第六章 舞台女優の化粧箱③
マイクが戻るのを待つ間、一同はサンルームで昼食を済ませ、そのまま食後のお茶を楽しんだ。
そこへ、マイクが帰ってきた。
「早いな」
マイクはアンディが書いたメモをロバートに渡した。メモを開いて目を走らせたロバートが唸った。
「三名か」
「僕が確認した限りでは、そのうち二名には失踪当日の出演記録がありました」
「ぬかりないなあ」
ロバートが感心すると、マイクの頬が紅潮した。
「ロバートさんはいつも情報の裏を取れと」
ロバートはソファから立ち上がり、わしゃわしゃとマイクの頭を撫でた。ふわふわの茶色の髪が動きに合わせて跳ねた。
「ちょっ。僕もう子どもじゃないですよ」
「はは。私から見たらまだまだひよっ子だよ」
マイクは照れながら髪を手櫛で整えた。
「じゃ、残った一名に会いに行くかい、マイク?」
「ええ。ロバートさんは?」
「私はいったん新聞社へ戻る。新聞社のオーナーが顔を出しては、相手を警戒させるからね」
マイクとロバートが出かけようとしたのを見て、ロザンヌが慌てて駆け寄った。
「お待ちくださいませ! わたくしもご一緒したいですわ」
デヴィッドがソファから立ち上がった。
「ならんぞ! 今日一日は家にいる約束だ」
「お父さま、そこを何とか!」
ロザンヌはデヴィッドに近寄ると、両手を組んだ。父親は朝から難しい顔のままだ。そうさせてしまったのは自分だという自覚はあるものの、この女優に一刻も早く会わなければ、という焦燥感が湧いてきて、とてもではないがここでじっとしていられない。
「お父さま、謹慎は明日もいたしますわ。劇場にはアドリアン様にも一緒に行っていただきます。日が暮れる前に帰ってきます。だからお願い、お父さま」
「むむむ」
ロザンヌの翡翠色の瞳が悲しみをたたえてデヴィッドを見上げた。母親譲りの髪が、さらりと肩から胸へ流れ落ちた。
デヴィッドが声にならない悲鳴を上げた。
「くっ……私の天使がこんなに見つめて」
「日暮れ前には必ず、こちらに帰らせるとお約束しますよ」
アドリアンがさりげなく、同行すると告げたところで、デヴィッドはがくりと肩を落とした。
「今回だけだぞ」
「お父さま、大好きですわ」
ロザンヌは大柄な父に思い切り抱き着いた。
「少しでも早く帰ってくるんだぞ」
デヴィッドは執事が止めるまでロザンヌの頭頂部に頬を擦りつけた。
◇◇◇
「お父さまの愛は湿度が高いと思いますわ」
馬車の中でロザンヌはため息をついた。
アドリアンは苦笑しながら、
「僕も相当、重いと思うけど」
「アドリアン様とお父さまとでは、全然質が違います。お父さまはロバート叔父さまにさえ八つ当たりしますもの」
あれはロバートが面白がって煽っているのが原因だと思ったが、口には出さず、アドリアンは黙って笑った。
マイクは二人の向かいの席にメリーと並んで座っていた。
「そろそろ、これから尋ねる女優の情報を話してもいいですか」
マイクが小さく咳払いをした。
ロザンヌは慌てて姿勢を正した。
「お願いできるかしら」
「まず、アンディによれば、他人の声色を恐ろしいほど正確に真似られる女優は、彼女一人だそうです。老女から少女まで演じ分けるのだとか。相部屋女優時代が長かったせいか、化粧やかつらの手直しも、自分でできます。失踪当日は体調不良で稽古を休んでいました。なにより、最近、いままでより羽振りがよくなったという噂がたっています」
「それはほぼあたりのようだね」
マイクはアドリアンにうなずいた。
「ええ。僕もそう思います。彼女の名前はアイリーン・ラルドン。年齢は非公開です」
マイクが案内した劇場は主要道路から一本入ったところにあった。
裏口にまわったマイクの後について行ったロザンヌたちは、狭い戸口から中に入った。通路を進むにつれて油と化粧品の臭いが強くなった。
「この時間は昼公演と夜公演の間で、これでも臭いは弱いほうなんです」
マイクの説明に、ロザンヌは鼻をハンカチで抑えながらうなずいた。
突き当りまで進んだマイクは照明の漏れる扉の前に立つと、ノックをした。中から返事があり、マイクは戸を開けて、するりと中に入った。ロザンヌとアドリアン、メリーも続いた。
「あら。あたしのファンかと思ったら。何の用?」
若いとも中年とも見える女性が、鏡越しにロザンヌたちをじろりとにらんだ。
鏡の前の棚にはランプが二台置かれていた。そのわきに、大きな化粧箱が二つあり、どちらもふたが開けられていた。壁には舞台衣装と思われる、きらびやかなドレスが掛けられている。
「アイリーン・ラルドンさん?」
「ええ。あんたは?」
「僕はレマー新聞の記者クラブの者です。こちらはアドリアン・ルメール様です。エルシー嬢の行方についてお調べになっています。お連れの方々は、その付き添いです」
「ふうん。あんたが連絡してきたマイクね?」
「そうです。少し、質問がありまして」
マイクは胸ポケットからメモを取り出した。
「最近の舞台のことですが」
マイクは当たり障りのないところから質問を始めた。
ロザンヌはさりげなく戸口から化粧箱の中身が見える位置へ移動した。アドリアンがすかさずロザンヌのそばへ移動した。
「それで最近は羽振りがよいと噂になっていますけど、そんなに実入りの良い舞台だったんですか」
アイリーンは頬をひきつらせた。
「ま、まあね。あたしだってメインキャストに名を連ねてるしさ」
「でも十日ほど前は舞台の稽古を休んでしまうほど体調不良だった」
「体が資本だしさ。大事を取ったっていうか」
「でもその後、裏方の人たちに、どこかのお土産を買って帰ったって聞きました。どちらに行かれていたんですか。美味しいお土産は僕も知りたいなあ」
ロザンヌは化粧箱の中を背伸びして観察した。ロザンヌは学園に通っていたとき、演劇部の友人がいた。その友人が化粧箱を見せてくれたことがあった。
アイリーンの化粧箱には、貴族令嬢が使うような化粧品に加え、舞台用らしい道具が揃っていた。
鼻の上にそばかすを描くのにぴったりの細筆。
かつらを固定するための留め具。
「あれは、たしか……化粧が擦れ落ちたのを直す粉」
声に出ていたらしい。アドリアンが微かな咳払いをしてきた。ロザンヌは横に立つアドリアンにうなずいた。
ボトルに入ったあれは、首元を白く見せるための化粧料だ。器に出して水で溶き、首に刷毛で塗る。
アイリーンは苛立ちを含んだ声になった。
「うるさいわね。裏方に美味しい差し入れをどこで買ったかなんてどうだっていいじゃない」
「裏方さんたちはあれをまた食べたいって、僕に言っていたんですよ。取材のときに持ってきたら喜んで話をしてくれると思うから聞いておきたいし。
あれは王都にはないものでしょう? どこの地方のものですか?」
「忘れたわよ!」
アイリーンは腕を組んでマイクから顔をそむけた。
狭い個室に沈黙が下りた。
「では、わたくしから質問を」
アイリーンは横目でロザンヌを見た。
「『あなたには似合わないって言っているじゃない』」
アイリーンの顔がこわばった。
「これに対して、何とお答えになりますか。……はい!」
ロザンヌは閉じた扇子でアイリーンを指した。
演劇部で、即興の演技を無作為にあてて練習をするときにしていた仕草を真似たものだ。
アイリーンはロザンヌの指名に、反射的に答えた。
「『私にはこれで十分よ』」
弱々しい声だった。だが、部屋の隅にまで届くような、芯のある声だった。
アドリアンとマイクが息を呑んだ。
ランプの明かりが微かに揺らいだ。
ロザンヌの瞳が静かにアイリーンを見つめている。
アイリーンははっと口元を両手で隠した。両目は大きく開かれている。
ロザンヌはゆっくりとアイリーンが座っている化粧台へ近づいた。
棚には形の違う舞台用眼鏡がいくつも並び、その中に、新聞に描かれたものとよく似た黒ぶちの大きな丸眼鏡があった。
ロザンヌはその眼鏡を手に取り、アイリーンへ突き出した。
「あなたはこのような眼鏡をかけて、エルシー様になったのですね」
女優の顔から血の気が引いていった。
「あ、あたしはだれも傷つけていないわ!」
アイリーンはロザンヌの腕を握った。舞台用の付け爪がロザンヌの皮膚に食い込む。
「離せ」
アドリアンがすかさずアイリーンの手を払った。そのままロザンヌをアイリーンから少し離れた位置へ移動させ、さりげなく二人の間に体を置いた。
「知っていることを正確に、話してくださいませ。あなたのお名前を不用意に外へ出すつもりはございませんの」
「本当に?」
ロザンヌはうなずいた。
「ご安心くださいませ。わたくし、秘密は守りますわ。けれど、人の命に関わることまで隠すとはお約束できません」
アイリーンの恐怖に彩られた目が揺れた。
「あたしは、誰も傷つけてないし命だって奪ってないよ」
「でしたら、知っていることをすべてお話しになって、それを証明してくださいませ」
アイリーンは泣きそうな顔になった。
「最初は、演技指導をしてくれって言われたんだ」
「どなたに?」
「エルシー本人だよ!」
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