第3話 自分で決めましたか(後)
私的対局用の《ミラー》は、公式卓より小さい。黒い円盤が二人の間へ置かれ、僕の左手首に測定帯が巻かれる。
「質問文の意味を登録します」
嶋崎教授が端末を操作する。
「『自分で決めた』とは、入学を選んだ決定的理由が、本人自身の希望にあったこと。保護者、推薦者、故人の期待に従っただけの場合は含めない。双方、異議は?」
「ありません」
玲奈が答える。僕は一拍遅れて、同じ言葉を返した。
この確認だけで、質問の輪郭が見える。入学。
希望。故人の期待。
玲奈は僕の転入経緯まで調べている。今朝、寮からこの部屋へ来るまでにも手掛かりはあった。
僕の段ボールは、まだ封を切っていない。選択科目の申請は全て「学校推奨」に丸をつけた。
部活動希望欄は空白。昨日、玲奈に転入理由を聞かれた時、僕はこう答えた。
――判断力育成に適した教育環境だからです。
学校案内の一頁目と、一字違わない文だった。本当の理由は、もっと単純だ。
母が亡くなって七年後、鳳凰院学園から推薦状が届いた。差出人欄には、母がかつて所属していた研究財団の名があった。
叔父は「美琴さんも望んでいたはずだ」と言った。担任は「断る理由はない」と言った。
僕は、誰も困らない方へ署名した。来たいと思ったかは、考えなかった。
「質問を」
玲奈が、僕の左手首ではなく顔を見る。
「相馬零司。あなたは、自分でこの学園へ来ると決めましたか」
答えは決まっている。僕自身が決めたわけではない。
だから「いいえ」と言えばいい。それで僕は真実を答える。玲奈が「真実」と宣言すれば、彼女の勝ちだ。
ならば、玲奈が望んでいる答えは何だ。彼女は僕を専属記録係にしたい。
昨日、自分で選ぶ人間を探していたと言った。ここで「いいえ」と答えれば、僕は彼女の求めた人間ではなくなる。
期待を裏切る。契約を断る正当性は得られても、彼女が僕を選んだ意味を否定する。
思考が、いつもの順番へ滑る。相手が欲しい答えを探す。
失望させない返答を作る。自分の意思は、その後だ。
「残り、十秒」
喉が動く。
「はい」
口にした瞬間、分かった。これは嘘だ。
僕は、自分で決めていない。母が望んだと誰かに言われ、その言葉を否定しなかっただけだ。
玲奈は、すぐには宣言しなかった。僕の顔から、左手首の測定帯へ視線を移す。
「確認しておきます」
宣言前の発言は、質問への条件追加でなければ許される。
「あなたが今『はい』を選んだのは、私がその答えを望んでいると思ったからですか」
「それは二問目です」
「答えなくて構いません」
玲奈は僕の沈黙を、勝利の根拠にはしなかった。用意していた入学願書を開きもしない。
僕が嘘だと自覚していることだけを確かめるように、一度まぶたを伏せる。それから、ほんの少しだけ眉を下げた。
「嘘です」
黒い円盤に文字が灯る。LIE。
公式戦でもない小さな部屋で、昨日より大きな敗北音がした気がした。
「一勝一敗ですね」
玲奈が測定帯を外す。
「なぜ、僕が嘘を選ぶと分かったんです」
「分かってはいませんでした」
「なら、賭けた?」
「はい。あなたは昨日、用意された質問を捨てた。けれど今日、私が望む人物であろうとすれば、用意された答えを選ぶかもしれない」
「矛盾しています」
「人は、勝負で選べても、関係では選べないことがあります」
僕は何も返せなかった。昨日の三枚目は、自分で選べた。
今日の「はい」は、玲奈に失望されたくなくて選んだ。どちらも僕の口から出た答えだ。
片方だけが、自分のものだった。
「あなたは、僕がこの学園へ来たくなかったと判断したんですか」
「いいえ」
玲奈は首を横に振る。
「願書の空欄と借り物の志望動機から分かるのは、あなたが自分の希望を決定理由にしなかったことだけです。来たくなかったのか、怖かったのか、誰かを安心させたかったのか。それはあなたにしか分かりません」
「僕にも分かりません」
「では、私が決めません」
昨日、僕は彼女の嘘を当てた後、なぜ嘘を選んだのかまで知ろうとした。玲奈は僕の嘘を当てても、その理由を自分の答えにしない。
その差が、少し痛い。
「嬉しそうですね」
「事実を確認しただけです」
「口元が上がっています」
彼女は指で口元を押さえた。すぐに、昨日と同じ完璧な表情へ戻る。
「あなたの誤認です」
「《ミラー》を使いますか」
「今の発言は、対局登録しません」
僕は負けた。なのに、少しだけ腹が立つだけで、嫌ではなかった。
誰かに答えを暴かれたのに、逃げ道を塞がれた感じがしない。玲奈は、僕が嘘をついた理由まで勝手に言わなかったからだ。
「契約書を読みます」
「署名は?」
「賭けていません」
「覚えています」
玲奈は契約端末を僕へ戻した。その動きが、わずかに速い。
* * *
契約書を三頁まで読んだところで、昼休みになった。玲奈は当然のように食堂へ向かい、僕も当然のようについていくことになった。
鳳凰院学園の食堂は、料理人の経歴を壁へ飾るくらいには自意識が高い。その入口に並ぶ券売機だけが、駅前の定食屋と変わらない電子音を鳴らしている。
僕の前には二十七種類のメニューが表示されていた。日替わりAは栄養効率がいい。
日替わりBは提供時間が短い。カレーは列の流れが速いが、白い制服シャツへ飛ぶ危険がある。
うどんは安全だが、午後の授業前に空腹になる可能性が高い。後ろに六人。
平均待機時間を考えるなら、三秒以内に決めるべきだ。だからこそ、失敗しない一品を選ぶ必要がある。
画面右上で、注文待機時間が増える。
「相馬くん」
「考えています」
「後ろの方々も、それは理解しています」
背中へ視線が刺さる。僕は日替わりAへ指を伸ばし、止めた。
玲奈は横から押さない。彼女の手には、すでに食券がある。
健康管理番号A―七。鶏胸肉の蒸し物、温野菜、玄米百二十グラム。
「それは自分で選んだんですか」
「今日の運動量に適した献立です」
「質問への答えになっていません」
「今はあなたの番です」
玲奈は自分の食券を伏せた。
「カレーか、うどん」
「勝手に絞らないでください」
「決めてはいません。二択にしただけです」
「二択にした時点で誘導です」
「では、二十七択へ戻しますか」
後ろで誰かが咳払いをした。厨房から香辛料の匂いが流れてくる。
朝から何も食べていない胃が、勝手に反応した。僕はカレーを押す。
電子音。券が一枚、下から出た。
「空いていたからです」
「カレーの列は、うどんより二人多いですよ」
「回転率が高い」
「匂いがした時に、お腹が鳴っていました」
「聞き間違いです」
「《ミラー》を使いますか」
昨日と同じ言葉を、今度は玲奈が返す。僕は食券を取った。
選んだ理由を認めるだけなのに、対局で嘘を暴かれた時より気まずい。けれど、カレーを選んだ指先には、昨日三枚目のカードを選んだ時と似た熱が残っていた。
受取口でカレーを受け取る。一口目は、想像より辛かった。
水を飲んでも舌が熱い。玲奈は向かいで、決められた量の玄米を等間隔に口へ運んでいる。
「選択を後悔しましたか」
「していません」
「額に汗が出ています」
「味と判断の正しさは別です」
「便利な理屈ですね」
「あなたに言われたくありません」
辛い。それでも、不思議と次の一口をやめたくなかった。
失敗したかもしれない選択を、自分で食べきる。その程度のことが、少し面白い。
食堂の端の席に座ると、玲奈は契約書をもう一度開いた。
「正式契約の前に、三日間の仮契約を提案します」
「また用意された選択肢ですか」
「いいえ。断る、三日試す、条件を書き換える。少なくとも三つあります」
彼女は僕の前へ電子ペンを置く。
「今回は、どれを選びますか」
断る理由はある。質問で人を追い込む仕事だ。
玲奈は僕の過去を調べている。彼女の目的も分からない。
それでも、昨日の三枚目と、今のカレーを思う。一度くらい。
誰かが望んだ答えではなく、自分が確かめたい方を選んでもいいのかもしれない。僕は契約期間の欄を「三日」から「一試合」に書き換えた。
「一度だけです」
「十分です」
玲奈が署名欄へ指を置く。
「相馬くんは、人の答えなら見つけられるのに、自分の答えだけありませんね」




