第十章 届かなかった手紙と、焼けた帳簿 ③
「先に戻って、社長へ連絡します」
「待て。まず、外を確認しよう」
アドリアンは窓辺へ向かった。
「あの、カーテンを開けない方が」
「わかっているよ」
アドリアンはカーテンの端をわずかにずらし、通りの左右へ目を凝らした。
「目につく者はいない。だが、来た道は使わない方がいい」
「わかりました。建物の裏口から出て、一本離れた通りで待っている馬車へ戻ります。馭者に、新聞社まで送ってもらいます」
「馬車に乗るまでは僕も行こう」
アドリアンはロザンヌたちに向き直った。
「扉を閉めて待っていて。すぐに戻る」
ロザンヌがうなずくと、アドリアンはマイクを連れて部屋を出た。
しばらくして戻ってきたアドリアンは、マイクが無事に馬車へ乗り込んだことを告げた。
なおも不安そうなセシリアを後目に、ロザンヌはメリーのいる部屋に戻り、エルシーの服装と移動の準備をするように頼んだ。
「セシリア様は、証拠の品をまとめてくださいませ」
ロザンヌの言葉に、セシリアはぎこちなくうなずいた。
ロザンヌの背後で、衣擦れの音がした。振り返ると、地味な外套をまとい、帽子を目深にかぶったエルシーと、寄り添うように立つメリーがいた。
エルシーは眼鏡や化粧をしていない。目深にかぶった帽子が彼女の生来の美貌を隠していたが、それがなければ地味な格好をしていても目立ったことだろう。
「少し歩くことになりますが、歩けますか?」
メリーが心配そうに尋ねると、
「ええ。閉じ込められていただけで、病気ではないもの。大丈夫よ」
エルシーはぎこちない笑みを浮かべた。メリーはとんとん、となだめるように彼女の腕を軽く叩いた。
「では、馬車に乗るまで私から離れないでくださいませ」
メリーはアドリアンが寝室から戻した椅子に、彼女を座らせた。
「あなたも」
メリーはもう一脚にセシリアを座らせた。
ロザンヌはそのやり取りを見て、アドリアンへ目を向けた。
彼は少し開けたカーテンの隙間から通りを警戒していた。ロザンヌは彼へ近づいた。
「二台の馬車が必要ですわ」
アドリアンはロザンヌへ顔を向け、うなずいた。
「ああ。一台はエルシー嬢、もう一台は証拠だね」
「ええ。それだけでは足りませんわ」
「というと?」
「革の書類入れそのものが目印になりますわ」
セシリアが胸に抱きかかえている書類入れを見ながら、声を落として続けた。
「セシリア様が書類入れを抱えて外へ出れば、監視している者は、あれに証拠が入っていると思いますわ」
「原本を別の入れ物へ移すのか」
アドリアンは室内にあるものを見回した。どうやら代わりのものをさっそく探しているらしい。ロザンヌは小さく微笑した。
「書類入れだけを奪われても、証拠を失わないようにいたしませんとね」
そこへ、小さく、一定の間をおいて扉をたたく音がした。
小さく二度、間を置いて一度。
それが二回、繰り返された。
「マイクだ」
「……いつのまにそのような合図をお決めになったの?」
アドリアンは扉へ向かいながらロザンヌに片目を瞑って見せた。
「二人で外出した時に、マイクから提案されていたんだ」
「まあ」
「ロバート殿直伝だそうだよ」
「叔父さまが? ……わたくしにはそのような面白いことはなにもお話しくださっていませんのに」
ロザンヌは口を尖らせた。
アドリアンが扉を開けようとしたところで、セシリアが体をこわばらせた。
アドリアンは床すれすれまで身をかがめ、扉の下の隙間から外をうかがった。
「……大丈夫、マイクの靴だけだ」
「靴? 男の人はどれも同じようなものです。そんな隙間でわかるわけ」
セシリアの抗議に、アドリアンは立ち上がりながら手のひらを彼女に向けて、話を止めた。
「彼の靴先には、白墨で線が引かれているんだ。ここが赤色だったら、『開けるな』だ。今は白だから大丈夫」
なおも不安そうなセシリアを背後に、アドリアンは小さく扉を開け、マイクだけだと確認した後、彼を中に入れた。
マイクはキャスケットをとり、息を切らしながら額の汗を拭った。
「社長へ知らせました。馬車を二台用意するそうです。証拠とエルシー嬢を分けた方がいい、と」
ロザンヌは胸の前で拳を握ってうなずいた。
「叔父さまは?」
「新聞社で受け入れの準備をしています。ご自分がここへ来れば目立つから、と」
マイクはエルシー嬢へ顔を向けた。
「エルシー嬢のことは記事にしない、まず安全な場所へ移動を、と」
エルシーが安堵の表情を浮かべた。
「叔父さまらしいですわね」
ロザンヌはにこりとした。
次に、マイクはロザンヌへ顔を向けた。
「ロザンヌ様には、絶対に危険な馬車には乗るな、とも」
「え」
「アドリアン様にはくれぐれも、ロザンヌ様を危険な馬車に乗せないように動け、と」
マイクはアドリアンに気の毒そうな顔を向けた。難題だということは、マイクも理解しているらしい。
アドリアンは額に手を当ててため息をついた。
「……叔父さまの言伝は聞かなかったことにいたしますわ」
不満そうな声でロザンヌが言った。
メリーはロザンヌを軽くにらみつつ、マイクに水の入ったグラスを渡した。受け取ったマイクは、なみなみと注がれていた水を一気に飲み干した。
「そう言うと思った、と社長はおっしゃっていました」
「それで、用意した馬車とわかる目印はあるのか?」
アドリアンの問いに、マイクは首を振った。
「一台は、外からは新聞社の馬車だとわかりにくいです。社章も紋章もありません。ですが、馭者は社長が信頼する新聞社の方ですのでご安心を」
「エルシー様をお連れする先は?」
「新聞社が、告発者や情報提供者を一時的に保護するために使う場所を用意するそうです」
エルシーの膝の上で重ねられた両手が、ぎゅっと握りしめられた。
「レマー新聞の用意する場所です。安全で、快適ですよ」
「わかったわ」
エルシーはぎこちなくうなずいた。
「それからもう一台の馬車ですが、こちらにはレマー家の紋章が入っています。証拠はぱっと見てそれとわからないようにしておけ、と」
「当然だな」
アドリアンはうなずいた。
「それから僕は、エルシー嬢の馬車へ乗るように言われました。安全な場所まで案内しろ、と」
「きみも第一の馬車へ?」
「はい。社長は、そちらの方が安全だと判断したようです」
「なら、証拠は僕が持つことになるな」
「ですが、目立たない馬車へ乗せた方が安全ではありませんか?」
ロザンヌが尋ねると、アドリアンは首を振った。
「原本を乗せれば、あちらも安全ではなくなる。マイクまで襲撃に巻き込むわけにはいかない」
マイクが何か言いかけたが、アドリアンはそれを制した。
「目立たない馬車の方が安全だろう。だが、それは見込みにすぎない。原本をマイクに持たせたまま、万一あちらまで襲われれば、子どもの彼を証拠ごと危険にさらすことになる。原本は僕が預かろう」
アドリアンはセシリアへ顔を向けた。
「セシリア嬢、その書類入れの中身をすべて出してほしい」
「どうするのですか」
二人が話している横で、マイクは上着の下で肩に斜めにかけていた布製の鞄をとった。中から大きさの異なる書類を取り出して、セシリアへ差し出した。
「これを、その書類入れに入れてください。原本はこの鞄に入れます」
躊躇うセシリアに、アドリアンは静かに言った。
「あなたが持っていることが一番危険なのはわかるね?」
用意した書類を差し出したまま、マイクは彼女をじっと見ていた。
セシリアは小さく息を吐くと、中にあった書類をマイクに渡し、彼の手にあった書類を受け取った。
マイクはセシリアに渡された中身を一枚ずつ確かめた。
「ええと、オリバー様の手紙が六通。署名入りは二通。日付と金額の一覧が三枚。物資の数量と引き取り先の覚え書きが四枚」
マイクはメモに書きつけた。
「ええ。それで間違いないわ」
セシリアは書類入れに偽の書類を入れながら答えた。
「代わりに入れるものって、……これって、新聞記事の原稿? あとは意味不明な帳票に、白紙の紙なのね。似ているような、そうでないような」
「その辺の感覚は用意した社長に聞いてください」
マイクが新聞社用の布製の書類鞄に原本を入れ、アドリアンへ渡した。
アドリアンは一度上着を脱ぎ、鞄の紐を肩から斜めに掛けると、その上から再び上着を着た。
「アドリアン様がお持ちになるのですね」
心配そうにつぶやくロザンヌに、アドリアンは微笑して見せた。
「上着があるから、外から見ても僕が書類を持っているとはわからないだろう?」
「それでも、奪われそうになったら」
そこまで言うと、ロザンヌは俯いてしまった。
誰が持っていても、危険なのだ。
「危険が迫ったら、その時は、僕は書類よりきみを守るよ」
ロザンヌは顔を上げた。
「それでは困りますわ!」
アドリアンはロザンヌの頭をぽん、と軽く叩いた。
「困っても、そこは譲らない。きみがエルシー嬢の馬車に乗らないというのと同じだ」
口を開きかけたロザンヌは、何も言わずに口を閉じた。
「あのう、偽物を用意したということは、奪わせるということですか」
セシリアがためらいがちにアドリアンへ話しかけた。
アドリアンはセシリアに首を振った。
「ちがう。奪われた場合にも原本を失わないためだ。それに、奪われると決まったわけではない」
ロザンヌが続けた。
「囮を使って相手に襲わせる計画ではございません。書類入れも、外から見えないように運びます。ただ、すでにセシリア様と書類入れを見られている可能性があります。万一奪われても原本を失わないよう、中身を移しておくのです」
セシリアは小さく、そう、とつぶやいた。それから奥の部屋へ戻り、書類入れを厚手の布で包んだ。
そこへ、窓の外から軽快な鳥の鳴き声が響いた。
「合図だ」
マイクがぱっと扉へ近づいて、扉に耳を当てた。
「きみにもエルシー嬢の馬車に乗ってほしいんだが」
横に立つロザンヌに、アドリアンが言うと、
「できませんわ」
ロザンヌはにべもなく返した。
「どうして」
「目立たない馬車へわたくしが乗れば、目立たない馬車ではなくなるでしょう?」
「……きみの顔を見て、レマー家の令嬢と知る者がいるという可能性があるということ?」
「そうですわ」
「なら、別の場所で合流すればいい。セシリア嬢の話は新聞社でも聞けるだろう」
ロザンヌは冷たい目をアドリアンに向けた。
「アドリアン様は、セシリア様の馬車に乗るのでしょう?」
「彼女と証拠を守るためにね」
「わたくしもそちらへ」
「……やっぱり、安全な方へは行ってくれないか」
アドリアンは肩を落とした。ロザンヌは口を尖らせて言った。
「当然ですわ。アドリアン様がいない安全な馬車に乗っても、わたくしの心は安心できませんもの」
ロザンヌの言葉に、アドリアンは言葉を失った。ロザンヌは続けた。
「アドリアン様だって、ご自分だけ安全な馬車に乗り、わたくしが危険な馬車に残っていたら、お一人で先へ行けますの?」
アドリアンは両手を肩の位置に上げて降参の意を示した。
「なら、僕の隣から離れないでいて」
「……いつもより近くてもよいかしら」
うつむくロザンヌの頬が少しだけ赤く染まった。
アドリアンは小さく笑った。
「歓迎するよ」
エルシーのそばにいたメリーが、大きな咳払いをした。
二人の会話を聞いていなかったマイクが、扉に耳を当てたまま、嬉しそうな声を出した。
「……足音を消して歩いている。この感じはケリーさんかな」
扉が静かに叩かれた。
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