第七話
ララを連れて家へ帰ってこられたのは、夕日が大分山の向こうへと隠れたころだった。
「ふぅ、疲れたぁ。トイフェル、お風呂を沸かしておいてくれる?その間に夜ご飯作っちゃうから」
「分かりました」
「ねぇナディー、私は?何かやることある?」
「そうねぇ……今日は沢山人にあって疲れたでしょう。ララはいったん、そこのソファでゆっくり休憩していて」
「トイフェルにはお仕事任せるのに?」
「慣れてない子にあれこれ任せるほど、私も鬼じゃないの。慣れてきたら色々お任せするから、今はゆっくり甘えなさいな」
そうナディーに宥められても、ララは不服そうな顔でその場に立っているだけだった。どうやら彼女は、『役に立ちたい』という欲求が強いらしい。
(どうしようかしらね、"人格混濁症"の事もあるからなるべく欲求は解消してあげたいけど、病人でもあるんだから休んでいて欲しいのだけども)
「じゃあララ、僕の仕事を手伝ってくれない?二人でやれば早く終わるし、その分君が使う部屋の掃除にも早く手を回せるようになるから」
困っていたナディーの視界の外から、風呂場に向ったはずのトイフェルの声が聞こえた。そちらを向けば、トイフェルは風呂掃除用の布と桶を持って立っていた。準備が早くていいことだ。あまりにも早すぎるから、もしかしたら魔法を使ったのかもしれないけれど。
「うーん……うん、手伝わせて。早くお仕事、覚えたいし」
「ならこっち来て」
少し悩みはしたものの、すっかりやる気に満ち溢れさせたララの手を引いて、トイフェルは風呂場へと向かっていく。二人のその姿はまるで兄妹のようで、ナディーは擽ったい気持ちを覚えた。
「このまま、仲良くなってくれるといいんだけど……」
(ララは、ダグルは父から与えられた名だと言っていた。と言うことは、彼女が名乗っているダグル・ララという名は偽名で、きっと本当の名前があるはず。……トイフェルのように)
目線を伏せる。遠い日々を懐かしむように、ナディーも、おそらくトイフェル自身でさえ知らない秘密に、思いを馳せるように。
ナディーはかつて、師匠に伝えられた『名の話』を思い出していた。
――――
ナディーがまだ16歳の高等教育学校一年生で、師匠が店先で幼児を拾ってから3日が経っていた。そんなある日の夕食での話だ。
柔らかく煮立てた小麦麺をお腹いっぱい食べて眠くなった幼児……トイフェルを寝かしつけたナディーは、師匠が用意してくれたパンとスープとサラダの夕食をゆっくりと味わっていた。
師匠は、トイフェルが食べきれなかった小麦麺をのんびりと堪能している。最近咀嚼力が弱くなってきたからこれくらいがちょうどいいと言っていたのは自虐なのか本音なのか、若いナディーにはまだ分からない。
「トイフェルはどの地区の子なんでしょう。お名前は分かってるから、地区さえ分かればすぐ見つけられるんですけどね」
「……ナディー。トイフェルはね、おそらく母御から偽名を与えられてこの地に置き去りにされた子供なんだよ」
「え?」
ぱちぱちとナディーは瞬きをして、目の前に座り小麦麺を堪能する師匠を見る。師匠はそんなナディーの様子を受け流して、小麦麺のスープを啜った。
身体に悪いのに、と、ナディーはぷくっと頬をふくらませる。この頃のナディーは買取屋になるための第一関門である医療魔法士の資格取得に向けて勉強に励んでいたから、塩分濃度が高く作られている小麦麺のスープを飲む事をあまり快く思っていなかったのだ。
そんな弟子の姿にくつくつと喉を鳴らし、師匠はティーカップに茶を注ぐ。渋みの中にフルーティーな香りがはじける、大人が好む熟成茶だ。
「なんでそんなことが分かるんですか?師匠がトイフェルを見つけたときには、もうその場にはトイフェルしかいなかったんですよね?」
「ナディーは、トイフェルの姓を覚えているかい」
「えっと、確か……ローズウッド、ですよね。トイフェル・ローズウッド。トイフェルが着ていたお洋服にそう書いてあったって、師匠があの子を拾った日に言ってらしたわ」
「そうだ。あの子の名は、トイフェル・ローズウッドと言う。おそらくあの子がその名を付けられたのは、この地に置き去りにされる数日前の事だろう」
「仮に師匠の仰ることが本当だったとして、どうしてその偽名をあの子に与えたのがトイフェルの本当のお母さんだって、師匠はわかるんですか?」
「ローズウッドという姓は、帝国アヴニールには存在しないからだよ。その名は、我らが隣国のヘレ王国にかつて君臨していた尊きお方のお名前だ。どうして偽名をあたえたのが母御かと分かったのかといえば、記名の字のクセを見たからだな」
「字?」
きょとんとした顔で、ナディーは師匠に問うた。師匠は湯呑みを丁寧に置いて、机の上で両手を組む。師匠が真面目な話をするときの体勢だった。ナディーは慌ててフォークをおいて居住まいを正す。
真面目な話は、真面目に聞くこと。
師匠とナディーの約束事の一つだった。
「女人の字というのは、男のものに比べて線が細く柔らかい事が多い。男でそんな字をかける者も最近でこそ増えているが、その子らはまだトイフェルほどの子供を作れる年じゃない。ナディーよりもずっと年下の、それこそまだ子供と読んで差し支えのない年齢の子らばかりだ」
「師匠が勤められている初等教育学校の子らくらいですか?」
「そうだ」
間髪入れずの肯定に、ナディーは思わず面食らう。そこまで即答するほど、今の子どもたちは特徴的な字をしているのだろうか。周りにいる男性のクラスメイトは皆キビキビとした字を書くから、どうにも想像がしにくかった。
「確かにそれは早いですけど……」
「それから、ローズウッドという姓……この姓は、帝国アヴニールに住む者ならば選ばない姓だ。なぜだか分かるかい」
「何故、ですか?えっと……」
口頭試問のようだ。分からないと答えたくなるのを堪えて、ナディーは必死に脳内の知識箱を漁る。師匠の問い方から考えると、理由は帝国アヴニールが歩んできた歴史にあるはずだ。
ぐるぐると思考の海を漂っていた中で、ふと思い出した記述をたどる。そして、ナディーは正解へとたどり着いた。
「……あっ!エフィアイテ・ローズウッド!長い歴史の中で唯一アヴニールを追い込んだ、ヘレ王国の王弟将軍!」
「そうだ。かつての敵の名を、帝国アヴニールに住まう者が子につけるはずはないだろう?」
「トイフェルのお母さんがトイフェルを恨んでいたからとは考えられないんでしょうか」
「だとしても、悪夢とつけるほうが多いだろうて」
バッサリと否定されて、ナディーは思わず落ち込んだ。しゅん、と肩を落とす弟子の姿を、師匠は面白いものを見るかのような目で眺めている。
「ナディー、お前も私に言われるまでエフィアイテのことを忘れていただろう。彼は所業こそ有名だが、この国ではあまり名を知られていない」
「……確かに、そうかもしれませんね。すみません、軽率でした」
「何、そう気を落とすこともない。歴史をこうした知識に結びつけることは中々しない事だ、今のお前がそこに至らぬのも無理はない」
老獪に、師匠は笑っていた。ナディーはそこで改めて、この人には一生叶わないのだと悟ったのだ。
――――
「……あぁ、いけない。記憶に耽りすぎていたわ」
食事の支度の手が止まっていたことに気がついて、ナディーは慌てて食材を切り始める。今日は、トイフェルの好物である甘辛野菜炒めのせ煮込み麺だ。
(ララの口に合うといいんだけど……でもまぁ今日はトイフェルの初仕事記念だからね。ララが好きなものは、また明日から作ればいい)
風呂場の方から、トイフェルとララの声がする。心なしか、二人とも少し強めの声だ。
トイフェルは穏やかだがこだわりが強いから、掃除の方法を巡って何か衝突でもしているのだろうか。
喧嘩しないで仲良くしてほしいなぁなんて思いつつ、ナディーは切った野菜を鍋へと放り込んだ。




