第六章 舞台女優の化粧箱⓵
午前の早い時刻、アドリアンはレマー家を訪れていた。
「お嬢様に声をかけてまいります」
そう言って下がった執事が、まだ戻ってこない。お茶も出ず待たされるのは珍しいことだった。
「ロザンヌのことだ。またきっと何かに夢中になっているんだろうな」
昨日、ロザンヌの叔父で新聞社のオーナーのロバート・レマーに呼び出された。
「ロザンヌのことで頼みがある」
アドリアンが社長室のソファに座ったとたん、ロバートは切り出した。ロザンヌの前ではいつも柔らかい笑みを浮かべていたが、自分の目の前に座る男の目は暗く、奥底に冷たい光を宿していた。
これがロバートの本来の姿だ。
アドリアンは初めて彼に会ったとき、そのことを知った。ロザンヌが席を外した途端に、今日のような顔に豹変したのだ。
その姿に、幼いころから剣技を叩き込まれてきたアドリアンでさえ、腹の底が冷えた。
まだ十代だったアドリアンは、自分とロバートの格の差を突きつけられたように感じた。
だが、いつまでも初見の印象に引っ張られるわけにはいかない。気後れしている場合ではないのだ。
「……ロザンヌに、なにかあったんですか」
「いや。まだだ」
「まだって」
ロバートはアドリアンに、ロザンヌが慈善会の台帳と記録簿の食い違いを見つけ、不正の端緒をつかんだことをかいつまんで説明した。
「慈善会には、王太子殿下が後援者として関わっておられる。この不正を暴けば、いずれあの方の耳にも入る」
王太子殿下は慈善会と協力し、時折、催しを開いていた。将来爵位を継ぐ若者たちとも積極的に交わり、彼らからの人気も高い。
「人探しのうちはよかった。だが、これはいけない」
ロバートはアドリアンに、倉庫の記録簿の写しと事務室の台帳の控え、そしてケイトリンが写した記録簿を見せた。
「あの子が一人で不正の兆候をかぎつけたと知られたら厄介なことになる」
アドリアンは困惑した。
ロバートは重い息を吐いた。
「王太子殿下だ。――ロザンヌを、あの方の目に入れるわけにはいかない」
「どういうことですか?」
「……あの方は、ただ華やかで聡明なだけの方ではないのだよ。あの若さで多くの実績を積み上げるためには、裏で動かなくてはならない。それをいとわない方が、あの子の実力を知ったら、きっと取り込もうとするにちがいない」
アドリアンがぎょっとした。
王家に才を見出されれば、ロザンヌは自分の手の届かない危険な仕事へ駆り出されかねない。
「あの方に、ロザンヌの使い道を思いつかせたくない」
それほどまでか、とアドリアンは息を呑んだ。
彼女の実力をわかっているつもりで、まだ見くびっていたのだと、今さら思い知らされた。
アドリアンの背中に、冷たいものが伝った。
「これからはきみが前面に立ってくれ。そして、不正を暴いたのは彼女だとわからないようにしてほしい」
「彼女の功績を横取りせよと?」
眉根を寄せるアドリアンに、ロバートは小さく笑った。
「彼女の代わりに矢面を横取りするんだよ」
ああ、とアドリアンが小さくうなずくのを見ながらロバートは続けた。
「私は私でできるだけの手を打つ。ロザンヌにもそれとわからないように指示を出すよ。ロザンヌを頼む。きみの遠い祖先から流れる守護騎士の力を発揮してほしい」
ロバートが手を差し出した。これは共闘だ。
アドリアンは父の書斎に飾られている初代を偲んで描かれた肖像画を思い出した。
彼は、今の王家の祖先の一人を守護していた騎士だった。幾度も王の命を救った彼は、『王の盾』『王の剣』と呼ばれた。
功績を認められ、王より爵位を賜った先祖は荒れた領地を開拓することに専念した。結果、現在では、ルメール家は王家に厚い忠誠を誓う一族として知られているが、今でも剣技に秀でている一族であることはあまり知られていない。
ロバートにその先祖を持ち出されたアドリアンは、改めてロザンヌを守るためならなにものも恐れはしない、と思った。
アドリアンは差し出された手をしっかりと握りしめた。
アドリアンは婚約して以来、ロザンヌが笑顔でご機嫌でいることを何よりも望んでいた。
いま、ロザンヌにエルシー嬢の件から手を引けと言っても、止まるわけがない。それはロバートもアドリアンも承知している。
だからロバートはアドリアンにロザンヌを守れと言ってきたのだ。
いま、アドリアンはレマー家の応接室の時計の振り子の音を聞きながら、ロバートとの会話を思い出していた。
「これからしばらく、ロザンヌに張りついていないとな」
控えめなノックの音がした。アドリアンがこたえると、執事が申し訳なさそうな顔で現れた。
「ロザンヌ様のお部屋にお声がけしたのですがお返事がなく」
「彼女は昨日今日と外出を控えることになっているんだよね?」
「旦那様がそうお決めになりましたので、本日もお部屋にいらっしゃるはずなのです」
「メリーは」
「ただいま、執務室でご当主様と話を」
アドリアンは小さくため息をついて立ち上がった。
「きっと何かに夢中になっているんだろう。僕が行くよ」
「申し訳ありません」
「いや。突然訪問した僕が悪いんだから」
執事とともにロザンヌの部屋の前に立ったアドリアンがノックをした。返事はない。今度はもっと強くノックしたが、やはり返事はなかった。
「仕方ない。僕が中に入ろう」
アドリアンはもう一度だけノックをしてから、執事にも中が見えるように大きくドアを開けた。
中に入ると、ロザンヌが窓辺の机でぶつぶつ言いながら手元のノートをにらんでいた。
振り返ってみると、執事は明らかにほっとした表情になっていた。アドリアンは彼に微笑すると、指を口元に立ててにっこりした。執事も笑顔でうなずいた。
アドリアンはそろりとロザンヌに近づいて、ロザンヌの肩越しにノートを覗き込んだ。帳面にはびっしりと文字と数字が書き込まれていた。
その書き込み具合から、アドリアンは完全に没入していることを察した。
「僕に手紙もよこさずに、何に夢中になっているのかな?」
小さな悲鳴とともに、ロザンヌがとびあがった。
「アドリアン様!」
胸元を抑えてロザンヌが抗議の声を上げた。
「先日のレストランのお礼状、ものすごく短かったからきっと何かに夢中になっているんだろうなとは思ったけれど、エルシー嬢のことなら僕も手伝うと言ったよね?」
「アドリアン様……」
ロザンヌは途端に眉尻を下げた。どうやら約束を忘れていた自覚はあるらしいとわかったアドリアンは、少しだけ心のもやもやが薄れたように感じた。
「危険な場所に行ったり危険なことをしていない?」
アドリアンがロザンヌの瞳を覗き込んだ。
「メリーもいますし、大丈夫ですわ」
「どう大丈夫だったか、教えてくれる? なにがわかったの?」
ロザンヌはパッと目を輝かせた。
「わかったといえばアドリアン様! わたくし、慈善会でケイトリン様にお会いしたんですのよ。そこで彼女にたいへんお世話になりまして」
ロザンヌは嬉々としてこれまでにあったことを報告した。
アドリアンはロザンヌが座る椅子の背もたれに片腕をかけ、もう片方の手をロザンヌの机に置いて、ロザンヌに被さる姿勢をとった。アドリアンは、きらきらと輝くロザンヌの翡翠色の瞳を見つめながら、その報告に耳を傾けた。ロバートから聞いた話が、次々と裏付けられていく。
ロザンヌは机の上にアドリアンに見えやすいようにノートを広げ直し、資料を机に並べ、それぞれからわかったことを説明した。
「日暮れの鐘が鳴った時刻に、馬車が止まったとされる場所にエルシー様がいらっしゃったという証言と、慈善会の裏口でエルシー様を見たという証言。同一人物が両方にいるなんてあり得ません」
「では、どっちが本物だと?」
アドリアンの問いに、ロザンヌは、
「慈善会にいらした方が本物と考えるのが自然ですわ」
自信に満ちた声で答えた。
「理由は?」
ロザンヌは指を一本ずつ立てながら、
「一つ目。慈善会の使用人はエルシー様と近い距離でお話ししていらっしゃいます。
二つ目。鍵の扱いなど、慈善会内部のことをご存じでした。
三つ目。エルシー様は失踪直前まで、記録簿や台帳を調べていらっしゃいました。
四つ目。馬車を見た女性たちは、いずれも遠くから服装を見ただけです。馭者もエルシー様のお顔をきちんと見ていません。
五つ目。馭者が聞いた『エルシー様』という呼びかけは、侍女の言葉にすぎません。馬車へ乗ったあと、令嬢ご本人の声を聞いたという証言はございません。ですから、馭者は最後まで、車内にいる女性がエルシー様ご本人だと確認していないのですわ」
「では、馭者が見ていたのは、エルシー嬢らしい服装をした女性が乗り込むところまでということか」
「ええ。襲われる直前まで、その女性が馬車の中にいたという証拠も、今のところございません」
ね? とロザンヌはこてんと首を倒した。
アドリアンは片手で自分の目元を覆った。ロバートの話の通り、彼女はひとりでここまで導き出したのだ。これは噂を操る以上の能力である。王太子殿下がロバートの評するような人物だとすると、もし自分が王太子殿下ならそばに置いて手駒として利用し尽くすだろう。
「本当にまずいことになってる……」
アドリアンはロバートの暗い目を思い出した。
「え? 何とおっしゃいましたの?」
アドリアンは慌てて笑みを浮かべた。
「いや? で、今日もなにか調べるつもり?」
「ええ。……なぜアドリアン様がそれをお聞きになるの?」
アドリアンは片目を瞑った。
「これからは僕もいっしょに行くつもりだからだよ」
ロザンヌがきょとんとなった。
「でも、あの」
「そっけない手紙をもらって僕は悲しかったんだよ? だからしばらくは一緒にいて、僕をご機嫌にしてくれてもいいんじゃないかな」
アドリアンはロザンヌの額に、自分の額をこつんと当てた。
大きく見開かれたロザンヌの翡翠色の瞳が熱を帯びた光をともした。
アドリアンは額を触れ合わせたまま、ロザンヌの唇へ近づくように、わずかに顔を傾けた。
「そこまででございます!」
メリーの叫び声が室内に響いた。
アドリアンとロザンヌの肩がびくりと跳ねあがった。ロザンヌはそのままアドリアンから離れるように体をのけぞらせた。
「あと少しだったのに」
アドリアンが呟くと、メリーはキッと眼鏡越しに睨んだ。
メリーはどすどすと足音を立てながら二人に近づいた。
「執事さんからアドリアン様の来訪をお聞きして飛んでまいりました! ほんっとうに油断も隙もない……。ロザンヌ様、ご当主様あてにロバート様から寄付についての提案があったそうです。また後程お話があるかと」
「あら、なにかしら。気になるわ」
メリーはうなずきながら、それとなくアドリアンをロザンヌから遠ざけた。
メリーはロザンヌから離れようとしないアドリアンを無視して、ロザンヌのノートに目を向けた。
「それで、本物のエルシー様は慈善会にいた、というところから、なにか進展はございましたか」
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