第8話 勝率一〇〇%の予測者(前)
「相馬美琴の息子を、玲奈が選んだか」
九条宗一郎は、母の名を口にしても表情を変えなかった。僕の方が、変わったのだと思う。
手にしていた契約書の端が、指の中で小さく鳴った。
「母を知っているんですか」
「研究者としてね」
「どんな研究です」
「《ミラー》の基礎理論だ。彼女は優秀だった」
過去形だった。
「母が、どうして死んだかも知っていますか」
玲奈が僕を見た。止めはしなかった。
宗一郎は、すぐには答えなかった。その沈黙を迷いと呼ぶには、彼の顔は整いすぎている。
「君は、鳳凰院へ答えを探しに来たのだろう」
「質問へ質問で返さないでください」
「答えは順序を誤ると、人を傷つける」
「順序を決めるのは、あなたですか」
宗一郎の目が、わずかに細くなった。
「美琴によく似た質問をする」
「答えていません」
「今は、答えない」
拒絶を、配慮の形へ整えた言い方だった。宗一郎は僕から視線を外し、玲奈へ向き直る。
「王冠戦への参加申請は受理する」
「保留にすると、先ほど」
「君が自分で決めたと言ったからだ。ただし、医療室の指示には従いなさい。旧棟での面談は禁止。相馬くんとの活動時間は、一日二時間まで」
「活動内容まで管理される理由はありません」
「体調管理だ」
「私は競技者です」
「その前に、私の娘だ」
声は穏やかだった。怒鳴りもしない。脅しもしない。
玲奈の左目が赤いことに誰より早く気づき、薬を持ち歩き、服薬時刻まで覚えている父親の声だった。だからこそ、玲奈は言い返すのに時間がかかった。
「……二時間を超える場合は、私から医療室へ申請します」
「合理的だ」
宗一郎は満足そうに頷いた。玲奈が自分で条件を選び直したように見える。
でも最初に「活動を制限する」という枠を置いたのは宗一郎だ。転入初日の対局で、僕が玲奈へ使ったのとよく似た方法だった。
扉へ向かいかけた宗一郎が、もう一度だけ僕を見る。
「王冠戦では、良い質問を期待している」
「僕の質問を知っているんですか」
「これから知る」
意味を聞く前に、扉は閉じた。
* * *
王冠戦は、一度負ければ終わるトーナメントではなかった。選抜された八組が、それぞれ四つの指定対局を行う。
三勝すれば最終選抜へ進出。二敗した時点で脱落。
各対局のルールは通常の《クエスチョン》と同じ。一問。
はいか、いいえ。真実か、嘘。
余計な特別ルールはない。
「一勝だけなら、まぐれでも取れます」
王冠戦受付でそう説明したのは、白鳥凛という生徒だった。生徒会書記。
同時に、生徒会副会長・神代司の記録係。肩のあたりで跳ねる明るい色の髪と、初対面の距離を一秒で消す笑顔。胸元の書記章には、小さな鳥の落書きシールが貼られている。
「でも三勝するには、違う種類の相手を読まないといけません。だから王冠戦は、選手より記録係の品評会って言われるんです」
「本人を前にして品評会と言わないでください」
「ごめんね。褒めてるんだよ?」
「どの部分がです」
「玲奈ちゃんが、ちゃんと面倒そうな人を選んだところ」
玲奈が申請端末から顔を上げる。
「凛。私を愛称で呼ぶ許可を出した覚えはありません」
「三年前から呼んでるけど、一度も正式に拒否申請されてないよ」
「口頭で拒否しています」
「記録がないので無効です」
この学園に長くいると、雑談まで規約になるらしい。凛は笑いながら、僕たちの初戦票を端末へ送った。
表示された名前を見て、受付周辺の空気が変わる。王冠戦・第一指定対局。
九条玲奈 対 桐生蓮。
桐生蓮。一年生。
公式対局二十九戦、二十九勝。勝率、一〇〇%。
「初戦としては重すぎませんか」
僕が言うと、凛は困ったように笑った。
「抽選だからね」
「抽選記録を見せてください」
「疑い深いなあ」
「この学園へ来て四日で、事前登録、生活管理、理事長権限の閲覧まで見ました」
「納得できる成長速度だね」
凛は抽選ログを開いた。乱数生成時刻、立会人、固定後の改変履歴。見える範囲に不正はない。
ただ、抽選時刻が端末の現在時刻より一分遅れていた。表示の誤差だと思った。
その時は。
「桐生くんは、記録係を置かないのですか」
玲奈が尋ねる。
「置かない。必要ないって」
「質問を作る人間がいない」
「本人が全部やるよ。というより――」
凛は声を少し落とした。
「質問を聞く前から、相手が何を聞くか分かるんだって」
* * *
合同校正は、対局前日の放課後に行われた。王冠戦では、回答者と質問者の生体値を同じ環境で更新する。
照明、温度、端末遅延に差がないことを確認し、当日の《ミラー》判定へ異議が出ないようにするためだ。第二校正室へ入った時、桐生蓮はすでに席についていた。
白に近い灰色の髪。細い体。
年下に見えるというより、年齢を示す部分が抜け落ちているような顔だった。机の上には、同じ銘柄の無糖炭酸水が一本。
未開封。
「相馬零司さん」
蓮は僕を見た。
「質問の前に一度、目を閉じる人」
右手が、無意識にカードの束を押さえた。
「公開映像を見たんですか」
「全て」
「二試合しかありません」
「十分です」
蓮は、僕の手元を見ていない。それなのに言った。
「一枚目は、僕が予測を外したことがあるか。二枚目は、僕が負けることを恐れているか。三枚目は、僕が自分の勝率を誇りに思っているか」
机の下で、指が止まる。蓮の背後にある校正用モニターが切り替わった。
第一候補――予測精度について。三四・八%。第二候補――敗北への恐怖について。二八・一%。
第三候補――優越感について。二一・七%。その他――一五・四%。
さらに、その下へ別の数字が並ぶ。九条玲奈が第一候補を採用する確率、七・二%。
第二候補を破棄する確率、六八・四%。記録係の提案を全て捨て、自分で質問を作る確率、一九・三%。
僕たちのカードだけではない。玲奈がカードをどう扱うかまで、盤面の一部にされている。
三枚とも、僕がさっき書いた質問だった。一枚目。
――あなたは、公式対局で回答を予測できなかったことがありますか。
二枚目。
――あなたは、勝率一〇〇%を失うことを恐れていますか。
三枚目。
――あなたは、自分が他の生徒より優れていると信じていますか。
文言は少し違う。狙いは同じだった。
「凛から聞きましたか」
「白鳥先輩とは、今日は話していません」
「カードは誰にも見せていない」
「質問は、書く前からあなたの中にありました」
蓮は平坦に答える。
「あなたは過去記録、立場、失いたくないものから、回答の偏りを作る。僕の公開記録から目につくのは、予測精度、無敗、優越。この三つです」
「候補は他にもあります」
「あります。でも、あなたは質問を一度カードへ書き、弱い順に左から並べる」
僕は三枚を重ねた。左から、今言われた順だった。
「九条先輩は二枚目を捨てます」
玲奈の眉が動く。
「理由を聞いても?」
「恐怖は、本人が自覚していなければ判定できない。あなたは幸福を問われた対局で、その危険を学んだ」
玲奈は二枚目へ手を伸ばした。途中で止める。
蓮が初めて、わずかに首を傾けた。
「捨てないのですか」
「あなたの予測どおりに捨てる理由がありません」
「では残しますか」
「それも、あなたの予測へ反応した選択です」
玲奈は三枚全部を裏返した。
「今は選びません」
蓮は一秒だけ黙った。
「予測を保留させる行動ですね」
「何でも予測へ変換するのですね」
「人は、理由なしには動きません」
「理由が分からないことは?」
「情報不足です」
「間違いとは考えない?」
「予測誤差と呼びます」
玲奈の指が、裏返した三枚のカードの上で止まる。僕も同じことを考えていた。
この少年は、言葉を変えることで負けを消している。予測できないものはない。
情報が足りないだけ。間違いではない。
誤差である。宗一郎とよく似た言い方だった。
校正技師が入室し、検査が始まる。蓮は指示された質問へ、一定の間隔で答えた。
「あなたは、今日の朝食を食べましたか」
「はい」
「あなたは、今この部屋を寒いと感じていますか」
「いいえ」
「あなたは、勝負に緊張していますか」
「いいえ」
答えるまで、全て一・二秒。声量も同じ。
脈拍もほとんど変わらない。校正というより、機械の動作確認に見えた。
最後の質問だけ、技師ではなく自動端末が読み上げた。
『あなたには、個人的な好みがありますか』
「いいえ」
やはり一・二秒。《ミラー》はTRUEを出した。
蓮は、本気でそう信じている。




