[幕間:小鳥の瞳に映る守護者]
ウェンディの言葉に嘘はなかった。あの夜、二人は誰と言葉を交わすこともなく、ただまっすぐに宿へと帰路についていた。だが、一つの重大な事実だけが意図的に伏せられていた。——あの夜、彼女たちの乗る馬車は、ナッシュ侯爵による一方的な足止めによって、ヘンリーたちの馬車の少し手前で立ち往生させられていたのだ。
暗い馬車のカーテンの隙間から、アリアはその一部始終を目撃していた。
目の前にいるのは、かつて彼女にとって悪夢そのものだった男——ありとあらゆるトラウマの根源であり、彼女を金の鳥架に閉じ込めていた見えない鎖の主。遠くに見えるナッシュのシルエットを捉えただけで、アリアの身体は激しく震え、心臓は恐怖に支配されてパニックを起こしかけた。その恐怖は今なお生々しく、彼女の全身を縛り付けていた。
だが、アリアの視線はすぐに、その侯爵と対峙する「仮面」の青年へと引き寄せられた。
アリアは彼の性格をよく知っている。彼は常に理性を重んじ、冷静かつ計算高く、どちらかといえば冷徹な男だった。仮面の下の彼と冷戦状態が続いていたとはいえ、あの『ヘンリー』が私情や感情に流されて行動するような男ではないと彼女は確信していた。
——あの男が、口を開くまでは。
距離が遠すぎたため、かつての許嫁が何を呟いたのかまで聞こえることはなかった。だが、カーテンの隙間から見えたのは、その男の口元が紡いだ忌々しい形——『我が女』という二文字だった。
彼女を一年間、地獄の苦しみに沈め続けた呪わしい呼び声。
その言葉が発せられた瞬間、アリアはヘンリーの全身から放たれるオーラの変貌をハッキリと目撃した。アリアの前で、あの男の鉄壁の冷静さが完全に砕け散ったのだ。それに続くように、周囲のすべてを切り裂かんとする激しい風の嵐が吹き荒れた。
純粋な風の魔力が激しく唸りを上げ、ナッシュの放つ巨大な火の輪と激しくぶつかり合う。夜の静寂が、圧倒的な魔力の圧力に震え上がった。
アリアは座席の上で凍りついた。とめどなく涙が溢れ出てくる。彼女にはその風の意味が分かっていた。ヘンリーが仮面の下で解き放ったあの激昂は、決して焦りや動揺などではない。彼自身のプライドを、そして——彼女を守るための、絶対的な宣戦布告だったのだ。
夜の寂れた道、冷たい闇の中で、アリアはこれまで冷戦という名のプライドに覆い隠されていた一つの真実に気づかされた。
ヘンリーは、今でも彼女を深く案じてくれている。
名前を汚されたというだけで、彼は王国の二大勢力に数えられる大貴族に立ち向かい、自分たちの劇団の安全すら危険に晒したのだ。
胸の奥底から熱いものがこみ上げ、数週間にわたって自分で築き上げていた頑なな壁を綺麗に打ち砕いていく。ナッシュに対する恐怖は霧散し、その代わりに燃え盛るような新たな決意が宿った。
もう二度と、ヘンリーの背中に隠れているだけの弱い小鳥でいるつもりはない。あの「道化師」が自分の盾になってくれるのなら、今度は自分が彼の隣に立てるほどの鋭い剣にならなければならない。
だからこそ、あの日アリアは恥ずかしさをすべてかなぐり捨てて部屋の扉の前に張り付き、震える心を必死に抑え込んであの言葉を叫んだのだ。
——「私に、演技を教えて!」
壊れない仮面を纏う術を学びたい。自分のため、そして、嵐の中で密かに自分を守り続けてくれたあの人のために。
……
その頃、対峙の場を後にしたナッシュの馬車の中では、冷ややかな笑い声が静かに響いていた。
ナッシュ侯爵は背もたれに深く身を預け、定期的なリズムでステッキの先端を床に軽く叩いていた。衆目の前で見せた激昂など既に消え去り、そこにあったのは、格好の獲物を追い詰めたプレデターの満足げな眼差しだった。
「なるほど、あれが『演出家』か」
ナッシュは己の手のひらを眺めながら、不敵に呟いた。
「傲慢で、底が知れず、道化の仮面の下に牙を隠している。よろしい。少なくとも、あの潰しがいのある駒が退屈させられることはなさそうだ」
幕間「小鳥の瞳に映る守護者」をお読みいただきありがとうございます!
ヘンリーの背中を見て、アリアが心に秘めた決意を固めるエピソードでした。
ただ守られるだけの「小鳥」から、自ら剣を取って戦うことを選んだ彼女の成長と、ナッシュ侯爵側の冷酷な思惑の交錯はいかがでしたでしょうか?
裏で着々と進んでいく不穏な企みと、それぞれの想いを胸に動き出すキャラクターたち。
果たして、次に待ち受ける展開とは——!?
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それでは、第23話でお会いしましょう!




