あとがきにかえて
お読みいただきありがとうございました。
誰にも見られないまま連載を続け…と思っていたのですが、本日見たところ、2名の方がブックマーク登録をしてくださっていました。
そこで急遽、あとがきに代えて投稿させていただきます。
50歳になる前に、昭和から平成初期の意外な話題を、個人的体験や調査結果も含めて書いてみようと思いました。
簡単そうに思いましたが、意外と大変でした。まずはネタ探し。普通に昭和を生きてきた人間にとっては昭和の日常など意外でもないし、また逆に忘れてしまったことも多く、ネタ探しには苦労しました。
次に調査、インターネットに加えて、何人かの方には聞き取りを行いました。ちょっと説明がしつこくなった部分もありますが、歴史を書き残す意味も兼ねて、事実は年号も含めてしっかり書き残そうと思いました。
始めから20話完結と考えていましたが、3月頃は20話分のネタが思い浮かばず、苦しい思いをしました。
書こうと思いましたが書けなかったテーマもありました。せっかくですから書けなかったテーマと書けなかった理由を記しておきます。
半ドン
平成4年まで、学校は土曜日は半日授業でした。平成4年に月一回の土曜休みが始まりました。
土曜日は「半ドン」と呼ばれ午前授業…なんですが、じゃあ午後何をしていたかと言われると全く思い出せない。
学校で遊ぶ約束してそのまま遊びに行ける日なので重宝したはずなのですが、当時は当たり前だったので特に記憶に残っていないのです。
なお、社会人はこの「半ドン」を利用して、職場からバスなどチャーターして旅行会に行ったりもあったそうです。
週休二日と個人主義の浸透により、職場の旅行会という文化も消えていったのでしょうか?
足踏みミシン
私が小学校の頃は、ミシンと言えば足踏みミシンでした。自宅にも足踏みミシンがありました。
が、自分が使ったことはほとんど無い。
自転車と同じで、足で踏んだスピードで動くので、体の一部のように使えるのが利点でしたが…。
1話書くほどの話題がありませんでした。
家庭科は女子だけ必修
私の1つ下までは、中学・高校の家庭科は女子だけ必修。私も中学2年以降、家庭科の授業は受けていません。
ではその時間、男子は何をやっていたか?中学校は技術、高校は体育でした。
中学校の技術でやった電気などは、その後の生活でも役に立ったからいいものの、体育などはその後の人生にまるで必要なく、むしろ家庭科という生きる術を習わなかったのは大きなマイナスでした。
大学での一人暮らしでまず困りました。今から思えば男性の「生きる力」が軽視されていた時代でした。
オペレーター通話
電話局に交換手という人がいて、その人に電話番号を言って繋いでもらう電話。私が産まれた頃はまだ電話は全国自動化されておらず、交換手を通してでないとつなげない地域がありました。
が、一番の問題は自分が一度もオペレーター通話をしたことがないことが問題でした。
全国自動化は昭和53年、オペレーター通話は平成27年に終了しました。
500円札
私が子どもの頃は500円はお札でした。肖像画は岩倉具視。だから何?って感じですね。
ちなみに私は100円札も受け取ったことがあります。肖像画は板垣退助。明治41年創業の古い旅館でのことでした。
1000円札の肖像画は伊藤博文。当時は政治家の肖像画のお札がありましたが、政治家は人によって評価が分かれるということで、現在は政治家をお札の肖像画に使うことは無くなりました。
冷房車
昭和の時代、特急以外の列車は冷房が付いていないことが多かったのです。
留置線に止められていた列車が駅に入ってくると、まるで暖房されたかのような車内でした。
昭和の「映像」からは見えない意外な面ですね。
学校も冷房無し。自宅も冷房無し。あったとしても家族が集まる1部屋だけでした。
国鉄分割民営化後、冷房化率は急速に上がりましたが、多くは新車が入るのではなく改造車。その中で数字上の冷房化率を上げるためだけの「簡易冷房車」なるものが登場しました。
混んでいると冷房が効かない、停まってドアを開けていると冷房が効かないという代物。非冷房車なら窓を全開にすれば風が入ってきてそれなりに涼しいのですが、一応冷房車なので窓は開けられないという困りものでした。
窓が全開に出来たので窓からお弁当を買ったりも出来ましたが、同時に垂れ流し式のトイレもあった時代。これ以上は考えたくない。
書きたかったのですが、高校の電車通学していたときに非冷房車があったのかとか、全く覚えていない上、調べる余裕もなく断念しました。
一応、これをもって連載終了としますが、番外編を投稿するかもしれません。そのときはよろしくお願いします。
そのときはまたよろしくお願いします。




