[第14話:月明かりの夜に(?)]
「ほら、あんたはあそこ」
アーリャが部屋の隅の床を指さした。
「いい? 指一本でも私のベッドに触れたら……」
彼女は親指を自分の首筋に当て、シャッと横に滑らせてみせた。物騒極まりない処刑のジェスチャーだ。
「はいはい、分かったから。……たく、我が姫殿下はお幾つになられたんでしょうかね?」
パカンッ!
直後、目にも留まらぬ速さで飛んできた枕が俺の顔面を直撃した。
俺は思わず体重の不都合な真実で言い返そうとしたが——ふと、違和感に気づいて言葉を呑み込んだ。
投げられた枕の威力が、いつもの彼女の獰猛さとは程遠いほどに弱かったのだ。まるで、全身の力が抜け落ちてしまったかのように。
顔を覆っていた枕を引き取り、胸に抱きかかえながら、俺はチラリと元・指揮官を伺った。
……まただ。目の前に、人生でめったに見られない激レアな光景が広がっていた。
王城の謁見の間で彼女が涙を流した姿は一度見たことがある。だが……今の姫殿下の纏う空気は、あの時とは全く違っていた。
一筋の涙が、アーリャの頬を静かに伝い落ちる。
その整った素顔は、虚無そのもののようにポカンと抜け落ちていた。城での涙とは違い、今の彼女は希望の全てを失ったかのように——文字通り、絶望の淵に沈んでいた。
元・演劇部員として、俺は人間の喜怒哀楽の表情とそれが紡ぐシナリオのパターンを無数に叩き込んできた。
本来なら、俺の脳内演算装置が即座に彼女の表情を分析し、最も効果的な台本を弾き出すはずだった。
だが……なぜだ。
俺の身体は、演劇のロジックを無視して勝手に動き出していた。
俺はアーリャとベッドの脇を通り過ぎ、窓際の椅子へと腰掛けた。抱きかかえた枕をきゅっと抱き直し、かつて幌馬車の荷台で披露した空間知覚の応用——微小微風を発動させる。
アーリャの周囲に、柔らかく暖かな風の揺らぎを作り出していく。少しでも彼女の緊張が解け、心地よい眠りに落ちてくれればという祈りを込めて。
風の揺らぎに気づいたのか、アーリャがゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳には、相変わらず光が宿っていない。
目の前でこれほどまでに脆い姿を見せつけられては、俺としても哀れみの色を隠しきれなかった。俺は慌てて窓の外へ視線を逸らした。彼女のようなタイプの人間が、人からの同情を最も嫌うことくらい痛いほど知っているからだ。
静寂が部屋を支配する。
俺はひたすら暖かな風の循環を維持し続けた。
静けさの中で、俺の思考はダリア伯爵が口にした『エルフの隠れ里』へと戻っていた。伯爵自身が極秘で訪れ、無事に帰還している以上、村そのものの治安は保たれているはずだ。だとすれば、この状況を複雑に絡ませている糸の結び目は——
「……ヴァイオレット侯爵、か」
頬杖をつき、窓の外の漆黒の夜空を見つめながら、俺は不意にその名を呟いていた。
「……二十歳よ」
ベッドの方から、消え入りそうな細い声が返ってきた。
俺は黙って耳を傾けた。アーリャが自分から言葉を紡ぎ出すのを待つことにしたのだ。
忍び寄るような足音が近づき、気づけばアーリャが俺の隣に立っていた。彼女もまた、虚ろな目で窓の外の闇を見つめている。
「さっき、私の年齢を聞いたでしょう? 二十歳よ」
アーリャは蚊の鳴くような声で続けた。
「軍に入隊して三年……理由はね」
そこでアーリャは一度言葉を切り、喉を詰まらせた。
「……あの、ヴァイオレット侯爵のせいよ」
普段は戦場で数百人を斬り伏せる冷酷無比な元・指揮官の背中が、今は激しく震えていた。
その震えとともに、彼女は己の人生のページにドス黒いトラウマを塗りたくった男の存在を語り始めた。
ナッシュ・フォン・ヴァイオレット。
現ヴァイオレット侯爵家の当主。内政と経済において規格外の才能を発揮し、ヴァイオレットの名を大陸全土に轟かせた傑物だ。今や辺境の隠れ里の住人であっても、その名を知らぬ者はいないとされる。
だが……それは表の顔に過ぎない。
侯爵ナッシュが純粋な経済学以上に精通し、ヴァイオレット家の威光を爆発的に高めた真の武器——それこそが感情の誘導、すなわち『心理学』だった。
恐怖に震える声を必死に抑えながらアーリャが明かした事実は……ナッシュがかつて、彼女の婚約者だったということだった。
「あの時、私は十五歳……社交界へのデビュタントのパーティだったわ。退屈な貴族の作法を必死に叩き込まれた成果を見せる日を、楽しみにしていたの……」
時折、しゃくりあげる声が混じる。
俺は即座に椅子から立ち上がり、彼女を椅子へと誘導して座らせた。せめてこの小さな気遣いが、彼女の心を少しでも落ち着かせることを願って。
アーリャは静かに息を整えると、言葉を紡いだ。
「パーティは順調だったわ。貴族たちが挨拶に来て、私は教わった通りのマナーで完璧に応対した……。でも、そこに『あの男』が現れたの」
続く言葉に、俺は信じられない思いで首を振った。
ただの『侯爵』に過ぎないナッシュが、あろうことか国王の娘である姫殿下へと突如求婚したのだ。
当然、父王は即座に一蹴した。しかし、ナッシュがどんな術を弄したのか、王妃が異様な執念でその求婚を後押しし、結果として婚約が成立してしまったという。
十五も年上の男と政略結婚を強いられた十五歳の姫殿下。
ファンタジー小説や歴史劇の世界において、年の差婚自体はそう珍しい話ではない。だが……俺の目の前で震える少女をここまで追い詰めたのは、そんな生易しいものではなかった。
「……最初のうち、婚約自体は至って普通に思えたわ」
俺が手渡した水を一口含み、アーリャの心がほんの少しだけ凪を取り戻す。
「でも、最初からお母様の様子はおかしかった……。私をあんな男に嫁がせようと、異常なまでに固執していたの」
アーリャは言葉を切り、空虚に窓の外を見つめた。
「違和感が確信に変わったのは、一年後よ。ヴァイオレット家の影響力は日に日に肥大化し、ナッシュが何を望んでも、全てが法のように聞き入れられるようになっていた……」
その先の展開は、俺の脳内でも概ね予測がついた。俺は口を挟まず、良き聞き手に徹することにした。
目の前の姫殿下は、ナッシュ・フォン・ヴァイオレットという男がいかに狂った怪物であったかを吐露していく。
婚約が結ばれて以降、ナッシュはアーリャの周囲のあらゆる環境を侵食し、王妃の意思すらも意のままに操り始めた。彼女を外界から隔離し、孤立させ、無力化し……気づいた時には、そのマインドコントロールによって彼なしでは思考すらできない状態へと追い込んでいったのだ。
一年間に及ぶ精神的監禁。
それに加え、地球の言葉で表現するならば——凄惨極まりない『DV』が伴っていた。しかもそれは単なる暴行ではなく、狂気のサイコパスによる精密な拷問だった。
ナッシュの手口は狡猾そのものだった。殴打する部位は必ず服で隠れる場所を選び、世間の疑惑を回避した。
暗闇の密室への数日間に及ぶ監禁、彼女が大切にしていた思い出の品々を目の前で踏みにじる精神的折檻。アーリャは心身ともに徹底的に破壊されたのだ。
「あの男が『怪物』だと気づいてから、私は密かに剣の稽古を始めたわ。……時には、それすらも見つかってお仕置きを受けたけれど」
膝の上で、アーリャの拳が白くなるほど強く握りしめられる。
「私の力では、あの男の毒牙から逃れられなかった。……でも、十七歳になった時、お父様が私をあの地獄から引きずり出し、軍へと逃がしてくれたの」
アーリャは深く息を吐き出し、胸の澱みを追い払うかのように肩を落とした。
「……あまりにも、大きすぎる代償を払ってね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に最初の出会いがフラッシュバックした。
本物の『ヘンリー』が死んだと知った時の彼女の取り乱し様、亡きヘンリーが自分の指揮官に向けていた尋常ならざる情愛……そして、謁見の間で俺が『風の魔法』を暴発させた直後、父王が異様なほどあっさりとアーリャの解任と同行を許可した理由。
……そうか。
あの国王は、娘を密かに俺へ託したのだ。ヴァイオレット侯爵の手が届かない場所へ逃がし、決着をつけるための鍵として。
娘を愛する父親であり、国の頂点に立つ王としての……実にしたたかで切実な策謀だったわけだ。
重苦しい沈黙が降り積もる中、俺は立ち上がった。
彼女の前に膝をつき、いまだ震えるその華奢な手を、優しく両手で包み込む。
「……姫殿下」
俺は静かに、けれど力強く語りかけた。
「約束する。俺は絶対に味方だ。あのクソ野郎をぶん殴る時は、俺も全力で手を貸す」
「……クソ野郎?」
すべてを吐き出し、へたり込んでいたアーリャが、妙な言葉に眉をひそめた。
「ああ。俺の世界で、心底ヘドが出るような非道な奴を罵る時の最高の言葉さ」
「クソ野郎……ふふ、いい響きね」
アーリャの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「よし! じゃあ寝よう! 重い話をしてエネルギーがすっからかんになった」
俺は軽口を叩いて空気を和らげようと立ち上がった。
「時にアーリャさん、俺もベッドで寝ていい?」
もちろん冗談だった。100%ジョークのつもりだったのだが……アーリャから返ってきたのは、俺の予測を遥かに超えるリアクションだった。
「……いいわよ」
蚊の羽音よりも小さな、微かな声だった。
一瞬にして、部屋の中に猛烈な気まずさが充満した。
だが、俺は図々しさを発揮して細かいことは気にしないことにした。重い甲冑を脱いでいたアーリャをベッドへと誘導し、その隣へと滑り込む。
……くそっ。心臓がうるさすぎて、今夜は一分も眠れそうにないぞ。
——そして案の定。
その夜、俺は一秒たりとも眠ることができなかった。
……ただし、緊張やラブコメ的な胸の高鳴りのせいでは断じてない。
「うぐっ……! お姫様の寝相、一回整備工場でオーバーホールしてもらった方がいいんじゃねぇか……!?」
寝返りを打つたびに容赦ないドロップキックが炸裂し、俺は何度もベッドからドサリと叩き落された。
最終的に腰の骨が悲鳴を上げたため、俺はロマンを諦め、おとなしく床の上で仰向けになって朝を待つことにしたのだった。
第14話をお読みいただき、ありがとうございます!
元・剣聖アーリャの口から明かされた、過去の壮絶なトラウマ……。
暗躍するヴァイオレット侯爵の影と、娘を託した父王の真意が繋がりました。
そして後半のベッドシーン!
いい雰囲気になるかと思いきや、まさかの「寝相が暴走トラック級」というオチでラドヤの腰が大惨事に(笑)。
「アーリャの過去が重くて引き込まれた!」「シリアスからの寝相オチのギャップで爆笑した」と思ってくださった方は、
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次回、第15話! 遂に城塞都市を出発し、新たな旅路へ!
更新をお楽しみに!




