の髪を掴み、顔を無理やり上げた。
「誰に頼まれた」
「知らねえ」
地面に押さえつけられた男は、顔を歪めて唾を吐いた。
「知らない相手から仕事を受けたのか」
ハンスは男が逃れようと動くたび、関節が決まる方向へわずかに力を加えた。
「痛え! 折れる!」
「なら、動くな。質問に答えろ」
「言う! 言うから!」
男は泣きながら話し始めた。
「前金をもらったんだ! 名前なんか聞いてねえ!」
「どこでもらった?」
「じ、慈善会の裏手にある通用門の前だ!」
「どんな人物だった?」
「年配の事務員風の男だった!」
「金以外のものを渡されたか?」
「ある! 紙切れを渡された! おれのポケットに入っている! だから力を緩めてくれ!」
ハンスは男の胸ポケットをまさぐって、折りたたまれた一枚の紙きれを取り出した。片手で器用に広げて一瞥すると、ハンスは力を緩め、男を地面に投げ出した。
男は鼻をすすりながら体を丸めて震わせた。
ハンスはロザンヌたちに聞こえるように紙片を読み上げた。
「西区聖堂北側の貸家を見張れ。茶金の巻き毛の女が慈善会の会計補助だ。彼女が持っている革の書類入れを奪え。女や同乗者の命までは奪うな。書類入れは慈善会裏手の通用門へ運ぶこと」
そこで文章は終わっていた。署名はない。
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