第1話 質問は、一つだけ
残り、三十秒。講堂正面の巨大表示が、無音で切り替わる。
00:00:30。一秒減るたび、五百人分の沈黙が重くなる。
僕の前には、磨かれた黒い石のような卓がある。判定卓――《ミラー》。
その向こうに座る少女は、背もたれへ一度も体重を預けていない。九条玲奈。
鳳凰院学園二年首席。公式対局百二十一戦、百二十勝一敗。勝率九十九%。長い黒髪も、膝の上で重ねた指も、制服の襟元も、画面に表示された数値と同じくらい隙がなかった。
九条玲奈 128,400Q。
相馬零司 0Q。
どう見ても、対局ではない。公開処刑だ。
僕がこの席へ座らされたのは、転入式が終わって十二分後だった。壇上で校長の話を聞き、二年C組の列へ案内され、まだ隣の生徒の名前すら知らない。そこへ玲奈が現れた。
五百人の視線が集まる中、彼女は名簿を見ずに僕の名を呼んだ。
「相馬零司。あなたを、私の記録係選抜対局へ指名します」
最初は、自分と同姓同名の誰かがいるのだと思った。
鳳凰院学園の記録係は、選手の一問を設計する参謀だ。対局記録、契約、利害を読み、相手がどちらの答えを選びたくなるかを組み立てる。実績が必要な役職だ。
僕には一戦の記録もない。Qポイントもない。
この学園では、0Qは単なる数字ではなかった。寮室の選択権がない。研究設備の予約権がない。推薦枠の抽選にも参加できない。
何より、誰からも価値を賭けられていないという表示だ。列の後ろで笑いが起きた。
――女王の気まぐれだ。
――負け役くらい、転入生で十分だろ。
玲奈は笑いを止めなかった。僕を庇う言葉も使わない。
ただ、講堂正面の《ミラー》を指した。
「私に勝てば、一〇〇〇Q。負けても、あなたから失うQはありません」
「代わりに、何を失いますか」
聞くと、彼女は初めて僕をまっすぐ見た。
「私があなたを選ぶ理由を、知る機会です」
対局を断れば、その理由は分からない。受ければ、五百人の前で九十九%の女王に処理される。
どちらも、玲奈が置いた選択肢だった。僕が着席すると、係員が三枚のカードを運んできた。
一枚目と二枚目には質問が印刷されている。三枚目だけが空白。質問候補を準備した者の名はない。
だが、玲奈は最初から、一枚目を選ばせるつもりだった。僕が用意された道を歩く人間かどうかを見るために。
「質問登録まで、二十五秒」
審判役の老教授が告げる。この学園で序列を決める《クエスチョン》のルールは、説明するだけなら簡単だ。
質問者は、相手へ一問だけ質問する。回答者は三十秒以内に「はい」か「いいえ」で答える。
その後、質問者は、その答えが回答者本人にとって真実か嘘かを宣言する。《ミラー》の判定と一致すれば質問者の勝ち。外せば回答者の勝ち。
客観的な事実を当てるゲームではない。相手が、自分の答えを真実だと信じているか。それとも、虚偽だと知りながら口にしたか。
それだけだ。だから心を読めなくても勝てる。
相手が、どちらを選びたくなるかを読めればいい。僕の手元には、三枚の白いカードがある。
一枚目。
――あなたは、僕を記録係にしたいですか。
弱い。玲奈が僕を必要としていても、それを公言する損失が小さすぎる。真実も嘘も、好きな方を選べる。
二枚目。
――あなたは、今日より前から僕を知っていましたか。
もっと弱い。知る、という言葉が広すぎる。名前を見た。資料を読んだ。会ったことがある。どれを意味するかで答えが変わる。
曖昧な言葉は、質問者ではなく回答者に逃げ道を与える。
「十五秒」
玲奈の指先が、膝の上で一度だけ動いた。視線は僕の顔ではない。
一枚目のカードへ落ちている。
「時間がありません。焦って、最初に思いついた質問を選んでも構いませんよ」
声音は穏やかだった。親切な助言にも聞こえる。
けれど、彼女は一枚目を見ている。僕に、その質問を選ばせたい。
なぜだ。答えは、今朝から三つあった。
一つ目。午前八時十七分。
転入手続きのため校門へ学生証をかざした瞬間、端末に見慣れない権限表示が出た。《九条玲奈・専属記録係候補/生体ID仮登録済》
僕が玲奈と初めて顔を合わせたのは、午前十時二分だ。二つ目。
対局規定には、玲奈が勝った場合だけが書かれていた。勝者・九条玲奈は、相馬零司を専属記録係候補として指名できる。
僕が勝った場合の処理は空欄。通常なら、選抜者が敗れれば指名権は失効する。なのに、この対局だけ、その手続きが設定されていない。
三つ目。開戦前、審判端末の進行予定を見た。
勝敗分岐は二つある。九条玲奈勝利――専属記録係任命面談。
相馬零司勝利――専属記録係任命面談。どちらへ進んでも、行き先が同じだった。
この勝負は、僕を選ぶためのものではない。すでに選んだ僕を、試すためのものだ。
「十秒」
僕は一枚目を裏返す。玲奈の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
安堵。敗北を恐れた反応ではない。
予定された答えから、僕が外れたことへの安堵だ。二枚目も伏せる。
そして三枚目を持ち上げた。そこには、まだ一文字も書かれていない。
「質問を登録します」
僕はペン先をカードへ落とす。誰かが用意した候補ではない。
今、僕が選ぶ。それだけのことが、胸の奥をわずかに熱くした。
「登録完了」
老教授がカードを受け取り、質問文を読み上げる前に意味範囲を確認する。
「対象時点は本対局開始前。『決めていた』とは、勝敗結果にかかわらず、相馬零司へ専属記録係就任を打診する意思を確定していた、という意味でよろしいか」
「はい」
僕が答える。玲奈も、顎を一度引いた。
質問が講堂の全モニターへ映る。僕は彼女を見た。
「この対局が始まる前から、勝敗に関係なく僕を記録係へ誘うと決めていましたか」
ざわめきが起こる。質問の意味に気づいた者から、息を呑んだ。
玲奈が「はい」と答えれば、選抜対局が形式だけだったと認めることになる。鳳凰院学園競技規則第十二条。
選抜の公平性を自ら否定した選手は、その選抜に基づく任命権を失う。玲奈は僕を誘えない。
だが「いいえ」と答えれば、対局前の仮登録と進行予定に反する。彼女自身は、知っている。
僕を誘うと決めていたことを。真実を言えば目的を失う。
嘘を言えば、勝負に負ける。残り時間が、彼女の頭上に表示される。
00:00:27。玲奈はモニターを見ない。
僕を見たまま、口を開く。
「いいえ」
迷いのない声だった。会場の空気が止まる。
僕は彼女の表情を読む必要がない。書類と手続きと、彼女が守りたい任命権が、答えを決めている。
「宣言を」
老教授が促す。
「嘘です」
黒い卓の奥で、細い光が走る。玲奈の右手首に巻かれた測定帯。音声記録。神経反応。回答時の自己認識。
すべてが一秒未満で照合される。判定卓の中央に、白い文字が浮かんだ。
LIE。遅れて、講堂が割れた。
誰かの椅子が倒れる。歓声と罵声と笑いが混じる。僕の学生証へ、一〇〇〇Qの移転通知が届く。玲奈の公式戦績が書き換わる。
百二十二戦、百二十勝二敗。勝率表示が、九十九%のまま小数点以下だけを失った。
「仕込みだろ!」
観客席から声が飛ぶ。
「転入生に規定を見せて、わざと負けただけだ!」
別の場所からも同意のざわめきが広がる。勝った僕ではなく、負けた玲奈の名誉を守るための言葉だった。
玲奈は席を立つと、観客席へ向き直った。
「本対局の質問登録、回答、宣言、判定に異議はありません」
講堂が静まる。
「私が規定を利用され、私が嘘を選び、相馬くんが的中させました。敗北を他人の仕込みに変えることは、勝者にも敗者にも失礼です」
自分の敗北を認める声に、震えはなかった。僕を持ち上げるでもない。自分を卑下するでもない。
結果だけを、自分のものとして引き受けている。僕の端末が連続で震えた。
知らない生徒からの連絡が、三十件を超えている。次の対局で質問を作ってほしい。
玲奈の弱点を教えてほしい。今なら五千Q払う。
昨日まで0Qだった僕へ、急に値札がついた。どの依頼も、相手を負かすために僕を使いたいと書いてある。質問の先にいる人間のことは、一行もない。
僕は全件を未読のまま閉じた。玲奈は、僕が勝てると証明する前から僕を選んでいた。
その理由だけは、他の依頼より確かめる価値がある。この人は、誰かに用意された答えを嫌うくせに、用意された完璧さを崩さない。
矛盾している。だから、もう少し知りたいと思った。
その感情へ名前をつける前に、僕は息を吐く。勝った。
なのに、対面の玲奈は悔しそうではなかった。むしろ、判定が出た瞬間だけ、まぶたを静かに伏せた。
長く息を止めていた人間が、ようやく呼吸を許されたみたいに。
「質問があります」
対局終了の電子音に紛れないよう、僕は少し声を上げた。
「どうして、わざわざ嘘を選んだんですか」
「あなたが今、説明したでしょう」
「勝負上の理由ではなく」
玲奈は椅子から立つ。黒髪が肩を滑った。
「相馬くん。勝者が、敗者の答えをすべて知れると思わないことです」
それだけ言って、彼女は講堂を出た。正しい。
僕は彼女の嘘を当てた。彼女を理解したわけではない。
講堂を出ると、獲得した一〇〇〇Qの利用案内が端末へ届いた。西寮の二人部屋から一人部屋へ変更――九百Q。
食堂の月間栄養プラン――三百Q。図書館閉架書庫の利用権――五百Q。
競技記録閲覧権――八百Q。昨日まで何も選べなかった僕に、急に四つの選択肢が増えた。
どれが得かは計算できる。寮室は毎日使う。図書館の記録は今後の対局に役立つ。食事は現金でも買える。期待効用だけなら、閲覧権が最も高い。
では、僕が欲しいものは何だ。申請画面の前で指が止まる。
後ろに並んだ生徒が、わざと聞こえる声で言った。
「女王に勝つ頭はあっても、ポイントの使い方は分からないらしい」
反論は思いつく。選択を保留する合理的な理由も作れる。
結局、僕は何も押さずに端末を閉じた。一度くらい、誰かの用意した正解ではなく、自分が欲しいものを選びたい。
そう思ったのに、欲しいものの形が分からなかった。
* * *
鳳凰院学園は、校舎の中にまで無駄な豪華さがある。講堂脇の回廊には白い柱が並び、その一本ごとに名家の寄付者名が金文字で刻まれていた。
その末端に、場違いなほど普通のカプセルトイ機が置かれている。透明なケースの中には、丸い猫のマスコットが六種類。
金色、白、三毛、黒、茶虎、灰色。機械の横の回収箱には、空のカプセルが四つ重なっている。
玲奈の手には、灰色の猫が一つ。制服のポケットが、不自然に三箇所ふくらんでいた。
何色を狙っているのかは分からない。少なくとも、灰色ではないらしい。
僕が通りかかった時、玲奈は機械の前にいた。さっきまで五百人を黙らせていた学園女王が、百円硬貨を入れる向きで二秒迷っている。
見なかったことにした方がいい。そう判断して、歩調を落とさず通り過ぎようとした。
背後で、カプセルの落ちる音がした。
「……また」
ごく小さな声だった。足が止まる。
振り返ると、玲奈は灰色の猫を手にしていた。丸い耳。眠そうな目。商品一覧には、小さく「シークレット」と書かれている。
玲奈は僕に気づく。次の瞬間、猫を制服の背へ隠した。
対局中より速い。
「何も見ていません」
「まだ何も聞いていません」
「なら、結構です」
彼女は機械から離れる。背中に隠したまま歩こうとして、灰色の猫を落とした。
柔らかな樹脂が床で一度跳ねる。僕は拾う。
からかう言葉は、いくつか思いついた。勝率九十九%でも、欲しい色は引けないんですね。
四回目ですか。外れですか。
どれも言わず、手のひらへ載せて差し出した。玲奈は受け取らない。
「それは、外れです」
「四回ともですか」
玲奈の目が細くなる。
「数えたのですか」
「回収箱に四つあります」
「観察力の無駄遣いです」
「対局以外では止められません」
「今から公式記録にしますか」
「勝率九十九%の女王が、猫を四回外した記録を?」
「あなたのQを没収できる質問を考えます」
対局中と同じ声音なのに、耳だけが少し赤い。僕はそれを指摘しなかった。
「一覧にはシークレットとあります」
「製造側の評価です。私の評価ではありません」
「では、好きなんですか」
「質問は、一つだけでは?」
「対局は終わりました」
「だからといって、無制限に答える義務はありません」
玲奈はようやく猫を受け取った。指先が、僕の手のひらへ触れる寸前で止まる。
直接触れないよう、器用に耳だけをつまんだ。そのまま鞄へ入れるのかと思ったが、彼女は灰色の猫を一度だけ見た。
対局中にはなかった、年相応の迷いが目に残る。
「相馬くん」
「はい」
「今朝、質問候補を三枚渡したのは私です」
やはりそうか。一枚目と二枚目は、僕を誘導するために用意されていた。
「三枚目は空白でした」
「ええ」
玲奈は猫を握り込む。
「よかった。あなたは、用意された答えを選ばなかった」




