日航ジャンボが墜ちた夜
小学校3年生になってクラス替えがあった。
新しい担任の先生は飛行機が嫌いな人だったようで、
「あんな重いものが空を飛んでいるんだから、落ちるに決まっている」
と言っていた。小学生の私は、「そんなものかな」と思っていた。
まさかその年に、日本史上最悪の航空事故が起きるとは…。
昭和60年8月12日、母方の祖父母、父、母、私、妹の6人で伊豆へ行く予定がだった。きっかけは「温泉に行きたい」という祖母の願いだ。私と母と妹は先に鎌倉の祖父母宅に滞在し、そこから祖父の運転するクルマで伊豆に向かう。父は東京出張のあと直接合流する段取りだった。
ところが当日朝、妹が発熱。急遽予定を変更し、私と祖父だけが先行して伊豆へ向かい、残りの家族は様子を見て後から追いかけることになった。
当時の連絡手段は、今では想像もつかないほど限定的だ。携帯電話もインターネットもない。父は東京から新幹線で熱海へ、そこから伊東線に乗り換えて伊東駅へ降り立ち、タクシーでホテルへ向かったのだろう。祖父がフロントに、後から父が来る旨を伝えておいたのだろう。部屋の番号はフロントに尋ねたに違いない。今なら電話をもらって祖父が伊東駅まで迎えに行ったのだろうが、当時は出先同士では互いの居場所を知る術さえなかったのだ。
宿泊先はコンドミアムタイプのホテルだった。軍隊仕込みの祖父が作った夕食を終え、私はテレビで「クイズ100人に聞きました」を見ていた。番組の途中で父が到着し、テレビに背を向けてビールを飲み始めた。そのときだった。ニュース速報の音が流れた。
「日航123便墜落」
私の記憶では「墜落」の二文字が表示されていた。しかし、鎌倉で同じ番組を見ていた母の証言では「レーダーから消えた」だったという。ネット上で当時の映像を探しても、クイズ100人に聞きました」を録画したものは見つからず謎のままだ。当時の「クイズ100人に聞きました」の放映時間は19時20分から20時。番組を最初から見た訳ではないので、もしかしたら最初は「レーダーから消えた」と表示され、その後「墜落」のテロップが流れたのかもしれない。ネットで当時の映像を見ると、20時25分頃にはANNで「北相木村(これは誤報)に墜落したことが確認されました。」と報道しているので、一時的に誤報が流れたのかもしれない。GPSもない時代、情報は錯綜していた。
ビールを飲んでいた父が、音に反応して振り返った。その瞬間の父の表情を、私は一生忘れない。父はすぐにテレビの前へにじり寄り、チャンネルをNHKに変えた。子供がバラエティを見ていようがお構いなしだ。当時は「父親が見たい番組を家族全員で見る」のが当たり前であり、出先で情報を得る手段はテレビしかなかった。
「まずい……!」
父が声を絞り出した。同僚と二人で大阪から東京へ出張し、17時前に浜松町で別れたばかりだという。123便は羽田18時発。時間はあまりに合致していた。
後で聞いた話だが、父の会社は大混乱だったらしい。仕事は18時の便に乗れる時間に終わっている。自宅に電話しても、家族は伊豆と鎌倉に分散しており誰も出ない。緊急連絡先の父方の実家に連絡が行き、そこから鎌倉へと電話のバトンが繋がれた。皮肉なことに、妹の熱が功を奏した。本来なら無人のはずの鎌倉に母がいたため、父が123便に乗っていないことが確認されたのだ。当時は携帯電話で簡単に連絡が取れる時代ではない。帰省先を伝えておかなければ、行方不明扱いになってもおかしくなかった。母方の実家への帰省の日程も父方の実家に伝えてあったのか。結果的にその古い家族の繋がりが、安否確認を支えていた。私が幼い頃は父方、母方とも私が初孫だったので、長期休みにどちらに帰省するかは取り合いだったと聞く。もしかすると日程調整のために、母方の実家への帰省の日程も伝えてあったのかもしれない。前年に父方の叔父にも子ども(私にとって従兄弟)が生まれているので、この頃には父方での比重はかなり軽くなっていたはずなのだが。
一方の伊豆組。テレビはNHKでつけっぱなしにされた。父は何度も公衆電話へと向かった。
「まだ(同僚が家に)帰っていない」
そう言っては青い顔で戻り、画面を見つめ、また暗闇の中へ受話器を握りに行く。部屋に電話さえない時代、父は夜の闇に何度も消えていった。テレビの情報は、なかなか進展しなかった。早くから「墜落」を報じた民放に対し、NHKは断言を避けていたように思う。今でも当時の報道の一部がネット上にあるが、「同型機(B747-SR)」の画面ははっきりと覚えている。やがて家族が詰めかける大阪空港の様子になる。到着時刻が表示されている反転フラップ式案内表示機、通称パタパタの「123便 未定」がこの上なく不気味だった。
「あの人は運のいい人だからって言っていたらどうやら本当に乗っていたらしい。それで慌てて…。」
と言っている家族がいた。「あの人は運のいい人だから…。」我が家も一歩間違えればあちら側にいた。
父は本当に「運のいい人」だった。戦中、へその緒を首に巻いて生まれたが、当時珍しい病院出産だったため助かった。駿河湾で流され、山でビバークして捜索隊が出ても生還した。今回も東京出張だったが、たまたま祖父が伊豆に誘ったため難を逃れた。妹の発熱で伊豆行きが中止になってもおかしくなかったが、とりあえず行こうという話になった。阪神大震災の日は東京勤務で前日まで大阪にいたが東京に戻り、地下鉄サリン事件の日は通勤路線の日比谷線で被害が出たがたまたま大阪出張だった。死神に追いかけられながら、常に半歩先を逃げ続けているような人生。そんな人生を送った父だが、最後は認知症による誤嚥性肺炎であっけなく亡くなってしまった。
21時過ぎ、「燃料切れの時間です」という残酷な報道が流れ出した。「レーダーから消えた」「煙が上がったのを目撃した」という時点で墜落はほぼ間違いないのだが、どこかで「無事であって欲しい」「信じたくない」という願いがあったのだろう。相変わらず父は真っ暗な中、公衆電話に向かって出かけていき、そして「まだ帰っていない。」と帰ってくる。その日は結論も分からぬまま私は眠ってしまった。
朝、目が覚めるとすでにテレビがつけられていた。目に飛び込んだのは山中でバラバラになった機体。父に、
「同僚の人はどうだったの?」
と聞く。
「何も知らないで夜遅く帰ってきた。」
とのこと。当時、全日空も東京18時発大阪行の便(35便?)を飛ばしていた。お盆にそんなことあるか?と思うが、同僚の方が羽田空港に行くと、全日空の人が「こちらキャンセルありますよ。」と声をかけてきたらしい。そのまま全日空便に乗り、どこにも連絡せず何も知らずに帰宅したとのことだった。携帯電話も無い時代、移動中に惨事を知る由もない。私も後年、地下鉄サリン事件を知ったのは車内で他人が読んでいた夕刊だった。そういう時代だった。運良く身近に犠牲者は出なかった。
ホテルでの夏休みは、日航機一色の重苦しい時間になった。
当時の報道は、今では考えられないほど生々しい遺体の映像を流していた。気晴らしに行ったプールから戻ると、生存者発見のニュースが流れていた。ヘリで吊り上げられる少女の姿。しかも生存者が次々と増えていく。一時は生存者8人と報道された。しかしいつの間にか生存者の数は4人に確定した。8人という数字は何だったのか、今も謎のままだ。
結局、妹の熱は下がらず、母たちが伊豆に来ることはなかった。ホテルで日航機のニュースを見ているだけのお盆になった。その後しばらくは日航機の報道ばかりだった。祖父母が買ってきた週刊誌には、目を覆いたくなるような遺体の写真が白黒で掲載されていた。それが茶の間に普通に置かれ、CMが流れる。そんな時代だった。
死の淵から逃れた父は、その後も平然と飛行機に乗り続けた。
だが、私はダメだった。あの日以来、私の脳裏には「飛行機=墜ちるもの」という図式が刻み込まれた。目覚めた瞬間のテレビ画面。バラバラの機体。週刊誌の紙面。今でも私は飛行機に乗ることができない。




