[第13話:ダリア伯爵と、まさかの怪人物!?]
硝子が砕け散る光景なら、それこそ何度も目にしてきた。
テレビの画面越しで、劇場の舞台上で、あるいはエキストラとして出演していたまさに目の前で。
だが、それらの経験はこの土壇場において何一つとして役に立たなかった。
鋭利な破片が目の前を舞っているからではない。これが『現実』であり、台本の一部などではないからだ。
あの元・剣聖が、これほどまでに警戒を露わにして剣を構える姿を見るのは初めてだった。客室内の空気は一瞬にして冷え込む。
目の前に立つ黒装束の男はあまりにも危険すぎるらしい。数百人を斬り伏せてきたと噂される元・指揮官の額から、冷や汗が伝い落ちていた。
俺は最も rational な生存本能に従い、ベッドの裏側——正確にはアーリャの背中という絶対防御陣形へ即座に退避した。
「ヘンリー殿、ご無事ですか!?」
扉を蹴破らん勢いで、セバスが部屋へと飛び込んできた。だが侵入者の姿を目にした瞬間、このチート級長耳族ですら絶句し、速やかに戦闘態勢をとった。
黒装束の男は、ガラス片の渦の中で微動だにせず立っていた。
その双眸が、機械的に室内を走る。俺、アーリャ、セバス……そして再び俺へと視線が固定された。
「何者だ! 目的は何だ、誰の差し金だ!?」
アーリャが状況を優位に運ぶべく、威圧感を込めて問い詰める。
男は無言のままだ。ただ、一歩だけ前に足を踏み出した。
そのわずかな動きだけで、アーリャとセバスの間合いが限界まで緊張で張り詰める。指を一本鳴らしただけで、この宿屋を吹き飛ばすレベルの極上戦闘が勃発する勢いだ。
俺がパニックに陥り、風魔法でサポートすべきか本気で悩み始めたその時——黒装束の男が突如として天を仰いだ。
「ハハハハハハハハ! なるほど、そうだったのか!!」
雷鳴のような大爆笑が室内に響き渡り、時間をかけて築き上げられた緊張感の美学が見事に崩れ去った。
アーリャもセバスも開いた口が塞がらない様子で、この劇的な状況のディソナンスに目を白黒させている。
「いやあ……すまんすまん」
そう言った男の声は、思いのほか気さくな中年男性のものだった。
男は窓際に転がっていた椅子を起こすと、悪びれもせずどっかりと腰掛けた。
「我が領地で自由を叫び、反乱を扇動する野蛮人が現れたかと警戒したのだが……どうやら私の早とちりだったようだ」
男は頭巾を脱ぎ捨て、素顔を晒した。
「ダリア伯爵……」
アーリャの緊張が解けた。どうやら我が Princess は、この男を知っているらしい。
……ん? ダリア? 花の名前か?
「おや、若いの。困惑した顔をしているな」
伯爵は俺の複雑そうな表情を敏ざとく察知したようだ。
いや、無理もないだろう。俺の脳内データベースには『ダリア』なんて可愛らしい名を戴く筋骨隆々な伯爵など一例も存在しないのだから。
「ダリアというのは我が家名だ。この老いぼれ自身の名はマツダという」
伯爵——マツダはあっけらかんと続けた。
「……で、このような不躾な押し入り方をした理由だがね。敵の裏をかくなら窓から突入するのが手っ取り早いのだよ。改めよう、すまなかった。街の広場が突然暗転したという報告を受け、急行してみれば……君が運命への抗いと自由について熱弁を振るっているではないか。群衆を洗脳して反乱を起こす気かとヒヤヒヤしたぞ」
「ヘンリーが反乱など起こすはずがありません!」
アーリャが間髪入れずに前へ飛び出し、俺を庇った。
庇ってくれるのはありがたいんだが、姫殿下。万が一の予備プランとして『反乱』の選択肢は残しておきたかったんだが……。
「分かっているさ。姫殿下が共におられるのだ、反乱のわけがなかろう」
マツダ伯爵の視線が、未だ警戒を解かないセバスへと向けられた。
「それに……君のキャラバンには興味深い者が混じっているな。半長耳族……といったところか?」
……は? セバスってハーフエルフなの!? 純正エルフじゃないのか!?
言われてみれば確かに、セバスの耳はリリィのそれよりほんの少し短い気がする。
だが、この世界でエルフを見るのはこれが初めてなのだ。純血とハーフの違いなど見分けがつくわけがない。電子キーボードとパイプオルガンを初めて見た素人が「どっちもピアノだろ」と思うのと同じ理屈だ。
だが、今はそこが本質ではない。俺は速やかに視線をダリア伯爵へと戻した。
「あの……伯爵様。割れた窓ガラスの修理費はどうなるんでしょうか?」
これは極めて重要な問題だ。このエキセントリックなおじさんが壊した備品のために、貴重な旅の資金を削られるわけにはいかない。
「ああ、気にするな。この宿の主人とは顔馴染みでね。今夜私が出向くことは伝えてある」
伯爵は軽やかに手を振ってみせた。
よし、とりあえず俺の wallet は守られたようだ。階下の宿主に対して若干の裏切り感を覚えなくもないが。
「ガラスのことよりも……君たちは一体どういう集団なのだ?」
伯爵が核心に触れてきた。
そこから長い説明が始まった。
アーリャが部下を失い、職務を解かれ、俺の行商に同行するに至った経緯。実してセバスとリリィが最果ての隠れ里を目指していることまでを話した。
「ほう、あの隠れ里か……私も行ったことがあるぞ。極秘でな! ハハハハハ!」
伯爵の豪快な高笑いが響き、天井が落ちてこないかヒヤヒヤした。
「良い村だ。だが惜しいことに、あそこはヴァイオレット侯爵の管轄下にあってな」
また新しい大物の名前が出てきた。
隣を見ると、その名を聞いた瞬間にアーリャの表情がドス黒く曇っていた。どうやら我が Princess は、その侯爵と一波乱ありそうだ。
「さて、姫殿下とハーフエルフ殿の事情は分かった。次は君の番だ、無詠唱の魔法使いどの」
くそっ、やっぱりそれも気づかれていたか……。
「その顔を見るに、独学で覚えたてのようだな。ほんの一瞬だったが、広場の屋根の上から異質な魔力の揺らぎを感じたぞ。実に見事な技術だ……まるで王家に眠る隠れた才能のようではないか」
ダリア伯爵は思わせぶりに言葉を切り、俺から大きな秘密を引き出そうと揺さぶりをかけてきた。
しかし、彼の高い期待とは裏腹に、俺はバカみたいなポカン顔で黙り込むことしかできなかった。だって本当にこの世界の political な事情なんてさっぱり分からないのだ! (後から思えば、実に鋭い牽制だったのだが)
俺の手応えのない反応を見た伯爵は、不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
そして、実にスローなテンポで拍手を打った。
パチ……パチ……パチ……
そのまま身を翻すと、夜の闇の中へとおどり出て消え去ってしまった。
俺はハッと息を呑んだ。
……しまっ、今気づいたぞ! さっきの公演の最後に聞こえた、あの遠くからの不気味な拍手……このおじさんの拍手だったのか!!
「……えーっと、次はどうする?」
エキセントリックな伯爵が残していった気まずい静寂を破るべく、俺は声をかけた。
見回すと、セバスは依然として警戒を怠らず窓の外を監視している。
一方のアーリャは心ここにあらずといった様子で、ヴァイオレット侯爵の名を聞いて以来、深い思考の海に沈んでいた。
「状況は沈静化したようですな」
セバスが溜息をつき、構えを解いた。
「ヘンリー殿は私の部屋でお休みください。私は一階のロビーで警戒に当たります」
「いや、それはダメだろセバス」
俺は即座に反論した。
「お前はエルフ(ハーフだけど)だ。朝までロビーに突っ立ってたら目立ちすぎるし、変な噂が立つ」
「ならば、私はこの部屋の床に毛布を敷いて休みます。万が一の襲撃に備えて——」
「それもダメだ!」
俺は言葉を遮った。
「床には目に見えない微小なガラス片が散らばってる。明日怪我でもしたら大変だろ。明日からの旅でお前の体力は不可欠なんだ。俺が一階で寝るよ」
「しかし、ヘンリー殿——!」
「セバスは自分の部屋に戻りなさい」
アーリャの冷ややかな声が、俺たちの押し問答を断ち切った。
セバスと俺は思わず元・指揮官を振り返った。
しかし次の瞬間、彼女の口から飛び出した提案は、俺の耳の機能を疑わせるに十分なものだった。
「……ヘンリーは、今夜……私の部屋で寝なさい」
俺はパチパチと瞬きをした。
視線を落とすと、アーリャの顔は茹で上がったトマトのように真っ赤に染まっており、俺の視線を避けるように明後日の方向を向いていた。
こ、これって……俺の異世界ラブコメが、ついに回収される流れですか!?
元・演劇部員の妄想力がフルスロットルで加速し、甘酸っぱい緊張感に満ちた『一晩のシナリオ』を脳内で構築し始める。
だが——リアルの現実は、どんな創作物よりも冷酷だった。
「勘違いするんじゃないわよ、バカ!」
俺の不純な思考を読み取ったかのように、アーリャが毒づいた。
彼女は剣の先で、床の一線をシャッと指し示した。
「あんたは床。もしその線を越えて私のベッド側に一歩でも近づいたら……あんたの風魔法でも、その大事な急所を私の斬撃から守れないと思いなさい」
「……ッ」
俺は生唾を飲み込み、反射的に両脚をギュッと閉じた。
「じ、じゃあ俺、やっぱりセバスの部屋の床で寝るよ——」
シュバッ!
さっきまで床を指していた剣先が、一瞬で俺の鼻先の前に突きつけられた。
俺はコンマ一秒で両手を高く掲げ、前言を撤回した。
こうして、西方城塞都市の寒さ厳しい夜、我がキャラバンは花の名を持つ変人伯爵の奇行によって政治的危機を乗り切った(?)。
だが、アーリャの後を追って彼女の部屋へと足を踏み入れた時、俺は確信していた。
この先には二つの大きな試練が待っているのだと。
部屋の中で待ち受ける元・剣聖の冷たい剣刃と……俺たちの旅路を阻まんと影を落とす、ヴァイオレット侯爵という新たなる謎を。
第13話をお読みいただき、ありがとうございます!
刺客かと思われた黒装束の正体は、まさかの領主・ダリア伯爵!?
破天荒すぎる登場でしたが、裏ではラドヤの無詠唱魔法や『王家』との繋がりを鋭く見抜いていたようです……。
そして後半は、まさかのアーリャの部屋で同室お泊まりイベント発生!?
(ただし、一線を越えたら男の命が消し飛ぶ厳戒態勢です笑)
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次回、第14話! ヴァイオレット侯爵の影と、新たな旅立ち!
更新をお楽しみに!




