第2話 自分で決めましたか(前)
勝率九十九%の女王を倒した翌朝、僕はその女王から雇用契約書を突きつけられていた。
「断ります」
「まだ一頁目ですよ」
「表紙に『専属記録係契約』と書いてあります。目的は十分です」
「契約は、目的ではなく条件を読むものです」
玲奈は僕の前へ端末を滑らせた。場所は競技管理棟の小会議室。
白い壁。白い机。窓の外には手入れされすぎた中庭。向かいの玲奈だけが、黒い髪と制服で切り抜かれたように見える。昨日拾った灰色の猫は、どこにもない。
鞄の口が、妙にきっちり閉じられているだけだ。
「僕は記録係になりたくありません」
「理由を聞いても?」
「質問で人を追い込む仕事だからです」
人が欲しがる答えを読むのは、難しくない。教師は反省を望む。親は安心を望む。友人は同意を望む。
相手が欲しい形へ言葉を整えれば、たいていの会話は壊れずに終わる。逆もできる。
相手が守りたいものを先に見つけ、そのために選びたくなる答えを作る。昨日の玲奈にしたことだ。
勝負なら技術と呼ばれる。日常でやれば、ただの誘導だ。
「僕は、相手が自分で答えたように見える質問を作れます。だから、仕事にしたくない」
玲奈の指が契約書の端をなぞる。
「できるから、しない?」
「おかしいですか」
「いいえ。できない人より信用できます」
「褒めても変わりません」
「褒めたつもりはありません。危険性を理解していると評価しただけです」
「昨日、私を追い込んで勝った人の発言とは思えませんね」
「一度やったことと、続けたいことは別です」
自分で言ってから、その言葉が胸のどこかへ引っかかった。続けたいか。
僕は昨日の対局を、嫌だったとは思っていない。黒い卓。三枚のカード。予定されていない三枚目を選んだ瞬間。
あの小さな高揚を、否定する言葉も見つからない。
「相馬くん」
玲奈が端末の一箇所を指で叩く。
「記録係は質問を命令する役職ではありません」
契約書の横に、競技規則が展開された。
RULE 6 記録係。
公式戦では、選手一名につき記録係一名を任命できる。記録係は対局前に、過去記録、利害、候補質問、宣言方針を記したカードを一枚提出できる。
対局開始後の発言は禁止。違反すれば即時失格。
「選手が、そのカードどおりに質問する義務は?」
「ありません」
答えたのは玲奈ではない。部屋の隅で湯飲みを持っていた老教授だった。昨日の審判役だ。名前を嶋崎というらしい。
「選手は読む、捨てる、別の質問を作る。どれでもよい。記録係はあくまで提案者じゃ」
「質問を書かないカードにも、意味があるんですか」
僕は規則の末尾にある一行を見つけた。
RULE 6-c 空欄カード。
嶋崎教授が、湯飲みを机へ置く。
「『提案なし』という意思表示になる。ただし、選手が登録時間内に自分の質問を作れなければ、その時点で不成立敗じゃ。空欄は安全策ではない。勝敗を選手へ返す、いちばん危ないカードだよ」
玲奈は説明を遮らない。それどころか、僕が規則を読む間、手元の契約書から指を離している。
選べ、と言っているらしい。その態度まで計算かもしれない。
「それでも断ります」
「では、一問だけ」
「勧誘に《クエスチョン》を使うんですか」
「昨日、あなたが勝った方法です」
「昨日は、あなたが先に対局へ呼びました」
「今日は私が質問者です。公平でしょう」
「公平の定義が雑です」
玲奈は、そこで初めて口元をわずかに緩めた。
「私的対局なら、記録係資格の有無にかかわらず双方を選手として扱えます。嶋崎教授に立会人をお願いしました」
僕は教授を見る。教授は湯飲みを持ち上げて顔を隠した。
断るべきだ。玲奈は僕のデータを事前に調べている。昨日の対局で、それは分かった。
一方、僕は彼女のことをほとんど知らない。質問者と回答者の有利不利以前に、盤面が違う。
「賭け金は?」
それでも、口から出たのは拒絶ではなかった。
「私が勝てば、契約書を最後まで読む。あなたが勝てば、収集したあなたの個人資料を削除し、二度と勧誘しません」
「その資料には、何が入っていますか」
「入学願書、面接記録、旧校の成績、選択科目、寮申請、購買履歴」
「最後は昨日からでしょう」
「水だけを買い、味を選ばなかった記録です」
「水は飲み物です」
「無味を選んだのではなく、選ばずに済むものを買った」
「推測です」
「だから、質問します」
「読むだけですか」
「署名まで賭ければ、あなたは『強制されたから』と逃げるでしょう」
胸の内側を、細い針で突かれた気がした。
「逃げるつもりはありません」
「では、受けられますね」
まただ。相手が欲しがる答えの形を先に作り、その中へ僕を立たせる。
この少女は、僕と同じことをする。
「受けます」
今度は、自分で選んだつもりだった。




