第5話 嘘より厄介な真実(後)
僕は資料室へ戻り、鞄の底から古いカードケースを出した。角が擦れ、透明だった表面は白く濁っている。
中に入っているのは、母が使っていた研究用の索引カードだ。母の死後、処分できずに持ち歩いているだけで、内容を読み返すことはほとんどなかった。
質問と回答に関する短いメモ。言葉は感情を生まない。感情が言葉の意味を選ぶ。
事実を誤認していても、本人が真実として保持する認識は、本人にとって真実。最後の一行で、指が止まる。
《ミラー》試作二号、自己認識固定の誤差〇・八%。英字表記は古い。
けれど、装置名は同じだった。
「母さんが、作ったのか」
呟いた声に返事はない。カードの裏には、薄い鉛筆で別の文が残っていた。
――答えを知ってから、質問を作らないこと。
今日の僕は、逆をした。玲奈が不幸だという答えを作り、その答えを引き出す質問を選んだ。
本人が真実だと思っているなら、それは《ミラー》にとって真実になる。僕の推理が正しくても。
彼女の人生が客観的に管理されていても。玲奈が自分を幸せだと信じている限り、TRUEだ。
嘘より厄介だ。嘘なら、本人も嘘だと知っている。
信じている真実は、外から否定しても届かない。資料室の扉が開いた。
玲奈かと思ったが、入ってきたのは黒いスーツの女性だった。
「相馬零司さん。九条理事長がお呼びです」
* * *
理事長室は、学園でいちばん高い場所にある。壁一面の窓から、校舎も寮も競技棟も見下ろせた。
中央の机に座る男は、その景色を一度も見ない。九条宗一郎。
玲奈の父であり、鳳凰院学園理事長。四十五歳と聞いていたが、銀の混じった髪と細い眼鏡のせいで年齢が読みづらい。
室内には玲奈もいた。宗一郎は僕に挨拶をせず、卓上モニターへ表示された玲奈の計測値を見ている。
「校正対局後、心拍が平常値より十四高い」
「現在は戻っています」
「胸部圧迫感は」
「ありません」
「頭痛」
「ありません」
「午後の運動実技は欠席しなさい。十八時まで競技対策も中止。水分を四百ミリリットル以上」
「必要ありません」
「必要かどうかは、体調記録が決める」
宗一郎は、玲奈の顔を見ている。心配しているのは演技ではない。
声の低さにも、モニターへ置いた手にも、娘の異変を見逃すまいとする緊張がある。なのに、玲奈がどうしたいかは一度も聞かない。
宗一郎はようやく僕へ視線を向けた。
「君が、玲奈の仮記録係か」
「一試合だけです」
「期間は重要ではない。玲奈が自分から選んだ事実が重要だ」
「僕は選ばれた理由を、まだ知りません」
「知らなくていい」
断定に、迷いがない。
「人は必要な情報だけを与えられた時、最も安全に判断できる」
机の端には、玲奈用の茶が置かれている。香りの弱い白湯に近いもの。温度表示は四十二度。
宗一郎は娘が猫舌かどうかではなく、粘膜へ負担をかけない温度を知っているのだろう。
「玲奈は、あの生活を幸福だと答えました」
「当然だ」
「本人がそう信じるように、答えを先に置いたからでは?」
「正しい環境が正しい認識を作る。逆ではない」
「それは判断ですか」
玲奈がわずかに息を止める。宗一郎は怒らなかった。
むしろ、机の端にある僕のカードケースを見た。濁った透明板の向こうに、母の筆跡が透けている。
「その癖まで、美琴に似たか」
「癖?」
「自分の誤りを見つけると、答えより先に古い記録へ戻る。美琴もそうだった」
母を知っているだけではない。仕事上の経歴では分からない癖まで覚えている。
背中が冷える。
「母を知っているんですか」
宗一郎は質問へ答えない。玲奈の心拍グラフを閉じ、静かに言った。
「相馬美琴の息子でも、玲奈の答えまでは読めないか」




