[第22話:仮面を操る犬]
「こんばんは、ナッシュ侯爵様」
体の隅々の細胞が礼儀正しく振る舞うのを拒絶していたが、私はなるべく平坦な声で深々と頭を下げた。
かつてアリアが語っていた通り、外見の彼は至極まっとうな上流貴族そのものだった。体格は堂々としており、顔立ちの輪郭は鋭く凛々しいが、立ち振る舞いには優雅で洗練された気品が漂っている。王女様が毒気にやられてしまったのも無理はない——男としての魅力だけで言えば、それほどまでに強い存在感を放っていた。
「こんばんは、劇団主のヘンリー君」
柔らかく応答する声。それどころか、その声質には人々に深く潜む秘密を無意識に打ち明けさせてしまうような、不思議な心地よさすら含まれていた。
「私のような何者でもない者に、このような夜更けに何の御用でしょうか?」
ヘンリーとしての仮面の下に警戒心を隠しつつ、私は極めて自然な態度を装った。
「なあに、今夜の素晴らしかった公演に、一言賞賛を贈りたくてね」
そう答えながらも、彼の視線は私に向けられていなかった。鋭い眼光は私の背後——馬車の小窓から野生の勘を研ぎ澄ませてこちらを観察しているフェイへと一直線に向かっていた。
「良い『商品』を所有しているね。どうだろう、私に売ってくれないか?」
血液が逆流する感覚。商品? フェイをか?
私は口元だけに薄い笑みを浮かべた。冷徹なビジネススマイルだ。
「申し訳ございません、侯爵様。あちらの獣人の少女は我が劇団の重要な団員です。『商品』ではございませんので、お譲りすることは叶いません」
「そうか……」
彼の表情が一瞬で落胆の色へと変わる。実に大げさで白々しい芝居だ。
「ならば、また次の機会にするとしよう」
彼は踵を返し、自身の馬車へと戻ろうとした。しかし、数歩進んだところでボソリと呟いた——その一言が、私の脳内のスイッチを激しく押し込むこととなる。
「……ところで、私の『女』が君の元にいると聞いてね」
低く、しかし逆らいがたい威圧感を込めた囁き声。
「そろそろ会いに行こうかと思っているのだよ……あの田舎娘も混ぜて、三人で少しばかり『お戯れ』をするのも一興かもしれん」
私は役者だ。感情のコントロールこそが私の最大の専門分野であるはずだった。しかし、この借り物の若い肉体が持つ未熟なホルモンバランスのせいか、あるいはプライドを傷つけられたせいか——激しい怒りが抑えきれずに突き上げてきた。
「ええ……」
私は口元を大きく歪めて微笑んだ。しかし、両目からは一切の光が消えていた。
「アリアもきっと喜ぶでしょうね。侯爵様から『解放』されて、今どれほど幸せかを語りたがっていましたから」
「面白い」
ゴーッ!
一瞬にして周囲の気温が跳ね上がった。ナッシュ侯爵の足元の地面から巨大な業火が噴き出し、彼を包み込むように渦を巻く。やはりか。心理操作に長けているだけでなく、火魔法の使い手——宴会場のシャンデリアから炎を奪い取り、一瞬で消灯させた犯人はこいつだったのだ。
「あの無力な小鳥が『解放された』と? くくっ……」
ナッシュは周囲を囲む炎などただの装飾品であるかのように、冷静な手つきで眼鏡の光を直した。
「ならば、再び籠の中に引き戻すとしよう。永遠にな」
「やれるものなら、やってみろ」
挑発しながら地面を踏みつけ、彼の炎に匹敵する勢いで風のオーラを解放した。
私たちは互いの魔力を激しくぶつけ合い、睨み合った。私は相手の一挙一動を分析し、隙を探ろうと試みる。だが、心理操作に長けた百戦錬磨の大人だけあって、その表情には一片の揺らぎもなかった。むしろ、感情を乱されているのは私の方であり、ナッシュ——あの忌々しい男は、完璧にそれを見抜いている。
永遠にも思える静寂の後、私たちは同時に魔法を収めた。再び夜の静けさが周囲を支配する。一言も発することなく、侯爵は馬車へと戻り、闇の中へと消えていった。
振り向くと、ジャスミン伯爵家の給仕が目を丸くし、激しいショックを受けた様子で私を見つめていた。
「さっきの公演の仕掛けは全て魔導具だと思っていましたが、まさか……」
「伯爵夫人に報告するつもりだろう?」冷ややかに言葉を遮る。「好きにするといい」
実のところ、あえて風のオーラを解放したのは想定内のシナリオだった。給仕の前で真の力を誇示することで、私たちがただの旅芸人ではないと伯爵夫人に知らしめるためだ。ナッシュとの遭遇自体は偶然だったが、この程度のリスクは計算に入れてある。
馬車に乗り込むと、フェイが奇妙な視線を向けてきた。
「何だよ、人の顔をそんなに見て」
「アンタさ、さっきの度胸をあの『女』の前でも直接見せたらどうなのよ! こんなところでだけ格好つけたって意味ないじゃない!」
狐耳の少女が呆れたように声を荒らげる。
「フェイ、君は今何歳だ?」
「十五歳だけど、それが何か?」
「あと五年経てば、なぜ私がここでこう言ったのか分かるようになるさ」
「はいはい……」
フェイは興味を失ったように返事をした。「アンタだって大して歳変わらないくせに」と小声で呟くのが聞こえたが、私は無視することにした。
馬車は揺られ続け、やがて目的地の宿屋へと到着した。
「おかえりなさい、ヘンリー! フェイ!」
扉を開けると、リリィが出迎えてくれた。
「リリィ? まだ起きてたのか?」
私の声のトーンが、自然と柔らかくなる。
「うん! ヘンリーとフェイが帰ってくるの待ってたの! すごいでしょ?」
私は彼女の頭を撫で、「ああ、リリィが一番えらいよ」と答えた。リリィは無邪気に笑い、私とフェイの手を引いて暖かい宿の中へと連れ込んでくれた。先ほどの不穏な遭遇がもたらした暗雲から、私を救い出そうとしてくれているかのようだった。
客室の中では、セバスが給仕としての完璧な姿勢で佇んでいた。
「おかえりなさいませ、ヘンリー様」
絶対的な礼節を込めて挨拶される。
「セバス、なぜ君が部屋にいる? リリィに付き添っていなかったのか?」
問いかけつつも、答えは察していた。ただ揺さぶってみたかっただけだ。
「お嬢様は私の感知範囲内で安全に遊ばれておりました」
短く答えるセバス。この劇団の全員が知っている。彼が風魔法を応用して周囲の気配を察知していることを。その索敵能力は、私の持つ空間感知と極めて近い機能を果たしていた。
私は横を向いた。「フェイ、少しリリィに付き合ってあげてくれ。セバスと二人で話がある」
心底面倒くさそうな顔を浮かべて拒絶の意を示したフェイだったが、最終的には諦め、ハイテンションな幼い妖精に強引に部屋の外へと連れ出されていった。
これで、部屋には私とセバスだけが残された。正直なところ、私は己の胸のうちをべらべらと人に明かすタイプではない。しかし、今回のような複雑な状況においては、同じ「大人」としての視点と意見が喉から手が出るほど欲しかった。
私はジャスミン伯爵邸で起きた一連の出来事を、包み隠さずセバスに打ち明けた。霧の演出が成功したこと、暗闇の中で起きたジオ男爵夫人の殺害事件、そして誰もいない夜道で繰り広げられたナッシュ侯爵との冷徹な対峙まで。
「どうやら『ナッシュ』と呼ばれる王国の人間は、我々が考えていた以上に厄介な存在のようですね」
全てを聞き終えたセバスが、静かにコメントした。
「君もそう思うか?」
「この老体は、長きにわたり世の中の酸いも甘いも噛み分けてまいりました」この『老男』は続ける。「王国の政治的企みについては疎い身ですが……ヘンリー様のお話から察するに、あの侯爵という男は、手を汚すことなく人を殺められる冷血漢ですな」
ソシオパスか……あるいは高度なサイコパスというやつか。
「認めるのは癪だが、あいつは私以上に己の感情をコントロールし、隠すことに長けている」重い溜息をつく。「おそらく、先ほどのわずかな会話だけで、私の性格や行動パターンを分析し終えているはずだ」
「その可能性は高いでしょうな」セバスの表情が陰る。「これほど状況が逼迫しているとなると……アリア様とウェンディ様をお呼びして、対策を協議すべきでは?」
「そうした方が良さそうだ。二人の身の安全が本格的に心配になってきた」
「それならば、ちょうど良いタイミングですな」
セバスが突如として片手を上げ、扉に向かってパチンと指を鳴らした。
ガチャリ! 扉が勢いよく開く。
どすん!
「呼ぶまでもなく、お二人とも既にお越しだったようですな」セバスが淡々と呟く。
「あ……あははは……」
体勢を崩して床に尻餅をついたウェンディ義姉さんが、愛想笑いを浮かべていた。
そしてそのすぐ隣には、両手を床について土下座のような姿勢をとるアリアの姿があった。盗み聞きがバレた恥ずかしさで顔を真っ赤にし、必死に顔を伏せている。
しまった。ナッシュのことで頭がいっぱいになっていたせいで空間感知を切っており、この二人が最初から扉にへばりついて盗み聞きしていたことに全く気づけなかった。まあ、いい。どのみち、劇団の全員がこの脅威について知っておく必要があったのだから。
ウェンディ義姉さんがゆっくりと立ち上がった。その顔には隠しきれない不安の色が濃く刻まれている。
「ヘンリー……」
私は二人を見つめ、仮面の下で安らぎを与えるような薄い笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、義姉さん。全て上手くいきます。私が必ずそうしてみせますから」
アリアがゆっくりと顔を上げた。そのまま私を真っ直ぐに見つめ返してくる。その唇は微かに震えており、喉まで出かかった言葉の嵐を必死に抑え込んでいるかのようだった。
「あの……私……」
「アリア……ほら、ちゃんと言いなさい」
隣のウェンディ義姉さんが勇気づけるように、彼女の肩を優しく叩いた。
アリアは深く息を吸い込んだ。そして意を決したように口を開く。長い冷戦状態が続いていた私に対して、久しぶりの言葉を投げかけてきたのだ。
「お願い……私に、演技を教えて!」
耳まで真っ赤に染め上げながら、彼女は大声でそう叫んだ。
仮面の下で、私は思いがけず言葉を失った。驚きだ。
もちろん、私の頭の中の計画では、いつか彼女のような王女様にも「演技」を学ばせるつもりではあった。残酷な政治の世界で生き抜くために、感情を理解し、隠し、コントロールする術を知る必要があるからだ。しかし、彼女が自らの意思でそれを望むとは、しかもこのタイミングで頼んでくるとは思いもしなかった。
「実はね……私たち二人も、さっきの伯爵夫人のパーティーに行っていたの」
ウェンディ義姉さんの説明に、私は再び驚きで目を見開いた。
「到着が遅れちゃって、ちょうど魔王が倒されて灯りが消えた瞬間に会場に入ったのよ。そうしたら、宙に浮かぶ幻想的な光の球が見えて……明かりが戻ったとき、舞台の中央に凛と立つヘンリーの姿があったわ」
なるほど、合点がいった。あの時は空間の操作と群衆のコントロールに全神経を注ぎ込んでいたため、広間の隅にいた二人の気配に気づけなかったのだ。
待てよ。二人がジャスミン伯爵邸に来ていたということは、帰りの道中でまさか——
「公演が終わってすぐ急いで宿に戻ったから、途中で誰にも会わなかったわよ」
私の表情の微かな変化を読み取ったのか、ウェンディ義姉さんが慌てて補足した。
心の中でほっと胸を撫で下ろす。よかった、鉢合わせしなくて本当に幸いだった。だが、だからと言って今後の安全が保証されたわけではない。ナッシュの陰謀の歯車は、既に動き出しているのだから。
「分かりました」
私は腹を括り、アリアを力強く見つめた。
「君には特別に教えましょう、アリア……気高く、正しく、そして『致命的なまでに恐ろしい』貴族としての演技というものを」
今夜、私たちの間で謝罪の言葉は交わされなかった。涙も流さなかった。しかし、互いの視線を交わし合うだけで分かった。亀裂が入っていた私たちの関係は、再びしっかりと結ばれたのだ。私たちは、私たちなりのやり方で仲直りを果たした。
「それじゃあ……私はもう……寝る……」
突如として、意識が急降下した。
その言葉が口から漏れた後の記憶は一切ない。猛烈な眠気と過度の疲労が、まるで巨大なハンマーのように頭を殴りつけ、私の肉体を強制的に崩れ落ちさせ、深い眠りの闇へと引きずり込んでいった。
第22話をお読みいただきありがとうございます!
無事に宿屋へ戻ったものの、途中で遭遇したナッシュ侯爵との緊迫した心理戦&魔力戦!
ヘンリーの怒りと、冷血なナッシュの不気味な存在感が際立つ回となりました。
そして長らく「冷戦状態」だったアリアとの関係にも大きな変化が……!
自ら「演技を教えてほしい」と願ったアリアの決意と、ヘンリーとの独特な仲直り。
疲労困憊で倒れてしまったヘンリーですが、これからアリアへのスパルタ演技指導が始まるのでしょうか……!?
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