第十章 届かなかった手紙と、焼けた帳簿 ①
背後から、階段を駆け上がる焦った足音が聞こえた。そのまま恐ろしい勢いで走る足音が大きくなった。
「お嬢様!」
扉の向こうで、メリーとマイクが肩で息をしていた。二人ともものすごい形相でロザンヌを睨んでいる。二人がアパートへ入ったのを見届けたマイクは場所を確かめると、待機していたメリーを呼びに戻ったらしい。
「ご無事でしたか」
安堵のため息をついたマイクが、キャスケットを取って、腕で額の汗を拭った。
「もう二度と、あのようにお二人だけで先へ行かないでくださいませ」
すがるような声でメリーが言った。
「誰です?」
慄いたエルシーが、一歩退いた。
「ご安心なさって。わたくしの侍女とレマー新聞の青少年記者クラブに所属するマイクですわ」
「記者クラブ? 新聞社の人?」
ロザンヌの言葉に、エルシーはますます身構えた。
「私のことをすべて書き立てるつもり?」
エルシーはマイクをにらみつけた。
マイクはキャスケットを目深にかぶり直すと、胸ポケットからいつものメモを取り出した。
「確かに僕は記事のネタを追っていますが、すべてをネタにするゴシップ新聞記者とはちがいます」
目元は見えない。だが彼の口元は明らかに不本意だというように曲がっていた。
「記事に必要なのは、慈善会でなにが行われたかです。あなたがどなたに何を頼んで王都を離れようとしたかではありません」
「では、私が自分から姿を消したことも黙ってるというのですか」
マイクがちらりとロザンヌに目を向けた。
ロザンヌはマイクに目配せをして、エルシーの問いに答えた。
「そのことで、ほかの方の命や名誉が不当に傷つけられないのであれば、そういたしましょう」
目を細めたエルシーは、マイクとロザンヌを交互に見た。
ロザンヌは静かな眼差しをエルシーに向けた。
「そもそもエルシー様はなぜ、失踪を計画なさったのでしょうか」
「……そこからお話ししなくてはならなそうね」
口元にきゅっと力を入れたエルシーは、目を伏せて、小さく息を吐いた。
「私、オリバー様に婚約破棄をさせようとしてきたのです。その仕上げに、失踪を考えました」
「婚約破棄をさせようと?」
「ええ」
エルシーはうなずいた。
「オリバー様はわたしのことなどこれっぽっちも愛してはいない。彼が望んでいるのはクイン家が私に持たせる持参金と、クイン家とのつながりです」
「そんなに嫌なら、婚約を解消したいとご両親に訴えなかったのですか」
アドリアンの質問に、エルシーは自嘲した。
「もちろん父には言いました。オリバー様と二、三度お会いしたときにはもう、彼が私を軽視していることもお金と商売で培ったクイン家の信用が欲しいこともわかっていました。父にそう訴えましたわ。けれど父は、貴族の結婚だからということで、私の話を退けました」
「クイン家の信用、ですか」
マイクの言葉に、エルシーはうなずいた。
「ネイヤー家は投資家として名前が知られています。オリバー様も投資家としての見識はお持ちですが、投機にも手を出そうとしています。その時必要な信用をネイヤーだけでなく、クインの名前も上乗せして大金を動かそうとしているのです」
「なるほど」
マイクがメモを取りながらうなずいた。
「それで穏便な婚約解消が望めなくなったため、アイリーンさんの指導の下、姿も振る舞いも変えて、ネイヤー様のほうから婚約を破棄するよう仕向けたということですの?」
エルシーは目を見開いた。
「その通りよ。アイリーンに教わった地味で内気な令嬢という演技にオリバー様だけでなく皆、騙されたもの」
「では、あの失踪を実行した夜は、アイリーンさんがあなたの演技の真似をしたということですわね」
「そうよ。私の服を着てもらい、同じ眼鏡をかけ、そばかすを描き、俯いたまま馬車に乗ってもらったのよ。それで、王都を離れると思わせることができる、必要最低限の荷物を持って駅まで行って、列車に乗ってもらう予定だったの」
「けれど、馭者が襲われたわけですわね」
ロザンヌの言葉に、エルシーは蒼ざめながら叫んだ。
「それは想定外よ!」
「計画にはなかったと?」
「もちろんよ。馭者を襲うようなことは頼んでいません。アイリーンにも、誰かを傷つけてほしいなどとは言っておりません」
「アイリーンさんも、誰も傷つけていないとおっしゃっていましたわ」
その言葉に、エルシーはわずかに安堵したような顔になった。
「では、アイリーンさんを出発させたあと、なぜすぐに逃げず、慈善会へ向かったのか教えてもらえるだろうか」
エルシーはアドリアンの質問に目を瞬いた。
「慈善会へ戻ったのは、逃げるのをやめたからではありません。まだ、やることが残っていたのです」
「それは、不正の証拠を見つけたということですの?」
エルシーは息を呑んだ。
「そこまでお調べになったのね」
うなずくロザンヌを見たエルシーは、大きく息を吸った。
「慈善会の運営に携わっているうちに、配布記録に不審な点を見つけました。『受領人、現れず』と『所在、確認できず』と書いた箇所が、後から『責任者代理受領』に書き換えられていたのです」
エルシーは配布記録と倉庫へ入った物資の記録の齟齬や、支払い記録の齟齬、運搬費を受け取った者の署名の不明瞭さなどを挙げた。どれも、ロザンヌが調べた内容と同じだった。
「だから私は、調べた記録簿名と不一致項目を書き、ロバート・レマー氏個人に宛てて送りました。新聞社の通常の情報提供とは別に扱ってもらえるように」
「その一方で、新聞社には、ご自分が王都を離れたと思わせるための情報提供書を送られたのですわね」
「ええ。こちらは新聞記事にしてもらうためのものよ」
肯定したエルシーは、どこか得意げに続けた。
「同じ日に、別々の目的で二通を送ったのよ。新聞社へ不正を知らせながら、自分の失踪を完成させようとしたわ。両立させられたでしょう?」
「ほかの新聞社はともかく、叔父さまは惑わされませんでしたけれどね」
「そこは、さすが、と申し上げておきましょう」
エルシーとロザンヌは互いに小さく微笑した。
「それで」
エルシーは部屋の隅に溶け込むように立っていたセシリアに鋭いまなざしを向けた。
「あなたに聞きたいことがあるわ、セシリア。あなたが三台分の運搬費を受け取ったのよね?」
「そうです」
セシリアは静かな声で返した。
「では、運送業者へ支払ったのも、三台分ですか?」
セシリアはエルシーから顔をそむけた。
「あなたには関係ありません」
「慈善会のお金です。関係のない者などおりません」
エルシーは柳眉を逆立てた。
「黙っているわけにはいかないわ」
エルシーは開けっ放しになっていた扉へ足を向けた。セシリアは慌てて彼女の腕を掴んだ。
「まだ、すべてをお話ししていません」
「離して」
「今あなたが出て行けば、失踪の計画も明らかになります」
「それでもかまいません。不正を見過ごすよりは」
エルシーはセシリアの腕を振りほどこうと身をよじった。セシリアもその手を離すまいと、ますます掴んだ手に力を込めた。
「あなたがかまわなくても、身代わりを務めた方はどうなるのです」
エルシーの体が強張った。
「……アイリーンは、事情を知らずに巻き込まれただけなのよ」
目を伏せるエルシーに、セシリアはたたみかけた。
「あと少し、待ってほしいのです。あと少し待ってもらえたら、本当に利益を得た者まで明らかにできるのです」
「わたしには、あなたが告発を遅らせるために嘘をついているようにしか聞こえないわ」
「そんな」
「だってそうでしょう? あなたは『アイリーンを安全に逃がす手配について話す』と言って私をここに連れてきたあと、外から鍵をかけてずっと監禁していたじゃない」
「ですからそれはさっきも言ったように、あと少しで」
「あなたはいつもそう言っていた。あと少し、もう少し待ってくれと。証拠がそろえばすべて終わる、という説明ばかり」
エルシーはセシリアの腕を振り払った。
「食事も水も着替えも用意されているからと言って、ここにいたかったわけではないのよ。わたしは都度、あなたに外に出してほしいと頼んだのに、帰ってくる言葉はいつも同じだった。覚えていないとは言わせないわ」
ロザンヌは激昂するエルシーへ静かに声をかけた。
「あなたが婚約から逃れようとなさったこと、アイリーンさんへ身代わりを頼んだことは、不用意に外へ出しませんわ」
「……急に、なによ」
エルシーの目が細められた。
「……それを、信じてよいの?」
ロザンヌはかまわず続けた。
「慈善会の不正を明らかにするために、その秘密まで公にする必要はございません。ですが」
ロザンヌはそこで言葉を切ると、部屋を見回した。
「ですが、あなたがここへ閉じ込められたことは別です。それは、あなたの秘密ではなく、あなたに対して行われたことです」
エルシーの張りつめていた肩が下がった。握りしめられていた拳がほどけ、両手がだらりと下げられた。
「メリー、ここにあるもので、何か温かいものをエルシー様に差し上げて」
「承知しました」
うなずいたメリーは静かにキッチンへ向かった。
張りつめた空気が柔らかくなったところで、ロザンヌはセシリアに顔を向けた。
「次は、セシリア様に伺いますわ」
「それは、僕がやろう」
それまで戸口の近くにいたアドリアンが進み出た。
「エルシー嬢は、あなたが金を奪ったと思った。だが、残った一台分は、あなたの手元にはないと、今日、慈善会の別室で言ったね」
セシリアは小さくうなずいた。
「はい」
アドリアンは続けた。
「では、誰に渡した」
セシリアはエルシーをちらりと見た。
「……オリバー様です」
エルシーは目を見開き、口元に手を当てた。
「オリバー様が、慈善会のお金を?」
セシリアは強くうなずいた。
「そうです」
「あなたに命じて、運搬費を抜かせたというの?」
「いいえ」
途端に、エルシーの目に不信の色が浮かんだ。
「では、どういうことか説明してもらえるかな」
アドリアンが問い直した。
セシリアはアドリアンに顔を向けた。
「最初に持ちかけたのは、私です」
「あなたが、オリバー様を不正へ誘ったということ?」
エルシーが詰め寄ろうとしたが、アドリアンは手で制した。
「あなたが慈善会から三台分を抜き取った、まずここは正しい?」
「はい」
「タイラー運送へ支払ったのは二台分だね」
「間違いありません」
「残る一台分を、オリバー殿へ渡した」
「そうです」
せわしなくペンを走らせていたマイクが質問した。
「渡したのは、誰かを介して?」
「いいえ。私が直接、渡しました」
「場所と日時は? 覚えている限りでいいので」
「すべて記録してあります」
走らせていたペンの動きが止まった。マイクが顔を上げた。
「記録を?」
セシリアはうなずいた。
「いつ、どこで、いくら渡したのか。すべて記してあります」
少し考えて、マイクは眉をひそめた。
「ですが、慈善会に残っているのは、あなたが三台分を受け取ったという署名です。運送業者へ渡したのが二台分なら、記録だけを見た人間は、あなたが残りを着服したと考えます」
「そうですね」
「オリバー様へ渡したことを証明できなければ、罪を負うのはあなただけです」
「わかっています」
セシリアの声は静かだった。
マイクは首を微かに振って、またペンを走らせ始めた。それを横目で見ながら、アドリアンが質問した。
「それがわかっていながら、なぜそんなことをしたんだ」
俯いたセシリアの手が、スカートを握りしめた。
「姉のためです」
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