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[第24話:夢は常に小さな引き金から始まる]

その夜、私はジャスミン伯爵邸の敷地周辺を少し散歩し、心を落ち着かせてから部屋へと戻った。昼間の出来事に対する気まずさと申し訳なさから、わざと深夜になるまで部屋に戻るのを躊躇っていたのだ。途中、広場の路上でソロで歌をうたったり軽いステップを踏むような大道芸を披露してみたが、幸いにもかなりの人々が足を止めて見入ってくれていた。


部屋の中では、ウェンディ義姉さんが絞った手ぬぐいを手に、今なおアリアを落ち着かせようと懸命に看病していた。


「あ、ヘンリー……おかえりなさい」


義姉さんは力なく私を迎えてくれた。その顔には色濃い疲労が滲んでいたが、もちろんベッドの上で苦しげに横たわる少女の苦痛に比べれば、比べるべくもない。


「うなされているみたいなの……。やっぱり、昼間のことが相当怖かったのね」


私はただただ立ち尽くし、寝返りを打ちながら苦悶するアリアを見つめることしかできなかった。こめかみから流れ落ちる冷や汗を、義姉さんが温かい手ぬぐいで丁寧に拭い取っていく。


「……ウェンディ義姉さん、休んでください。今夜は私がアリアに付き添いますから」


激しい罪悪感に苛まれながら、私はそう声をかけた。


「そう……それじゃあ、お願いね」


義姉さんはベッド脇から立ち上がると、私の元へと歩み寄ってきた。私の肩を優しくポンポンと叩き、温かな笑みを浮かべる。


「私、少し身体を洗ってくるわね。それと……これはあなたのせいじゃないわよ、ヘンリー」


——あなたのせいじゃない。


いつも私が誰かを慰めるために使っていた言葉が、今は逆に義姉さんから私へと掛けられていた。張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、溜め込んでいた感情が涙となって溢れ出す。


「……ううっ……だって、まだ手の中に残ってるんだ……! あの、吐き気のするような感覚が……っ!」


溢れ出る涙を抑えきれず、私は押し殺した声で咽び泣いた。


義姉さんはすぐさま私を優しく抱きしめ、背中を愛おしそうに撫でてくれた。胸の中で荒れ狂う心の嵐を鎮めようとしてくれているのだ。


二十秒ほどが過ぎ、ようやく感情をコントロールできるようになって冷静さを取り戻した。義姉さんは身だしなみを整えるために部屋を出て行き、私は未だ悪夢と戦い続けるアリアと二人きりになった。


先ほどまで義姉さんが座っていた椅子——アリアが横たわるベッドのすぐ脇——に腰を下ろす。あらためて彼女の顔をじっと見つめた。アリアは心底苦しそうに、数秒の間に怒り、恐怖、悲しみ、拒絶といった陰鬱な表情を目まぐるしく変化させていた。


「ナッシュ……お願い……やめて……」


うわ言を漏らすアリアの弱々しい声が、胸を刺すように痛む。


「……すまない、アリ」


私はアリアの細い指先に手を伸ばし、そっと握り締めた。氷のように冷たく、まるで生命の脈動が絶たれてしまったかのように冷え切っている。私は再び頬を伝う涙を拭うと、繋いだ手と手の間に小さく風魔法(かぜまほう)を練り上げ、ゆっくりと温度を上げて快適な温もりを生み出していった。


その温かな風の効果なのか、それとも手の温もりが伝わったのか、アリアの固く結ばれていた表情が次第に柔らかくなり、穏やかな寝顔へと変わっていった。その効果を実感した私は、温かな風のヴェールを彼女の全身へと広げ、まるで優しい毛布のように包み込んでやった。そして手ぬぐいをもう一度絞り直し、彼女の額へとそっと載せる。


しばらくすると、アリアの怯えたうわ言は完全に収まり、それと同時に、彼女の指先が私の手を力強く握り返してきた。


「……ヘンリー……」


弱々しい声で私の名を呼ぶ。目を開けてはおらず、どうやら深く眠ったままのようだ。


「ここにいるよ、アリ」


私は静かに答えた。


「行かないで……」


「ずっと、そばにいる」


アリアの容態が落ち着いたのを見て心底安心したからだろうか。昼から一度も休ませていなかった身体に、猛烈な睡魔が襲いかかってきた。視界が急速に揺らぎ、意識が遠のいていく。私はアリアの手を固く握り締めたまま、ベッドの脇で腰掛けた姿勢のまま深く眠りへと落ちていった。



目を開けると、見覚えのありすぎる光景が視界飛び込んできた。


大学の劇場ホール——。


「なんで……私がここに?」


バタンッ!


背後から激しく扉が開く音が響いた。思わず振り向くと、そこには私のよく知る少女が立っていた。ウェンディ義姉さんでも、リリィでも、フェイでもない。そして、王女殿下のアリアでもない。


「ラディヤ!」


その少女は私に向かって全力で駆け寄ると、溢れ出る涙もそのままに、私の身体を力いっぱい抱きしめてきた。


「久しぶりだな、アル」


「うっ……ううっ……! なんで急にいなくなったりしたのよバカ!!」


有栖川 亜瑠(ありすがわ ある)——地球での演劇部の仲間が、大声で泣き叫ぶ。大学中の人間が何事かと駆けつけてきそうなほどの声量だった。


だが、誰も来る気配はない。その瞬間、私は悟った。これは夢なのだと。


目の前で泣きじゃくる亜瑠の姿を見て、私の涙腺も決壊した。私たちは言葉もなく、まるで夜が永遠に続くかのように、長い時間二人で泣き続けた。


ようやく心が落ち着きを取り戻すと、私たちは劇場客席のお気に入りの椅子に並んで腰掛けた。


「元気にしていたか、アル?」


ずっとずっと交わしたかった言葉を切り出す。


「……ええ。あの日の後、いろいろ大変だったけどね」亜瑠はぽつりと呟いた。「あんたがいなくなって、ヘルミ先輩も去って……結局、私たちの演劇部は廃部になっちゃったの」


私は亜瑠の言葉に静かに耳を傾けた。


「……すまない、アル。あの時の私は本当に身勝手だった。残されたお前の気持ちも考えずに姿を消して……」


亜瑠は優しく首を横に振った。


「ううん。あの日はみんなにとって『血塗られた舞台』として記憶されているけど……でもね、あの時のラディヤの演技は本当に凄かったよ。キャンパスのみんな、今でも時々あの舞台の話をしてるんだから」亜瑠はいつもの不敵な笑みを浮かべた。「で? あんたの方はどうなのよ?」


私は彼女に自分の身に起きた出来事を話し始めた。異世界の「ヘンリー」という青年の肉体に魂が宿り、生き残るために毎日演技を続け、ついには旅の劇団を作り上げたこと。世界で一番あり得ないおとぎ話でも聞かされているかのように目を見開く亜瑠だったが、私は構わずに話を続けた。


そして——この世界の劇団長であり、王女殿下である「アリア」との出会いについても。


「……その子の名前も『アリア』なの?」


亜瑠は胡乱な目で私を見つめ、私の話を信じるべきか迷っている様子だった。


私は苦笑しながらうなずく。「不思議だろ? 異世界に来てまで、また『アリア』という存在に出会うなんて」


「うわぁ……それ、奇妙っていうか運命っていうか……鳥肌立ってきたわ」亜瑠は自分の腕を抱え込みながら言ったが、それでも私の話に最後まで耳を傾けてくれた。


私は思わず吹き出してしまった。


それから、私たちの劇団が辿ってきた長い旅路について語った。エキセントリックなダリア伯爵、エレガントなジャスミン伯爵夫人……そして、王女アリアにとって最大のトラウマである怪物、ナッシュ侯爵との対峙。


「昼間、その男の模倣(インパーソネイト)を一度試してみたんだ。演者としての出来は良かったんだが……その男の思考や感情を理解してしまってからというもの、自分のことが気持ち悪くてたまらなくなってね」


地球での戦友に、胸の中に溜まっていた重荷を打ち明けた。


「はぁー……あんたって人は、異世界に行っても相変わらず鈍感なんだから!」


亜瑠は呆れたように、あるいは苛立ったように自分の額を叩いた。


「演技が得意だからって、相手のすべてを理解しなきゃいけないとでも思ってんの? 私たちの基本原則を忘れたの、ラディヤ? キャラクター分析をするのは、その存在の本質を『理解する』ためじゃないわ。舞台の上で正しく『表現する』ためでしょ! 悪党の汚い感情に吐き気を覚えて、理解できないって感じるのは演者として当然じゃない!」


亜瑠の論理的な言葉に、私の視界が一気に開けたような気がした。胸を締め付けていた役の残り香キャラクター・バックラッシュが、嘘のように霧散していく。


「それにさ……何? その獣人の女の子の話! どう考えたって異世界のアリアちゃんは嫉妬してるでしょうが、バカ! 男が突然知らない女を連れて帰ってきて、面白がる女子がこの世のどこにいるのよ!」


亜瑠はどんどんヒートアップし、わけの分からない弾丸トークを叩きつけてくる。


「いや、でも私とアリアは付き合っているわけじゃないし……それに劇団なんだから、これから団員が増えるのは当然だろう?」


反論した瞬間、私の頭に痛烈なデコピンが飛んできた。


「はぁ……この筋金入りの鈍感男には何言っても無駄ね」亜瑠は降参したようにため息をついた。「とにかく! あんたにとってその王女様が大切な人なら……しっかり守り抜きなさいよ! 傷つけたりしたら許さないからね。私と同じ名前なんだから!」


亜瑠は人差し指で私の胸をツンツンと突き、元の姿勢に戻った。


私は心からの笑みを浮かべた。


「ありがとう、アル……そして、昔のことは本当にすまなかった」


「またこうやってあんたに会えただけで、十分よ」亜瑠は優しく微笑んだ。「あっちでも元気にやりなさいよ! また倒れたりして、あっちのアリアちゃんを悲しませたら承知しないからね!」


徐々に私の視界が眩い白光に包まれ、目の前の亜瑠の姿が透けていく。


「了解だ!」


世界が真っ白に染まり切る直前、私は最後の返事を叫んだ。遠くで亜瑠が何かを叫び返してくれたような気がしたが、その言葉が届くことはなかった。



ゆっくりとまぶたを開ける。


真っ先に視界に飛び込んできたのは、温かい朝食を載せたトレーを持って部屋に入ってくるウェンディ義姉さんの姿だった。


「あら、ヘンリー。起きたの?」


私は体を起こし、義姉さんに挨拶を……ん? 体を起こす?


その瞬間、身体の下に広がる柔らかい感触に気づいた。——ベッドだ。そしてさらに驚いたことに……私の手は、今なお隣でぐっすりと眠る王女アリアの指としっかりと繋がれたままだった。


「夕べ、私が身体を洗い終わって戻ってきたら、あなたが椅子に座ったまま熟睡していたのよ。だからセバスに手伝ってもらって、二人ともベッドで楽に寝られるように運んでもらったの」


義姉さんはすべてお見通しといった様子で、悪戯っぽく微笑んだ。


「んぅ……騒がしいわね……」


隣から弱々しい漏れ声が聞こえ、アリアがゆっくりと目を開けて身体を起こした。王女殿下は目をパチパチさせながら部屋を見回し、完全に意識が覚醒した瞬間——私の手と自分の手が固く握り合わされているのを目ざとく見つけた。


「!!!!」


死ぬほど動揺したアリアは、反射的に私の手を思い切り弾き飛ばした。運悪いことに、部隊指揮官としての彼女の腕力は凄まじく、私の華奢な身体はそのままベッドから浮き上がり、派手な音を立てて床へと転がり落ちた。


「ふふふ」


そんな私たちのやり取りを見て、義姉さんが楽しそうに小悪魔的な微笑みを浮かべている。


ここ最近、私たちは怒涛の日々を駆け抜けてきた。国王への謁見、エルフ族との出会い、初めての旗揚げ公演、そして異世界での命懸けのアドリブ訓練。


ナッシュ侯爵との決着はまだついていないし、私たちの本当の「舞台」は、これから先で待っている。


けれど、今はただ——この温かな朝の中で、新しい家族とともに過ごす穏やかな日常を噛み締めていたかった。

第24話をお読みいただきありがとうございます!


そして——これにて第一部(Volume 1 / 劇団結成・王都編)完結となります!


夢の中で巡り合った地球での演劇仲間・「亜瑠アル」からの叱咤激励を受け、ヘンリーは役の悪酔いから解き放たれ、アリアとの絆をより一層深めることができました。(朝のハプニングも含めて……笑)


国王謁見から始まり、エルフとの遭遇、ジャスミン伯爵邸での大騒動、そしてナッシュ侯爵との緊迫した対峙まで。駆け抜けてきたヘンリー劇団の物語は、ここでひとつの区切りを迎えます。


【今後の更新予定について(休載のお知らせ)】

第一部完結に伴い、次章(第二部)の執筆および構想準備のため、【1週間〜2週間ほど休載(充電期間)】をいただきます。


パワーアップして戻ってまいりますので、第二部で描かれるヘンリーたちの新たな旅路と、ナッシュ侯爵との決戦の舞台を楽しみにお待ちいただけますと幸いです!


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

「続きが楽しみ!」「第一部完結お疲れ様!」と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク登録】や【評価(★★★★★)】での応援をよろしくお願いいたします!

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