第4話 嘘より厄介な真実(前)
九条玲奈の一日は、本人が教室へ着く前に完成していた。朝、昇降口で彼女の学生証が反応すると、今日の予定が廊下の案内端末へ同期される。
一時間目の教室。移動経路。昼食の受取口。競技練習の対戦相手。帰寮時刻。廊下で同級生に呼び止められても、玲奈は立ち話を三分で切り上げる。
図書委員に新刊展示へ誘われると、端末を確認してから「来週水曜なら十三分あります」と答えた。冗談だと思った図書委員は笑った。
玲奈は笑わなかった。十三分を、本当に空けたのだ。
九条玲奈の一日は、十五分単位で完成していた。起床、六時。
体温と睡眠深度の送信、六時五分。朝食、六時二十分。糖質四十二グラム、たんぱく質二十四グラム。卵は加熱時間まで指定。
登校経路は二つ。雨天時の迂回路は一つ。校内で立ち寄れる場所は、授業棟、図書館、競技管理棟、食堂、生徒会室。
予定外の場所へ十五分以上滞在すると、理事長室へ通知が飛ぶ。
「監獄ですね」
「健康管理表です」
玲奈は即答した。仮契約の初日。
僕たちは記録係資料室の端末を挟んで座っている。
専属記録係には、選手の体調、対局履歴、公開契約、予定表を閲覧する権限がある。質問を設計するには必要な情報だ、と規則には書いてあった。必要という言葉は便利だ。
本人が望んでいなくても、多くのことを通せる。
「休日の予定まで、理事長が決めるんですか」
「父が決めているのではありません。学業、健康、競技成績を維持するために最適化されています」
「誰が最適だと判断したんです」
「専門家です」
「専門家を選んだのは?」
「父です」
「同じです」
「父は必要な環境を整え、判断は各分野の専門家に委ねています」
玲奈の端末へ通知が入る。水分摂取量、予定比マイナス百二十ミリリットル。
彼女は会話の途中で、机の水を正確に半分飲む。
「喉が渇いていたんですか」
「不足通知が出ました」
「聞いたのは、あなたの感覚です」
玲奈はコップを置く。ほんの一瞬、答えが遅れた。
「同じことです」
「違います」
「少なくとも、私にとっては同じです」
玲奈は端末を閉じようとする。僕は画面の端に出ていた予定を指した。
「今日の十七時二十分から十七時三十五分。『記録係との自由面談』」
「何か問題が?」
「自由に十五分の上限がある」
「無制限の自由は、ただの未管理です」
言い切る声に、皮肉はない。本気だ。
彼女は、この生活を窮屈だと思っていない。それとも、思わないようにしているのか。
昨日から、その違いが気になっていた。
「一試合の仮契約を結ぶ前に、確認したいことがあります」
「昨日、署名しました」
「契約開始は最初の公式戦登録時です。まだ解除できます」
「解除したいのですか」
玲奈の指が、閉じかけた端末の縁で止まる。平常時の彼女なら、質問ではなく断定する。
解除するなら、どうぞ。その程度に言うはずだ。
「判断材料が足りません」
「なら、集めればいいでしょう」
「《クエスチョン》で?」
「あなたの専門です」
玲奈は端末を開き直した。僕の方へ画面を向ける。
「ただし、質問文の意味は一義的に登録してください。後から『そういう意味ではなかった』は認めません」
「当然です」
僕はすぐに質問を書かなかった。昨日、僕は彼女に、自分で転入を決めたかと問われて負けた。
今日は逆だ。玲奈自身の答えを確かめる。
彼女の生活には、自分で選んだものが見当たらない。食事。
進路。交友。
対局。睡眠時間まで父親の管理下にある。
それを幸せだと言うなら、嘘に決まっている。そう考えた時点で、僕は質問を見つけていた。
* * *
認識校正室には、窓がない。白い机と二脚の椅子。中央に小型の《ミラー》。壁の時計だけが、秒針の音を立てている。
賭け金のない適性確認対局。勝敗は公式戦績へ記録されない。ただし質問、回答、判定は、仮契約の判断資料として双方に保存される。
嶋崎教授が質問文を読む。
「『幸せ』とは、外部の客観評価ではなく、回答時点における本人の主観的な生活評価を指す。『信じている』とは、その評価を自分の認識として保持していること。よろしいか」
「はい」
玲奈の返事は早い。僕も同意する。
定義は明確だ。逃げ道はない。
僕は彼女を見た。
「あなたは今、自分を幸せだと信じていますか」
玲奈は、瞬きすらしなかった。
「はい」
その答えを聞いた瞬間、僕の中では宣言が終わっていた。毎日の行動を管理されている。
選ぶ前に、正解を置かれている。父親が決めた人生を歩かされている。
そんなものを幸せだと信じられるはずがない。
「嘘です」
《ミラー》の表面を光が走る。勝利後の場面まで、頭の中ではできていた。
判定はLIE。玲奈は、自分が不幸だと薄々知っていたと認める。
僕は契約を断るか、彼女の生活を変える条件を出す。どちらを選ぶかは、その後に考えればいい。
一秒。二秒。
判定が浮かんだ。TRUE。
予想していた未来が、音もなく消えた。指先から熱が抜ける。
胸の内側だけが遅れて強く打ち、測定帯を巻いていない僕の方が判定されている気がした。時計の秒針だけが動き続ける。
僕は表示を見たまま、意味を理解できなかった。
「判定、TRUE。回答者側の勝利」
嶋崎教授の声が遠い。
「そんなはずはない」
口から出ていた。対局中に声を荒らげたのは初めてだった。
「再判定を」
「機器異常はない」
「質問の解釈が――」
「登録時に双方で確認した」
「でも、彼女の生活は」
そこで、玲奈が測定帯を外した。留め具の小さな音が、僕の言葉を切る。
「私の生活が、何ですか」
「ほとんど全部、父親に決められている」
「だから?」
「自由じゃない」
「自由でなければ、不幸なのですか」
「少なくとも、幸せだと言い切れる状態じゃない」
玲奈は立ち上がらない。机の上で、両手を重ね直す。
声も姿勢も崩れていない。だから余計に、次の言葉が刺さった。
「あなたは、私が不幸だと思いたかっただけです」
玲奈の右手の爪が、左手の甲へ浅く食い込んでいる。平静ではない。
それでも、声を崩さず僕へ返している。
「違います」
「違いません」
即答ではなかった。玲奈は一度、息を吸った。
「私が不幸なら、あなたの推理は正しい。私が救われるべきなら、あなたが質問する理由もできる。だから、私の答えより、あなたにとって都合のいい私を信じた」
「僕は、あなたを救うなんて」
「言っていませんね」
「なら」
「言わなくても、質問には出ます」
玲奈は《ミラー》のTRUE表示へ指を向ける。
「相馬くん。あなたが当てたかったのは、私の答えではありません。あなたが作った私の答えです」
否定する言葉を探す。見つからない。
僕は、彼女の生活を見て不幸だと判断した。判断した後で、質問を作った。
玲奈がどう認識しているかを確かめるためではなく、僕の判断を《ミラー》に証明させるために。質問者が先に答えを決めていた。
父親と同じだ、という連想が浮かび、すぐに消した。同じだと決めつけることまで、今の僕には許されない。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる。
「あなたの認識を確認する対局で、僕の価値観を正解として押しつけました。再発防止のため、今後は反証候補を二つ以上――」
「相馬くん」
玲奈が遮る。
「それは、私が受け取りやすいように整えた謝罪ですか」
顔を上げられない。非を明示する。原因を説明する。改善策を示す。
謝罪として正しい順番を並べただけだ。今、僕が言いたかったことは何だ。
「……分かりません」
ようやく出た言葉は、謝罪ですらなかった。
「そうですか」
玲奈は怒らなかった。
「では、分かってから続きを聞きます。今は、その答えを私に作らせないでください」
胸の奥に残っていた言葉が、行き場を失う。けれど、さっきの整った謝罪より、この沈黙の方が嘘ではない。
「仮契約は」
声がうまく出ない。玲奈は椅子の背から離れた。
「解除しません」
「なぜ」
「あなたが今、間違えたからです」
意味が分からず、顔を上げる。
「間違えない人を探しているのではありません。自分の間違いを、装置や相手のせいにしない人を探しています」
玲奈は扉へ向かう。開閉センサーが反応する直前、足を止めた。
「ただし、次に私の答えを先に決めたら、契約は終わりです」
扉が閉じる。校正室に、TRUEだけが残った。
僕は記録画面を開く。質問文。
回答、はい。宣言、嘘。
判定、TRUE。どこにも機械故障を示す数値はない。
玲奈は、本当に自分を幸せだと信じている。僕はもう一度、彼女の生活記録を開いた。
管理された予定ばかりを見ていた時には、切り捨てた記録がある。十三分しかない図書委員の展示へ、本当に十三分だけ立ち寄った。
練習相手が負傷した日は、自分の自由時間を使って保健室まで付き添った。
対局後の満足度欄には、勝敗とは別に「相手が自分で質問を作った試合は有意義」と本人が入力している。父親の予定表の中でも、玲奈が何も感じていないわけではない。
楽しい時間も、誇りも、誰かを気遣った選択もあった。僕は管理の証拠だけを集め、彼女の幸福を示す記録を、例外として捨てていた。
それが父親に与えられた認識だったとしても、今の彼女の中では本物だ。他人が偽物だと断じた瞬間、その人もまた玲奈の答えを奪う。
僕は椅子へ座り直し、さっき自分が口にした「そんなはずはない」を思い返す。あれは反論ではない。
自分の正解を否定された子供の声だった。




