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第7話 私が選ぶ質問(後)

 公開仲裁戦の会場は、講堂ではなく円形競技室だった。中央に《ミラー》。その左右へ玲奈と久我が座る。


 僕は玲奈の後方、透明な遮音壁の内側にいる。記録係は、開始前にカードを一枚渡せる。


 開始後は発言できない。声を出せば、その場で失格だ。


 玲奈が封筒を開く。質問を読む。


 眉も、唇も動かない。ただ、カードを持つ指が止まった。


 視線が、観客席の最前列へ向く。紬がいる。


 両膝の上で、手を固く組んでいる。玲奈はカードを裏返した。


 机へ伏せる。使わない。


 胸の奥が熱くなる。僕は三時間かけて記録を集めた。


 曖昧な言葉を排し、久我がどちらを答えても不利になる質問を作った。勝てる。


 それを、玲奈は一秒で捨てた。


「質問登録まで、一分」


 審判の声。僕は遮音壁へ手を置く。


 話せない。規則だからではない。


 玲奈が捨てる権利を、昨日僕自身が読んだ。それでも腹が立つ。


 正しいと思った質問を否定されたことが、思っていたより悔しい。玲奈は新しいカードを取る。


 何も書かれていない。残り四十秒。


 久我が笑う。


「女王も、奨学生の家庭事情までは口にできないか」


 玲奈のペン先が止まる。今の一言で、久我は僕の質問内容を察した。


 そして、自分が守られたと思った。金銭の話へ戻れば、彼は逃げられる。


 借金だった。規約違反を指導しただけだ。


 本人のためだった。自分が信じられる言い換えはいくらでもある。


 では、何を問う。僕なら――。


 そこで考えるのを止めた。これは玲奈の一問だ。


「登録します」


 玲奈がカードを審判へ渡した。質問文が、円形モニターへ映る。


 僕は息を止める。彼女は、紬の秘密を一文字も使っていない。


「質問します」


 玲奈は久我へ向き直る。


「あなたは、金を返させることより、彼女があなたを怖がり続けることを望んでいますか」


 観客席のざわめきが、すぐには起きなかった。誰もが質問を理解するまで、一拍かかった。


 僕は三つの記録を思い返す。一括返済を拒否した。


 対面での受け渡しに固執した。返済後も要求を続けた。


 金が目的なら、どれも不合理だ。恐怖が目的なら、全部が一つにつながる。


 ただし、最後の穴がある。久我自身が、それを欲望として認めているか。


 本人が「教育のため」「秩序のため」と信じ切っていれば、「いいえ」はTRUEになる。玲奈は、そこへ賭けた。


 久我の顔から笑みが消える。残り二十七秒。


「くだらない」


 条件追加は認められない。審判が無言でタイマーを示す。


 久我は舌打ちし、観客席を見た。ここで「はい」と答えれば、自分が金ではなく恐怖を楽しんでいたと全校へ認める。


 それは選べない。だが「いいえ」と答えれば、自分の中で分かっている欲望を否定することになる。


 彼の右手が、椅子の肘掛けを握る。


「いいえ」


 声が少し上ずった。微表情は証拠にならない。


 玲奈も、そこを見ていない。彼女が見ているのは、一括返済を拒んだ記録だ。


「宣言を」

「嘘です」


 《ミラー》に光が走る。久我が息を吸った。


 判定。LIE。


 会場の音が、一度消えた。次の瞬間、最前列で紬が口元を押さえた。


 歓声ではない。泣き声を外へ出さないために。


 久我から朝倉紬へ、一六〇〇Qの返還。接触禁止命令。


 奨学契約紛争の再審査。処理結果がモニターへ並ぶ。


 弟の病気も、規約違反も、どこにも表示されない。紬が立ち上がる。


 玲奈へ頭を下げようとして、途中で止まった。


「私、使っていいって言いました」

「ええ」

「なのに、どうして」

「あなたが使ってほしかったからではなく、使わなければ勝てないと思ったからでしょう」


 紬の目から、ようやく涙が落ちる。


「勝つ方法が他にあったので、使いませんでした」


 玲奈は、救ったとも守ったとも言わない。紬が差し出した情報を、紬へ返しただけだ。


 僕の質問なら、もっと確実だった。玲奈の質問でなければ、守れなかったものがある。


 その二つは、同時に真実だった。


* * *


「僕の質問なら、もっと確実でした」


 会場を出てすぐ、僕は言った。玲奈は足を止める。


 紬は支援担当教員と別室へ向かった。周囲に生徒はいない。


「ええ」


 玲奈は否定しなかった。


「久我が自己正当化していたら、あなたの質問はTRUEでした」

「その可能性はありました」

「なら、なぜ」

「私が選びたくなかったからです」

「勝負ですよ」

「知っています」

「負ければ、朝倉さんへの要求は続いた」

「だから考えました」

「僕の案を使えば考える必要はなかった」


 言い切った声が、自分でも幼く聞こえた。玲奈は僕を責めない。


 伏せたカードを鞄から取り出す。僕の質問が、彼女の指の間にある。


「正しいから捨てたのではありません」


 紙が半分だけ曲がる。


「あなたの質問は、たぶん最も確実でした。だからこそ、私は選びませんでした。朝倉さんが差し出したくない事実まで、勝利のために公開する質問だったからです」

「本人は、必要なら使っていいと言った」

「必要だと言ったのは、誰ですか」


 答えられない。僕だ。


 勝つために必要だと、僕が判断した。紬はその判断へ従っただけだ。


「記録係は提案する。選手は選ぶ」


 玲奈が契約端末を開く。昨日まで空白だった第一条へ、その文を入力した。


「これを正式契約の最初の条文にします」

「僕が納得していないと言ったら?」

「条件を書き換えてください。契約ですから」


 端末と電子ペンが差し出される。僕は文章を読む。


 記録係は提案する。選手は選ぶ。


 正しい。それでも、悔しさは消えない。


 自分の質問が使われなかったことを、理屈だけで納得できるほど僕は整っていなかった。その感情を消す代わりに、第二文を加える。


 ――選手は、採用しなかった理由を対局後に記録係へ説明する。


 玲奈が読む。


「必要ですか」

「僕が腹を立てたままになるので」


 口にしてから、取り消したくなった。玲奈の指が、端末の承認欄で止まる。


「では、必要ですね」


 彼女は笑わない。ただ、承認印を押す音が少しだけ軽かった。


 僕も署名する。相馬零司。


 自分の名前を書いた直後、手の震えに気づいた。専属記録係になると、自分で決めた。


 誰かに期待されたからではない。玲奈の質問が正しいと思ったからでもない。


 僕の質問を捨てた彼女と、もう一度勝負をしたい。その理由を、まだうまく言葉にできないだけだ。


「王冠戦へ出ます」


 僕は言う。玲奈が端末から目を上げた。


「あなたのためではありません」

「聞いていません」

「監査請求権が必要だからです」

「それも聞いています」

「僕が、確かめたい」


 自分を主語にした途端、喉が狭くなる。


「母と、この学園が何を作ったのか」


 玲奈は数秒、何も言わなかった。やがて、契約端末を閉じる。


「承知しました、相馬記録係」


 玲奈が鞄へ端末をしまう。開いた口の内側に、灰色の猫が見えた。


 外へ飾ってはいない。それでも捨てず、持ち歩いている。


「何ですか」

「いえ」

「今、鞄の中を見ましたね」

「契約上、選手の携行品は記録係の確認対象です」

「猫は対局資料ではありません」

「好きなんですか」

「一問だけではなかったのですか」


 同じ逃げ方をしたので、僕も追及しなかった。


* * *


 正式契約の報告は、理事長室で行われた。宗一郎は書類より先に玲奈の手首を見た。


「発赤がある」

「会場の装花です。症状は軽微です」


 宗一郎は机の引き出しから、小さな薬包と未開封の水を出す。薬包には玲奈の名、服用量、時刻が印字されている。


「一錠。十分後に呼吸状態を送信しなさい。今日の夕食は寮ではなく本邸で取る。十九時に車を回す」

「今日は記録の整理が」

「十八時四十分までで十分だ。相馬くんとの面会は一日三十分以内。今週の対局準備は二十二時まで。睡眠時間は削らないこと」


 薬を差し出す手は、娘の体調を本気で案じている。予定を告げる声には、娘の希望が入る余地がない。


 玲奈は薬を受け取る。


「父上。王冠戦へ出場します」

「必要な資格は満たしたのか」

「本日の勝利で」

「ならば出なさい。監査請求権は、制度が正しく機能していることを証明するためにも必要だ」


 反対しない。玲奈が父へ挑むことまで、制度の中へ置き直す。


 宗一郎の視線が、僕たちの契約端末へ移る。


「第一条を変更したのか」

「はい。私が選びました」


 玲奈は、はっきりと言った。宗一郎の指が、机の上で止まる。


 ほんの一秒。すぐに、平静な父親の顔へ戻った。


「選択には、結果が伴う」

「承知しています」

「相馬くん」


 呼ばれ、僕は顔を上げる。


「君は玲奈へ質問を与えるつもりか」

「提案します。選ぶのは彼女です」

「美琴も、最後まで同じことを言っていた」


 また、母の名前。


「母に何があったんですか」


 宗一郎は答えない。代わりに、玲奈が署名した契約書を長く見た。


 その目にあるのが警戒か、懐旧か、恐怖か。今の僕には読めない。


 宗一郎は、ほとんど独り言のように呟いた。


「玲奈が、相馬美琴の息子を選んだか」


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